第9話 私の世界は誰かの異世界

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「『人魔アウローラ』……彼らは、自然界に存在する精霊と全く同じ身体構造でありながら、人間と同じ姿をして生まれてしまう存在です。その生まれる条件も場所も不定であるため数も少なく、目撃例となるとより稀少な彼らですが……」



 滔々とうとうと、魔法生物学担当の教師、アドリー・マーズホーンが、「人魔アウローラ」なる存在の解説をしていく。俺は必要な情報だけを手元の羊皮紙ようひしに書き込みながら、教本に載った人魔アウローラの姿をまじまじと眺める。

 そこに載っているのは、筋骨隆々きんこつりゅうりゅうな体を白い学生服のよう《・・・・・・・・》な衣装に包んだ《・・・・・・・》、屈強くっきょうな男の姿だった。



〝影に至るまで焼き尽くしてやるからよ――――!〟



「…………」

「彼らは、基本的なスペックは精霊と変わらず、高等魔法生物に分類されます。存在そのものが魔力であるため、ほぼ無尽蔵とも言える膨大ぼうだいな魔力量を誇ることもあり、身体能力は人間のそれを遥かにしのぐと言われます。また非常に中庸ちゅうような性質を持っており、生育環境によっては人間に友好的にも、敵対的にもなり得ます。定住を好まないので、先も言った通り発見例は少なく、連続した接触は難しいですが、精霊にも人間にもなれなかった彼らを研究・保護しようという動きは少しずつ広がっており……」



 俺が出会った赤髪の男。

 あれは恐らく、この人魔アウローラで間違いない。

 あの男は厳密には人間でなく、魔法生物に分類されている魔物モンスターだったのだ。



「…………人魔アウローラ、か」



 正面切って戦っていたわけではなかったが、あの赤髪はリセルと同等、それ以上の力を持っているように思えた。

 テインツも、ナイセストも、トルトでさえも。対峙たいじしただけで体を萎縮いしゅくさせるような圧を放ってはいなかった。あいつが無意識にれ流していたらしいあの殺気を、俺はいまだにはっきりと覚えている。

 どの程度の力を持てば、奴と対等に渡り合えるのだろうか。

 ナイセストでは、きっと奴には勝ち得ない。トルトからいつか感じた圧はあいつに近いものがあったが、普段の様子から見ても、どうもそれほどの実力者には見えない――雑魚甚ざこはなはだしい俺が格付けする、というのも滑稽こっけいな話だが――。

 何が言いたいかというと。

 ナイセスト程度を目標に据え、それにさえリセルに「勝てないだろう」と評される俺の実力は、まったく、もう、一分たりとも、本当に、お話にならないレベルだということだ。



 ……というか、ただの素人だ。

 体格のいい男とか、複数人の女・子ども相手とか、犬とか。魔法のない一般人にさえ、俺はまだ勝てまい。格付け以前の問題である。



 だが、感覚はつかんだ。



 シャノリアやマリスタにはただの暴行だなんだと言われているが、あのテインツ・オーダーガードとの戦いは俺に様々な経験を与えてくれた。

 魔法を使える者の戦い。

 実戦での魔法の使い方。

 攻撃の避け方。

 戦いへの心構え。

 命が減っていく感覚。

 死へと近づく感覚。

 魔力切れの弊害へいがい

 他にも色々あるが、こうして数えていくとキリがない。



 まだまだ、学べることは山ほどある。当面はこの学校を利用し、力をつけるんだ。

 そして、いずれ必ず――――



「ケイっ!!」



 声に、我に返る。

 気が付くと授業は終わっており、目の前には、俺の顔をのぞき込んでいるマリスタがいた。



「はろー?」

「……何の用だ」

「わーでたでた『ナンノヨウダ』。ほんととっつきにくいんだから、あんたは――ゴハン! 今日こそ《・・・・》一緒に食べ行こ! テインツ君とのケンカのこととか、言いたいことはいっっぱいあるんだから!」



 そう。「今日こそ」。

 この赤い髪とローブの少女は、性懲しょうこりもなく俺を昼食に――ひどいときは夕食まで――誘いに来るのだ。物好きな奴なのか、ミーハーなやつなのか。はたまた馬鹿か。馬鹿かもしれない。



