frg-6 ルーズ・コントロール
「つまりだね、これは催眠アプリではなく、SSHクライアントようなものだよ」
ベンチで横に座る少女がスマートフォンのディスプレイに映るチープなデザインのアプリを指差しながら言った。
傍から見れば、恋人同士が仲睦まじく地図アプリを覗いているように見えるかもしれないが、非常に厳しい状況にある。
そもそも俺は、この怪しげなアプリを使ってこの少女を操ってみようと、アプリの指示通りに動かしたら、こうなっている。
ネットワーク上にあるサーバーを遠隔操作するための仕組みがSSHだ。
この催眠アプリがSSHクライアントなら、人間はサーバーということになる。
「人間がコードで表現できると?」
「電子データ化した人間はコードで表現できるね」
「待て、じゃあ、俺達は電子データだってことか」
「大前提はそうだね」
「何を持ってそれを証明する?」
俺はこの事態をドッキリだと思いたかった。
であれば、俺はこの少女と、どこかにあるカメラに向かってごめんなさい、といって終わりだ。
「そうだな。何か飲みたいものはあるか?」
「冷たいコーヒーが飲みたい。頭がどうにかなりそうなんだ」
そうか、と少女は頷くと正面にある自販機を指差した。
「派手な干渉は僕らにも許可されていないから、これぐらいで信じて欲しい」
ひとりでにボタンが押され、がこん、と缶の落ちる音がした。
よし、と少女は頷いて、コーヒーの缶を差し出してくる。
かばんも大きなポケットもないのにどこからこの缶を取り出したのか。
混乱する俺に構わず、少女はメロンソーダの缶をあけ、一口飲んでから、
「さて、このアプリなんだけど」
「待ってくれ、こっちはアイデンティティがクライシスしているんだぞ!?」
まだトリックで済む範疇だ。
頼むからトリックだと言ってくれ。
「あやしげなアプリで遊んで、相手のアイデンティティを揺るがしていたんだ。これぐらいどうってことないだろう?」
にこにことしながら少女は言った。
俺はコーヒーの缶を開けて、中の冷たい液体を一気に飲み干して、
「未遂だ。試そうとして失敗したんだから」
言い訳をする俺を少女はにこにこしたまま、しかし、声は少し低くして、
「故意なんだから重いよ。さて、このアプリの出どころを知りたいんだ。教えてくれるね?」
目を隠すこともできず、俺は正直に答えることにした。
「怪しげなサイトから落としてきたんだよ」
少女は表情をフラットにして、顎に手を当てて考え始める。
「そうすると、誰かが意図的に広めているのか。種を明かせば凡ミスとしか言いようがないけど……」
この手の凡ミスといえば、
「パスワードの初期値がpineappleだったか」
「password1234のような感じだ。今、大慌ててパスワードの書き換えをしている」
あまり変わらない。
昨今の安物のルーターですら初期値はランダム生成されているというのに。
妙な笑いをこらえながら、
「で、電子人間の俺に詳しく」
「まずは君が電子データだったとして、君は君だ。何からできているか、何から生まれたかは些事だろう?」
少女は眉を下げ、やや困ったという表情で、しかし、その声には心配の色が混じっていた。
「神林長平作品の登場人物ばりの強度を求めないでほしいが」
ため息交じりに俺はいった。
作者名を聞いて少女は話がはやい、と頷いて、
「そうそう、僕は上位存在じゃない。君たちがソフトウェア寄りなら僕らはハード寄りだから低位存在だ」
「影響でかいじゃねえか」
その言葉に少女はゆっくりと首を振って、
「影響が出ないように僕たちは努力をしている」
と自信ありげにいった。
「清く正しいインフラか」
「そう。たまにパスワードの初期値が雑だったりするだけで」
「辛いな」
今度は俺の言葉に苦笑いした。
自分の職務と権限に忠実な低位存在だが、俺と大きな違いはないのだろう。
「今まで気にしなかったんだ。寝て忘れたまえ」
「それは、流石に無理だ」
寝て忘れるには事が大きすぎる。
そして、時間が経てば解決するという話でもない。
「忘れられないなら、克服しよう」
「はい?」
「クローズするまで付き合ってもらうよ」
これは、時間をかけて誰かが対応する話だ。
自分が対応するのだから、どんな原因だろうが結末だろうが納得できる。
それに罪滅ぼしにはちょうどいいだろう。
もっとも、少女が同じことを考えているかはわからないが。
「では、どこへ行きましょうか、永久追跡刑事殿」
「クリームパンの包装は持ってないんだ。刑事ならアンパンと牛乳が定番だと思うな」
「本の趣味があっているようで何よりだよ」
少女は勢いよくベンチから立ち上がると、くるりとまわってこちらを向いて、
「まずは小腹を満たして、作戦会議といこうじゃないか。君のおごりで」
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