第2話 魔女のいざない、俺は何も知らぬまま

1

「だから、その……よかったら、付き合ってもらえたらな、って……」

「悪い。俺はお前を、そういう対象として見ることは出来ない」



 使い古された言葉で、聞き飽きた言葉に応える。



 目の前の女子はゆっくりと息を吸い込むと、やがて目元をくしゃりとゆがませ――一生懸命に、作り笑いを浮かべた。



「そっか。うん、そっか……あはは。うん、ありがと」

「礼を言われるようなことはしてないよ」

「あ。そだよね。えっと……それじゃ、私、行くから」

「ああ。好きだと言ってくれて、ありがとう」

「――ッ」



 口元だけを曲げて、足早にかけていく女子。溜息ためいきとともに、呼び出された校舎裏を後にする。



〝――ごめんなさい、圭。ごめんなさい――――〟



 ――いつも以上に上の空だったのは、昨日の一件が頭を離れないからだ。



 突然現れた魔女。突然の口付け、そして突然の発光。



 あの言葉に、行動に――一体どんな意味があったのか。



「随分、そっけないんだね。君が告白断ってるとこ、初めて見たけど」



 ――なんだ。今日はやたら「揺さぶり」をかけてくる奴が多いな。忙しいのに。



 声がした方に視線を投げる。

放課後になり人通りも滅多にないはずの一階職員室前の渡り廊下。

そこから顔を出した担任が、神妙しんみょうな顔でこちらを見つめていた。



「……何か用ですか、先生」

「え、あ。や。ごめんね。ナイーブなとこに話しかけちゃって」

「別に。ナイーブなのはあいつの方でしょう」

「だって圭君、落ち着かなさそうな顔してるじゃない」



…………。



「相手のまっすぐな気持ちを拒否するんだもんね、やっぱり圭君も動揺しちゃうよね」

「………………」

「え。ご、ごめんって。そんな怒んないでよ」

「……何か用ですか。先生」



 先の言葉を繰り返し、用がないなら去れと暗に示す。

 担任はそんな心中を知ってか知らずか、困惑した顔であたふたし始める。

 何がしたいんだ、この人は。



「……何もないなら失礼します」

「昨日の、ことなんだけど」



 ――体が固まるのを感じた。



 振り返る。

担任は、何か意を決したように俺の目を見つめた。



「……先生。昨日、というのは」



〝――――『リセル』〟



「ええと……昨日先生、帰りに交番の前で倒れてるうちの生徒を見つけたの。その時、走っていくあなたの後ろ姿を見た気がしたんだけど……何か心当たりある? 別に指導とか聞き取りとか、そういうわけじゃないから正直に教えて欲しいんだけど」



 ……担任に気付かれないよう、静かに安堵あんどした。



〝――ごめんなさい、圭。ごめんなさい――――〟



「覚えがないですね。すみません、体調が悪いのでこれで」

「あ、圭君っ」



 担任の声には応えず歩き続け、学校を出る。

 足は自然と家路いえじを離れ、昨日あの少女――リセルに出会った場所へと向いていた。



 何が起こったかはいまだに解らない。きっと解りようがない。



だが昨日――俺がここであいつと出会い、何らかの「つながり」を得たのは間違いない。



あの少女は、きっとまた俺の前に現れる。そういう予感があった。



そして、俺はまたあいつに会いたいと思っている。



聞きたいことは山程あった。でも、それだけが会いたい理由じゃない。

自分の中でも上手く整理がついていなかったが――とにかく俺はあいつの存在を、なかったことには出来ないでいる。



 ゲームセンターを従業員用の勝手口から抜け、店の裏からほど近い高架下こうかした、その付近にある袋小路へと足を運ぶ。

不良たちのまり場になって久しい薄暗うすぐらい行き止まりに人の姿はなく、知らず落胆らくたん安堵あんどの入り混じった息を口からこぼしていた。



高架こうか上を電車が通る。

行き場を失ったゴミだらけの壁際から視線を外し、いまがたやってきた方向に目を向け――



「――先生?」



 ――一体いつから付いてきていたのか、さっき意識の外に追い出したばかりの担任がそこからおずおずとやってきていた。



「あ、いやあの、ごめん。別に付けてくつもりはなかったんだけど。今日、どのみち家庭訪問しようと思ってたし……ねえ、圭君? こんな人気のない行き止まりの場所で、一体何を見てたの?」