「悪い。これから図書室に行くんだ」

「うわー……またァ? こないだも行ってたじゃん。てかゴハンの後でいいじゃん」

「一刻も早く覚えてしまわないといけない魔法があってな。それに最近腹が減らないから、昼は抜いてるんだ」

「えーちょ、昼抜いてるってあんた、そんだけガリ勉しといてお腹減らないってオカシイんじゃ……って、もういないし! ケイーっ、ケイったらー!」



 マリスタの声を背に受けながら教室を抜け、廊下を移動する。目指すはすっかり行きれた図書室――



「おや、二階へ行くのですかぁ。同じ階です、奇遇ですなぁハッハッハ」



 ――食堂があるのと同じ、プレジア第二層。



「……鬱陶うっとうしいぞ。俺は食堂には行かないと言ったろう」

「んでも図書室も二階じゃんかー。そこまでオトモしたってバチはあたんないでしょーよ一人で行かないでよ」

「お前と一緒に行動する意味がない」

「意味はありますとも。感情は積み重なるのです」

「感情?」

「そう。『一緒にいるとたのしー!』って感情がね。おっ今私いいこと言ったぞ」

「…………」

「あっ、ちょ、無視はツライんですけど!」



 ……疲れる。頭脳労働よりよっぽど疲れる。

 どうしてこういう意味もなくカロリーを振りまくような存在が、学校には若干名確実に存在するのだろう。彼らの騒音に耳を塞いだことは数あれど、その賑やかしさに助けられた経験は一度もない。

 こんな奴らとでも、一緒にいるだけで楽しい、なんて言ってくれる人種がいるのだろうか。唐辛子とうがらしでも食べて数日黙っていて欲しい。



「でもさケイ。あんた確か、夕飯一緒した時も量すっごく少なくなかった?」

「お前基準で測るな大食おおぐらい。俺にはあれで十分一食いっしょくなんだよ」

「うっそ。私の半分もあったあれ。てか別に、私大食いってわけじゃないし。野菜と魚とパンがこぶし一握りずつ、あとスープって感じだったじゃん。朝ガッツリ派とか?」

「だから、あの量で足りていると言っている」

「えええ、じゃマジであのくらいなの毎日のゴハンが!? うーわー……せてるわけよね。うらやましい」

「なんでだよ。お前も別に太ってるわけではないだろう」

「まあデリカシーのない! 女子は永遠のダイエット戦士なのよっ」

「今のセリフはデリカシーとは関係……」



 ……って。

 俺は何を、マリスタに合わせてぺちゃくちゃとくっちゃべってるんだ。

 どうも流される。



「本当にやかましいなお前は。俺はお前みたいに暇じゃないんだよ。ただでさえこうして、通訳魔法でお前たちに負担をかけてるんだ。早く自分の足で立ちたいんだよ」

「え……ああ。そんなの気にしなくて全然いいって。外国語覚える苦労は、私もよく知ってるしさ。絶対覚えられる気しないもん……って、だぁれが暇人――――」



 一向に口を閉じないマリスタだったが、辟易へきえきした俺を助けるかのように転移魔法陣が視界をさえぎり、俺達をプレジア第二層、生活区画へと運ぶ。ここからは図書室と食堂とで道が分かれている。清々せいせいした気持ちでマリスタから離れる。



「ちょ、ケイっ」

「お前くらい友人が多かったら、昼のお供くらいすぐ見つかるさ。他を当たってくれ」



 背を向けたまま言葉を投げかけ、俺は人込みにまぎれた。




◆     ◆




「ぬぁァんにが『ホカヲアタレ』よケイのガリ勉! ぶあいそ!! 少食!!! イケメン!!!!」

(途中から悪口じゃなくなってる……)



