4 感覚指向 - Startup - b

「えーであるからして、二進数の減算は、減数の補数ほすうの加算によって計算できる。ポイントは、すべての数値の桁数けたすうを合わせる点であり、補数を求める際もこれに注意すること」


 徳長とくなが教授の声が響く。


 ここは情報学部のある十号館の、四〇六教室だ。比較的大きな教室で、緩やかなカーブをえがくように、無機質な白色の長机が床に固定されている。


 長さが短い辺が隣合う机どうしのあいだは、段差の低い階段になっていて、教室奥中央の教卓に対して輳射状そうしゃじょうに建築されている。上から見ると、角度の大きい扇形だ。


 教授は解説をしながら、電子黒板に投影された、テキストの〈NOT(0101)+0001〉という部分に赤いアンダーラインを引いた。


 二〇三七年、ICTアイシーティーの波は国内の大学、小中学校、高校のほぼすべてに及んでおり、おこなわれる講義のほとんどは、このように電子黒板が用いられている。


 板書のたぐいは不要で、講義内容は余すところなく電子データ化される。講師が教鞭きょうべんを振るう姿も動画として記録される。


 それらのデータは学生や教職員がアクセス可能なサーバにアップロードされて、後で参照できるようになっている。


 ゆえに、講義に出席しなくても学習可能である。しかし、出席日数は決められているため、全講義を休むことはできない。


 ちなみに出欠は、学生証に埋め込まれたICタグによって、遠隔から自動的にチェックされている。学生証は、スマホにインストールするアプリ版のものが基本だ。


 昨今は珍しいが、スマホを所持していない学生に向けて、カード形式の学生証も発行している。ただし、発行手数料として五百円ほど取られてしまうが。


 授業においてノートをとるという文化はもはやすたれつつあるわけだが、生徒・学生らは、ただ無為に聞き流して過ごすわけではない。時代の主流は、なんといっても学修者主体学習法アクティブ・ラーニングだ。


 タイミングをみて、天井のプロジェクターから、学生たちが前にする白い机に課題を映し出す。学生たちはその問題を解いてゆく。


 ときには一人で、ときには複数人で解答する。


 答えの記述には専用のペンを使う。指でなぞるよりペンの使用が推奨されている。指への負担を避けるとともに、滑らかに机の上を移動できるように設計してあるからだ。


 解答欄を埋めて〈完了〉のボタンをタップすると、OCRオーシーアール(文字認識技術)によって解答が収集され、瞬時に採点される。隣の人と交換して――だとか、後ろから集めて後日返却――だとか、そんな古典的な手法はとられない。


 さらに、間違えた部分について、丁寧な解法が机上で示される。その場で自分の誤りをすぐに把握し、確実な理解へとつなげるのだ。


 さらに、理解が不足している点をAIがまとめ上げて、個人個人の復習教材を作り出す。自分自身で問題文を作成するという手間を省いてくれるわけだ。


 また、バックグラウンドでは出欠席率しゅっけっせきりつや習熟度合いが統計的に分析されていて、成績アップの助言や進路の指針として活用されている。ただし、後半の仕様は中高生がメインターゲットなので、大学生にはあまり関係がない。大学院に進もうとしている学生にとっては重要なファクターとなりうるかもしれないが。


 蓮たちの前にも課題があたえられた。


 ……あれ? これって……


 蓮は戸惑った。大樹や翔太郎とボソボソと私語をしていたら、突然目の前に大蛇が出現したかのような恐怖をあじわった。


「おい…… これって小テストじゃ……」


 口に手を添えて、大樹に小声で話しかける。


「ああ。Sowaソーワ-Portalポータルに書いてあったとおりだろ?」


 Sowa-Portalというのは、課題や休講・教室変更情報などが掲載される学生用および教職員用のWebサイトだ。


 春におこなう履修登録や健康診断の結果参照等についてもこのWebサイトを使う。


 ちなみに、この時代になっても、入学式・卒業式は桜の時季に催されている。過去には、各大学で秋入学制を導入しようとするうごきがあったが、政府からの協力、ギャップイヤーの生徒や学生への対応、就職活動における企業の募集・採用など様々な問題を解消できず、自然消滅してしまった。


 大樹の回答を聞いて、急いでスマホを操作して当該のWebサイトにアクセスする。


「うっわッ、まじだ…… 見落としてた…… えーこういうのってメールで来たりしないの?」


 小テストという、単位に直結するようなイベントは、事前に電子メールで通知してくれてもいじゃないかと蓮は憤った。


「え? あ? おまえ、こなかったのか?」


 大樹はすっと自分のスマホに受信されたメールを見せてきた。そこには、〈情報処理概論小テストについて〉という件名で、日付と範囲などが細かく記されていた。


「え? ウソだろ、オレきてないよ!」


 少し声が大きくなってしまったのか、徳長教授が注意を促す。


「おい、そこ、静かに! このテストはグループワークではなく、一人で解答してもらう。今までの内容をどれだけ学びとれているか、コイツのできで、君らの姿勢が峻別しゅんべつされる」


 蓮は泣きたかった。机の下でスマホを操作し、メールボックスを必死に検索していた。……ないじゃん、ないじゃん、きてないじゃん。大学側の不手際じゃないのか。……なんでオレだけ。まじでひどい……


 すると、大樹がスッと挙手した。


「先生! 霜山しもやまが今日の小テストのメールきてないらしいです!」


 代わりに訴えてくれるとは、大樹、なんていやつなんだ。翔太郎に女の子とつきあうためのアドバイスをするなと言ったときは、ひどいやつだと思ったが撤回しよう。


「なんだ、そんなことか。最近は滅多にないが、昔は電子メールの遅延や消失が結構あったものだ。それに今日の小テストについては、Sowa-Portalにも掲載していたはずだ」


「……そのWebにも、昨日見たときはってなかった気がするんですが」


 蓮はささやき程度の声音で独りちた。


「なんにせよ、しっかりと確認しなかった本人の不備。それに普段から勉強してさえいれば――」


 バツンッ――と電子黒板やプロジェクターの電源が不意に落ちた。照明もパッと消える。


 教室がざわめく。小テストの前ということもあるし、この一斉停止は講義の一貫ではないだろう。


 まさか、ペーパーテストを始める気なのかと勘違いをした学生もいた。


「静かに!」


 暗闇くらやみの中、徳長教授が再び叱責しっせきした。


 ピンピンッと蛍光灯が明滅して、照明が復活した。電子黒板に映像が映り、机の上に小テストが戻ってきた。


 トラブル発生でそのまま小テストがなくなるかと期待していた蓮は、憮然ぶぜんとしてうつむいた。大樹がポンポンと背中を軽く叩いて励ましてくる。


 だが――


「今日の小テストは中止だ。あとは自習とする。電子黒板とプロジェクターは使わないように」


 そう言うと、機器の電源をすべて落として教室を去っていった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る