 ……体調が悪いと言ったでしょう、などと返そうとも思ったが。

場所が場所だ、何を言っても嘘くさい。

俺は観念し、当たりさわりのない話題を暴露ばくろしようと口を開いた。



「……昨日、ここであの交番に置いていった一年生が倒れてたんですよ。雨でよく周りを見てなかったから、あの一年生の私物があったら届けてあげないとなと思っただけです」

「じゃあ、やっぱり走ってったのは圭君だったの? もう、それならそうと嘘つかないで教えてよ」

「指導になったら面倒でしょう。それに誰がやったかも解らないのに、万が一女の人の先生に危害が及んだら嫌だなって、そう思っただけです」

「お、女の人って……あのね圭君。ずっと言おうと思ってたんだけど、先生は仮にも、あなたの先生なんだよ? もっと頼ったっていいんだってば。……というか今、露骨に私の機嫌きげん取って話を終わらせようとしたでしょう。気持ちは嬉しいけど」

「気を悪くしたならすみません。他意たいはないので、気に――」



 ――そう、担任に返そうとした時だった。



『アマセケイってのはテメェか? そこのキンパツ』



 俺の視界に、真っ白な服を着た長身ちょうしん赤髪せきはつが飛び込んできたのは。



『!?』



 圧に、俺と担任が同時に身を固くする。

 何が起きたかわからなかった。



 現れた・・・



 歩いてきたのでも、走ってきたのでもない。

まばたきの間に――目の前の男は文字通り、俺の視界に一瞬にして姿を現したのだ。



 驚愕きょうがくに数歩遅れ、ようやく担任が背後を振り向いて俺へと後退あとずさる。それを見てようやく、俺は呼吸を忘れていることに気付き――――思い出したようにき出した汗が、全身の毛穴をつらぬくのを感じた。



 火山の様に逆立つ赤い髪。

白い学生服とでも表現するべき服をまとい、両耳には赤いピアス。



その痩躯そうくの男が、何者かは解らない。面識もなければ、見覚えもない。

 そんな、全く記憶にない相手に――――俺は、これまで感じたことのない恐怖を感じていた。



 本能的に走る心臓。

荒れ狂う呼吸。

総毛立そうけだつという感覚。



 それが「殺意」という感覚であることを知ったのは――――すべてが終わってしまった後になる。



『なんとか言えよオイ。って……そうか』



 燃えるような赤い髪をらす男は、失笑しっしょう気味にニヤリと笑うと右手を少し上げ、色素の薄い人差し指の先を光らせる。



「――こうしねぇと通じるわけねぇか。なんせ世界が違うんだからよ」

「だ――誰なの? あなたは……!」



 先に口を開いたのは担任だった。



意識は彼女を止めるべきだと警鐘けいしょうを鳴らすが、俺の足は金縛かなしばりにでもあったかのように硬直し、微動びどうだにしない。

質問に答えず、打って変わった無表情で自分を見つめる赤髪の男に、担任はあろうことか――――ゆっくりと両手を広げ、俺を守るように立った。



「……あ? どういうつもりだ、そりゃ」



 ――家族が、オレンジ色の中に消えていく。



「――――――ッ」



 そうだ。あのときも俺は、こうして。



「……この子は、私が守る。い、命に、代えても……っ」

「――ほう。徒手としゅの人間が死に際に取る行動としては大層なもんじゃねえか。どんな腑抜ふぬけた世界にも気骨きこつのある奴ってのはいるもんだ、嫌いじゃねぇぜそういうの。だが――」



 赤い男が手をかざす。



そのてのひらの中に燭光しょっこうのような輝きが現れたかと思うと、それは眼前でみるみる人間の顔大の大きさにふくれ上がり、数歩離れていても肌がひりつくほどの熱を放ち始める。

空気を吹き込み始めたばかりの風鈴ふうりんごとく、赤銅しゃくどうに輝く溶岩の玉が死の気配をまとってひりつき、背を向ける先生に向けられている。



「――惜しむらくは、今回ばかりはそれが蛮勇ばんゆうだったってことだ」

「――――っ!!!」



 …………待て。



〝あんな白昼堂々、一切目撃証言のない火災事故なんか起こるワケがない!――そうだな、きっと誰かが魔法でも使ったんだろうな!〟



 炎が、人の手から、何の道具も無しに現れる。

それは文字通り、マホウだ。

そんなものが、本当に存在するのだとしたら、



「……まさか、」



あの爆発は。

俺の家族は。

 