 マリスタは昼食のトレイをガチャンと鳴らし、憤然ふんぜんと席に着いた。

 システィーナはそんなマリスタに一切テンションを引っ張られることなく、優雅にトレイをテーブルに置く。マリスタが大きく大きくため息を吐いた。



「だってさぁっ、だってさぁっ。人がせっかく心配してやってんのにさ」

「見破られてるんじゃない? 根っこの野次馬やじうま根性」

「親心と言ってほしいわっ。シャノリア先生は基本的に仕事で忙しいんだから、私があいつの面倒を見るっきゃないってのにさ。親心は子に理解されないってホントなのねっ」

(こんなお母さんヤだな……)

「まぁた人をそういう目で見るぅっ」

「ほらほら、ケチャップほっぺについた」

「んう」



 システィーナが手に紙ナプキンを取り、マリスタの頬についたケチャップを拭う。

 システィーナの母性溢あふれる容姿も相まって、その様は子のよだれを拭う母のよう。どちらが母親かといわれれば、十中八九システィーナという有様である。



「さてと。システィーナは、今日なんかケイの話、聞いた?」

「ううん……聞くには聞いたけど、ホントかどうかはわからないのばっかりだったなぁ。ケイ君がベージュローブのテインツ君に圧勝したとか、見たこともない魔法を使ったとか、あやうく殺し合いに発展するところだったとか。それをティアルバー君が仲裁ちゅうさいしただとか」

「へ、へぇ……ホントにウソっぽい話ね。ティアルバー君が誰かを助けるとか仲裁するとか、聞いたことないんですけど」

「でしょ?」

「ていうか、私が気になるのは……ケイが、見たこともない魔法を使ったって?」

「うーん……彼の情報って、実は出身からして伏せられてるしね。もしかすると、何か特別な魔法を取り巻く一族だったりして。なんてね」

(特別な魔法を取り巻く、一族……)



 なかなかに的を射ているかもしれない、とマリスタは思う。

 いかに保護者面をしていようと、圭はマリスタにとって、急に空に現れ降ってきた謎の少年に過ぎないのだ。しかも、記憶喪失という割に……マリスタには、ケイ・アマセが何かしら「目的」を持って動いているように思えてならない。



(そうよ。じゃなきゃ、誰があんなに勉強に一生懸命になるもんですか)

「どうしたのマリスタ。もしかして、ホントにそうなの?」

「え? い、いやぁ? そうでもないと思うよ?」

(ウソ苦手よね、この子……)

「んでも確かに、何か目的はありそうだなぁって思う、かなぁ?」

かないでよ……目的って、例えば?」

「例えば、うーーーん……あっ。飛び級? 最年少で王都おうとにあるグウェルエギア大学府に行って、名のある学者になりたいとか」

「うーん……学者になりたい人が義勇兵コースに入るかしら?」

「た、たしかに……んじゃあ、こんなのはどう? 人に語れない過去を持っていて、それを忘れる為にケイは義勇兵コースに入ったの。だがしかし、運命はケイに容赦ようしゃしない!! 過去を捨てた男に最初に下された任務は、なんと決別したはずの家族との対峙だった!! ケイの明日はどっちだ!!」

「………………」

「ああぁっ、だからその目やめてってぇ!」

「まあでも、アマセ君が義勇兵コースに入った理由はホントに謎だよね。魔法も知らないのに。風紀委員の男子達とケンカになったの、それが原因らしいし」

「ていうかそもそも、ケンカにならなくない?? だって相手は義勇兵コースのベージュローブ様ですよ。瞬殺しゅんさつされちゃうよ」

「でも、実際オーダーガード君と互角に戦ってるんでしょ?」

「ん、圧勝って話じゃなかったっけ?」

「…………わからないね」

「わからんねぇ…………あーもー! なんでごはんより図書館なのかなケイの奴はー!」

『今、俺のこと呼んだ?』

「今あのぶあいそナルシストの愚痴言ってんの!! 取り込み中だから話しかけないで――――」




◆     ◆




『ケ――――ケイさん。ご機嫌麗しゅう??』



 面白い顔で何かを告げるマリスタに――とはいえやはり自分の名前以外の言葉は解らないので――、圧のある笑みだけを返して、自分の口元を指さす。

 マリスタは口元と昼食ののったトレイを確認しはじめたが――誰がこの歳で食事で汚れた口など指摘してきするか――、システィーナは俺の指摘の意図を察したようで、指先を赤く光らせながらマリスタに見せる。マリスタは真っ赤な顔で俺をにらんでシスティーナにならった。お前が勝手に間違えただけだろ。

