5.

「風呂わかすから入れ」


 昨日は何だかんだでうやむやにしたが、幼女は見るからに汚れているしはっきり言ってにおうので俺がそう言うと、幼女は黙って頷いた。

 風呂場に行き、風呂を入れ始めるとすることがない。

 普段は帰ってきたら寝るだけの部屋にはテレビやゲームといった娯楽品はない。

 仕方なく俺は体を休めているか、と横になろうとしたとき幼女から俺に話しかけてきた。


「……名前、何て言うの」


「は?俺?」


 この部屋には二人しかいないのだから当然そうなのだろうが、俺は聞き返す。

 幼女は頷いた。


「何て呼べばいいのかと思って」


 俺は一瞬考える。

 名前を教えるのに抵抗がないと言えば嘘になるが、こんな何の実害もないような幼女に教えるぐらい差し支えないだろうと判断する。


蕗島ふきしま浮名うきなだ。何とでも呼べ」


 そうつっけんどんに返すと、幼女はフッと鼻息を漏らした。

 表情が一ミリも動いていないからわからないが、今笑ったのか?

 俺が怪訝な顔をしていると、幼女は言った。


「浮き輪みたいな名前だね」


「言ってろ。っていうかそんなこと言われたの初めてだ」


 上手いこと言っているようでけなされたようにしか思えない。

 俺がぶっきらぼうにそう言うと幼女は言った。


「じゃあ、うっきー」


「じゃあってなんだ、じゃあって」


 正直年下の女にそんなあだ名で呼ばれるいわれはないが、何でもいいと言ったのはこっちなので特に反論もしない。


「お前の名前は?」


 俺はほんのお愛想でそう聞いた。

 名前を聞いたことを、この後何度後悔するか。この時は全く考えずに。


「しろ」


 幼女は小さな声で、だがきっぱりとそう言った。


「しろ、な。犬みたいな名前だな」


「そうだね」


 揶揄やゆするような俺の言葉に、幼女――、しろは頷いてみせる。


「ほんとうにね」


 そう言って、自嘲じちょう気味に笑った。


 そして、俺に言う。


「うっきー。なぜ私を助けてくれるの?」


 唐突だなと思ったが、俺は考えるまでもなく答える。

 警察に連れて行くのはとっくに考え直した。


「突然家にガキがいました、なんて言ってガキを警察に突き出したら俺が怪しいって疑われるに決まってんだろ。一応出世コース狙ってるから世間の目ってやつがあんだよ」


 俺は寝転んだ体勢のまま、内心肩をすくめる。


「だから、自分で解決できそうなことは自分で解決しようと思ってな。それにこちとら本職のお巡りさんだから、人の手を借りるまでもなくお前の家見つけるぐらい造作ねえさ。ここに置いているのは単に俺の気まぐれだ」


 どうせ訳アリなんだろうからな、という言葉を飲み込む。


「……そう、なんだ」


 適当な説明で納得したのかしろは沈黙する。

 俺も質問に質問を返した。


「お前のその傷を付けたのは親なのか?」


 イエスなら家に帰りたいと思うはずもないだろう。ここまで踏み込んでしまった以上、変に気を遣う必要もないだろうと俺は無遠慮に聞く。


「親なんていないよ」


 どういうことかわからないが、しろはそう言った。オーケイ、訳アリ少女の訳アリ度が増した。


「家に帰りたくはないんだよな」


「……」


 しろは黙って頷く。


「もう一度聞くぜ。お前にそんな傷を付けた野郎は誰なんだ」


 今度は返答をせず、幼女は無反応を貫いた。

 了解、わかったぜ。


「いいぜ。話したくないならそれでも。こっちで勝手に調べるだけだ」


 四方八方手詰まりな感じしかしねえが、まあ何とかなるだろう。いびつな事象は正常な形に戻ろうとどこかで必ずほころびが現れるものだ。

 そして、その綻びの元凶を見つけ次第、悪党は正義という大義名分の元に、しばき倒す。

 この仕事の唯一充実しているところだ。

 ジャバジャバとお湯が流れる音が聞こえ始めた。


「お、風呂わいたみたいだな。とりあえず、風呂入れ。今日は俺の服貸すから明日服買いに行くぞ」


 幸か不幸か明日は非番だ。

 そこでふと我に返り、俺は何でこいつの世話を焼いているんだろうと思った。

 赤の他人、あまつさえ自分の家に不法侵入していたようなやつ相手に。

 誤解がないように先に言っておくと、俺は幼女が好きとかそんな趣味はないし、行くところがない子供が可哀想だから救ってやろうとかそんな大層なことを思っているわけでもない。

 ネグレクト、身体的な虐待。

 警察なんて組織に属していればこんなことは日常的によくあることだ。

 胸くそ悪い話だが、ありふれていると言ってしまってもいい。

 もう一度、幼女の姿を見て俺は思った。

 そうだな。言ってしまえば。

 昔、まだ実家で暮らしていた頃に庭先に怪我をした猫が入ってきたことがあった。

 猫は決して人間に擦り寄ろうとはしなかったが俺は自分の余った飯なんかをその猫に与えていた。

 目に付いたから、助けてやっただけ。そしてそいつは元気になったのか死んだのか知らないがいつか目の前からいなくなった。

 目に付いたから、手を差し伸べてやっただけ。

 自己満足だろうが、その時俺は気分が良かった。

 多分、その時と同じ事をまた俺は繰り返そうとしているのだろう。

 風呂場に行って蛇口を締めて湯を止めてくると俺は幼女に言った。


「先入れ。俺は掃除するから後に入る」


 そう言うと幼女は迷ったように視線をうろうろさせたが、意を決したように頷き、そのまま風呂場へ行った。

 しばらくするとシャワーを使う音が聞こえ始めた。

 ようやく休めるかと目を軽くつぶり、寝ない程度に瞑想でもするか、と思った矢先だった。


「ひゃああ」


 何か変な声がした。

 俺は仕方なく立ち上がり風呂場に行く。


「おい、どうした」


 何が起きたかは知らないが、緊急事態なら仕方がないと俺は勢いよく風呂場の扉を開ける。


「いた、痛い」


 湯気の中に平坦な小さな身体が見えた。

 どうやら大きな問題はなさそうだが、やたらに目を瞬かせながら幼女は非難げに言う。


「こ、これが目に入って」


 指さしているのはシャンプー。

 ……どうやら洗うのが下手らしい。


「……洗ってやるから前向いてろ」


 そう言い、俺は背広を濡らしたくないので手早くジャージに着替えてから風呂場に戻る。

 やれやれ世話が焼けることだと思いながら髪を洗ってやる。

 髪を洗い終わる前から何度か逃亡を図ろうとしたので、どうやらこいつは風呂が嫌いらしいということがわかった。

 風呂から上がらせると昨日に着ていたのとは別のTシャツを着せて、俺が入れ替わりに風呂に入って出てくると、しろは寝落ちしていた。

 時計の針は日付が変わった頃を指している。子供には眠い時間だろう。

 寝息を立てる顔を見ていると、長いまつげに縁取られた大きな瞳が印象的な可愛らしい顔であることが改めてわかる。ありきたりな言い方だが、美少女だ。

 俺はしろに布団をかけると、明日に備えて眠りについた。



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