 とってきた食事にも全く手を付けず、マリスタとシスティーナは楽しそうに談笑していた、ようだ。話題はともかく。



「あれ、アマセ君。図書室に行ったってマリスタに聞いたけど――」

「あ、アマセ君が借りたいって言ってた本がちょうど貸し出し中だったの」



 システィーナの言葉に答えたのは、俺の背後を付いてきていた桃色の髪の少女、パールゥ・フォン。最近は昼休みによく図書委員の仕事をしていることもあり、こうして連れだって歩く程度には親交のあるクラスメイトになっていた。

 マリスタの目が丸くなる。



「パールゥ? あれ、今日って昼休み図書委員会の仕事だったんじゃ」

「うん。今日は昼休みの途中で当番が終わりだったから」

「で、なんでアマセ君と一緒にいるの? パールゥ」



 システィーナが意味ありげな視線でパールゥに問いかける……しとやかに見えて、意外と下世話な邪推じゃすいをする奴だな。

 パールゥはパールゥで顔を伏せてしまう。他意はないのだから堂々としていればいいのに。ぽかんとしているのはマリスタだけだった。

 ともあれ、いらぬ被害を受けているパールゥをこれ以上傍観ぼうかんも出来ず、助け舟を出す。



「目的地が一緒だっただけだよ、深い意味はないんだ――――俺が探してたのは君だよ、マリスタ」

「へぇっ?」



 ぽかんとした表情から一転、マリスタが不意に授業で指名された時のような声を上げる。

 見れば横にいるパールゥとシスティーナもあっけにとられている。何なんだ。この国のマナーにでも反したか。俺は。



「あの……そう緊張しないでいいんだけど」

「は、は、は。はい。なんすか」

「…………君に折り入って頼みがあるんだ。放課後、少し時間、いいかな」

「じ、じじ、時間っ?!!」



 ……人選を間違えたか。

 いやしかし、シャノリアが捕まらなかった以上、こいつくらいしか変に波風立てずに頼める相手がいない。まったく難儀な話だ。



「じ、じかんはありますがっ!! い、一体どうおつつつきあいすればっ」

「なんでそんなに緊張してるの……? ちょっと込み入った話になるから、そうだな……俺の部屋まで来てくれないかな」

『!!?』

「へやぁぇぅっ!??!!」



 悲鳴にも近いマリスタの声。

 喉元のどもとまでこみ上げた「やっぱりいい」という言葉をすんでのところで飲み込んで苦笑いする。今なんて言ったお前は。そしてどうしてパールゥ達まで顔を強張こわばらせてるんだ。



「……だ、ダメかな?」

「い、いいぃいいえっ!! い、行きますけれども!!」

「……アマセ君って、なんだかんだでマリスタと仲いいよね」

「……頼りにしては、いるよ」

「わ、わわわわかり申した!! ちょ、ちょっち準備がありまぬるのでっ!! 小生しょうせい放課後しばらく、おおおお時間いただいてもよろしゅうございますかぁっ!!」



 顔を赤青とさせて苦しそうにしながら、精一杯といった様子でそう告げるマリスタ。その力強い返事はありがたいが……準備って。これから死地にでもおもむこうってのか、お前は。

 そして通訳魔法よ。お前もどんな言葉に訳してるんだこいつの混乱を。

 一層この魔法の構造が知りたくなった。



「べ、別にそんな構えることでもないだろ……?」

「アマセ君。それはあまりにも解ってない発言だわ」

「……え?」



 システィーナが訳知り顔で首を振り、俺に向けて人差し指を立てる。



「ど、どういうことかな」

「その答えは自分で探して。ともかくも、ここは何も言わず了承しておくものなのじゃないかと、私はそう思うわ」

「そ、そうか……それじゃあ、わかったよ。待ってる」

「ま……まってて!!!」

「ま、マリスタ。……その。がんば!」

「っ、る!!!」



 パールゥと意味不明なやり取りを交わして、混乱赤毛は足早に駆けだす。



 ……何をどう頑張るつもりで、その動きなんだ。




◆     ◆




 あいつは一体、何を企んでいやがりますか。

 いやね。確かにあいつも私も多感な十七歳ですよ。色んなことに興味を持つお年頃なわけなのは重々承知なのですよ。

 とはいえ、ですよ?

 とはいえ……なにも友達とかその他大勢とかいる場所で、私にアプローチかけなくってもよくないですか、って話なのよ。

 どうすんのさ明日から。私はイケメンに部屋に連れ込まれた引く手数多あまたな罪深き乙女の仲間入りじゃないのさ。へへへ。

 じゃなくて。

 冷静にどうするんだ、マリスタ・アルテアスよ。



 私は今、ケイの部屋の前に立っている。そもそも、男子寮の中に女子が居ること自体が目立つ要因なのだからさっさと入ってしまいたいんだけど。人には心の準備というものがある。そして、私の心の準備はいつまで待っても整いそうになかった。

 薄い鉄扉てっぴ一枚。この向こうに、ケイの住まいが広がっている。

 そりゃあ一度は入ったこともあるし、あとで考えてみるとイケメンのベッドに寝転がったじゃん私ぎゃーとなったりもしたんだけど。もうあれから一週間くらい。

 きっと中は、すっかり男子の部屋に――つまり、私にとっては踏みおかしてはいけない一線へやになってしまっているに違いないのだ。

 入ったが最後、私はきっとこれまでの私ではいられない。そんな確信がある。ええ、ありますとも。

 とりあえず、身だしなみは整えてきた。着古してるローブも脱いできたし、きっと今私からは、想像もつかないような抜群ばつぐんのいい香りがするはずだ。きっと食べてもおいしい。



 じ ゃ な く て 。



 ばかか。ばかなのか私。ばかかもしれない。

 ばかかもしれなくても、その発想はあまりにもはしたない。誰とも気安くいたいけど、安い女ではいたくない。

 とにかく、クールに。おしとやかに。いつも通りの私でいるのだ。

 主導権を握られてはいけない。四大貴族の名に恥じぬ対応で、ケイの煩悩ぼんのうをコントロールしてやらねば――!



 すぅ、はぁ。と、深呼吸をする。

 息を吸い込むと、気持ちがつぶれて無心でいられる。

 誘われた時のような醜態しゅうたいは見せないわ。

 見てなさいよ、ケイ。

 あんたがこれまでどこでどれだけの女性を相手にしてきたか知らないけどね。

 あんたの思い通りにはいかない女なんだから、私は――!




◆     ◆




 ゴンゴン、と無遠慮ぶえんりょなノックが聞こえる。

 読んでいた本を閉じて本棚に戻し、俺はドアを開けた。



 ――一瞬、まだここに不慣れな女子が寮棟りょうとうを間違えたのかと思った。



 その女性ひとは控えめに光沢を放つ、温かそうなベロア素材のボタン付きワンピースを着ていた。

 われた髪は肩で柔らかく弾み、胸元へと落ちて揺れている。小さな肩が緩やかなシルエットを描き、急いでいたのか、涼しい印象を受けるUネックのえりぐりは左右がずれていて、右肩が少し見えてしまっている。両手は下げた位置で服を握り締めており、緊張が透けて見える。――要するに、目の前の少女は――ひどく、すきだらけな格好をしていた。

 ……というか、この赤毛の赤服女は。



「……どんな格好なんだ、それ。マリスタ」

「べ、別にっ? 放課後なんだから、私服にくらい着替えるしっ?」

「私服……そうか」



 私服というより、パジャマな印象を受けるんだがな……



 まあ、でも。



 チラ、と壁の時計を見る。気が付けば、随分ずいぶん長い間本を読みふけっていたらしい。日はすっかり落ちる時間となっていた。もう少し早くてもよかったのに。



〝――ちょ、ちょっち準備がありまぬるのでっ!!〟



 ……いや。それはあまりに勝手な話だな。

 俺にも生活のリズムがある通り、マリスタにもそれなりに「いつもの生活」があるだろう。それを考慮せずにその感想は浅薄せんぱくというやつだ。どれだけ断っても昼飯に誘いに来るお人好しな彼女のことだ。もしかすると、多忙の合間を縫ってここまで来てくれたのかもしれない。だとしたら、今こいつの行為を無下むげにするのは得策ではないだろう。



「……とにかく入ってくれ。悪いな、こんな時間なのに来てもらって」

「そ、そうよねっ。できればっ、もう二、三日前に声をかけてもらいたかったわ」



 そっぽを向きながらマリスタ。その顔はなんだか落ち着きがなく、余裕を欠いている。これは案外、俺の予想は当たっているのかもしれない。

 部屋に案内し――といっても、こいつが俺の部屋にいた時から、大した変化はないんだが――、簡素なテーブルセットに座るよう言う。マリスタはいやに慎ましい動作でスススと椅子へと座った。やはり緊張しているのか。

 それとも疲れてるのか? 実は学校で魅せている顔はやはり学校用で、家ではこんな感じに大人しいのかもしれない。

 ……それは、ないか。

 ないだろうか。



「悪い。普段頓着とんちゃくしないから、売店で買った安茶やすちゃしかないんだが。飲むか?」

「え、ええ。お願い――――あんまり変わってないんだね、中」

「そう目を見張って変わるものでもないだろう、借家しゃくやなんだから。内装にも興味はないしな。不快感がなければそれでいいと思ってるよ……にしても、今回は随分物静かじゃないか。もしかして、体調が悪いんじゃないだろうな?」

「そっ、そんなことはないけど!」

「だったらどうしてそんな余所余所よそよそしいんだ、今更。お前今、普段の様子とだいぶ雰囲気が違うぞ」

「え――――あ。……ふんいき、違う?」



 おず、と上目遣づかいでマリスタ。その仕種しぐさが妙に庇護欲ひごよくを刺激してきたものだから良くない。

 ……マリスタの奴、本当にどうしたっていうんだろう。

 替え玉じゃなかろうな。パールゥとか。システィーナの罠、とか。



「…………」

「っ、っ??!」



 目を細めて、少し、目の前のマリスタらしき人物をじっと眺めてみる。しかしその滑らかな赤髪あかがみは紛れもなくマリスタ・アルテアスその人の者で間違いない。どうやら替え玉では在り得ないようだ。



「なっ――――ちょ、ちょっとそれは急すぎ――」

「急……? 悪い、なんでもないんだ。茶を淹れる、少し待ってくれ」



 言って炊事スペースへと動き、新古然しんこぜんとしたシンクの水道からやかんへ水を注ぎ、コンロにかけてスイッチを押す。するとコンロの魔法機構が発動し、備え付けられた魔石が炎を適量噴き出す。もう何度も繰り返した問答だが、この世界にガスはないのだろうか。発見したら世紀の発見として取り上げられるのだろうか……というか、魔法というのなら、お湯をいきなり出したり出来そうなものだが。今度、シャワーの機構を調べてみてもいいかもしれない。



 ……風呂……。



「そっ、それで? どうして私なんかをその……部屋へ、呼んだわけっ?」

「ああ、そういえば話してなかったか。折り入って頼みがあるんだ」



 どこにでもあるカップをテーブルに一つ置き、テーブルをはさんでマリスタと対する。

 目が合うと、隙だらけの赤毛はいよいよ表情を硬くし、肩に力が入った。

 だからお前はなんでそう緊張してるんだ。



「……たっ、頼み?」

「ああ。シャノリアにも言ってみたんだが、断られた」

「え………………シャノリア先生にも?!?! 節操ナシ!!!」

「何の話をしてるんだ、お前。俺は魔法の話をしてるんだが」

「大体千年早いのよ、私やシャノリアせんせがそう安く手に入ると思ったら――――――まほう???」

「そう、魔法だ。マリスタ、俺に通訳魔法と翻訳魔法を教えて欲しい」

「――――つうやく、まほう???」

「そうだ」

「………………うそでしょ。じゃ私こんなカッコで来る必要なかったじゃない」

「………………何でその格好で来る必要があったんだ?」



 やかんが沸いたぞと鳴いた。

 マリスタも何故か泣いた。

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