「不運だったな、女。巻きえだが死んでくれ」



――――――――――ふざけろ。



 マホウなんてもんが、本当に存在して、



 ゲームよろしく人を殺す為に使われていて、俺が狙われていて、



「安心しな、誰も悲しませることはねぇ。影に至るまで焼き尽くしてやるからよ――――!」



 そんな非現実的なもので巻き添えを食って――――取り残される家族が、いるなんて。



「ッ!? 圭君ッ!!」



 無我夢中で先生を押しのけ、前に出る。



 圧倒的な熱波ねっぱが体に押し寄せ、溶岩の球体が目の前に迫り、男はいたって平静へいせいな顔でその火球かきゅうを――――



私の男・・・に手を出さないでもらおうか。『人魔アウローラ』」



 突如、火球が真上へと弾き飛ばされた。



『!!?』



 空気を切り裂いて雲間くもまへ消えていく溶岩の玉。

呆然ぼうぜんと空から視線を戻すと、男の横には――――ずっと探していた薄色うすいろの髪の魔女。



 赤銅しゃくどうを飲み込んだ空が、赤く赤く、ぜた。

 知らず、名を呼ぶ。

 あの出会いが、真実であることを確かめるように。



「リセル――――!」

「迎えに来たぞ。圭!」

「む、迎えにって――――?」

「生きていやがったのか、魔女ッ!!」



 赤髪の男が顔を険しくし、再び手に赤銅の火を宿らせる。俺は担任へ無我夢中で手を伸ばし――その手を薄色の魔女につかまれた。



「ボサッとするな!」

「おい、今お――――」



 内臓が重力に押しつぶされたように感じた。



(――――!!?)



 同時に感じる風。地面に落ちる衝撃。やたらと冷たい感触。

横には同じく何が起こっているか分からない様子の担任。

尻餅しりもちをついたまま見上げると、そこには昨日と同じく、ボロボロに破れたローブを申し訳程度に羽織はおっているリセル。

所々露出したその体は少女とは思えない肉感を持っており、俺はふと飛び込んできた暴力的なそれ・・にぎょっとして無意識に視線を下に――



「――――な」



 ――冷たい感触の正体を知る。



 俺達は今、高架こうか上。

先ほどまでいた場所から遥か高い、線路の上にいたのだ。



 馬鹿な、どうやってこんな所ま――



「でッ!?」

「ボサッとするな馬鹿ばか!」



 千切れそうなほど、腕を引っ張られる。

両足が地面を離れ、再び体が風を感じ始める。

俺はまたも担任と同じく――魔女に腕を引っ張られて線路上を進んでいた。



 まさかこの魔女、俺たち二人を連れてここまで跳躍ちょうやくしたとでも――――



『!!?』



 背後で爆音。担任と同時に背後を振り返る。

魔女の逃走にブレる視界に映る、先程まで座り込んでいた線路は炎に焼かれ――最早もはや高架の骨組みそのものが崩壊してしまっていた。



 その炎の幕を突き破るようにして、白い服の男が現れる。

男は一瞬視線を彷徨さまよわせ、線路を一直線に進む俺達を認めて笑った。



 ――理解しよう。もう疑いようもない。



 人を殺すのは意外と難しい。

高架は地震でもない限り壊れない。

命を狙われるなんて物語の中だけ。



そんな「現実」は――――存在しないんだ。



 人は一瞬で殺せる。

高架なぞやろうと思えば即座に破壊できる。

 俺達はまさに今、命を狙われている。

 俺の思う「常識」など、魔法を扱う者にとっては「非常識」でしかない――――!



「ジリ貧だな……」



 魔女の苛立いらだちと焦りが聞こえる。



……目を閉じて深く呼吸し、熱を持つ鼓動こどうを少しずつ、少しずつしずめさせ、開く。



手の中に火球を発生させている白い服の男を――敵を、見据みすえる。



「魔女。また攻撃が来るぞ」

「解ってる! 黙っていろ今集中して――」

「あいつはお前と違って、俺達を目で探してた」

「――何だと?」



 はっきりと、魔女の意識が俺に向いた。



「奴の視界から消えれば、隠れられる」



 火球かきゅうが放たれる。

 魔女は憎々しげに舌打ちし、手の中に生んだ黒い光を足元の線路に放ち――全力疾走しっそうから急停止、高架を横っ飛びに飛び降りた。

当然、俺達の体もそれに振り回される。



 やがて聞いたことのない破砕はさい音。鼓膜こまくを打ち鳴らす空気。俺達に次いで迫る音と土煙つちけむり。鉄の曲がる甲高い音、照り付ける火炎の明かり。

オレンジ色だった空は急激に雲を発達させてかげり、今にも雨のしずくを落とそうとしている。



 煙の中、俺は体を引っ張られ、瓦礫がれきに囲まれた路地へと投げ入れられた。

倒れると同時に飛び起き、ポケットの携帯電話を取り出しながら少女のシルエットに声を投げる。



「ゴホッ、ごほ……おい魔女、先生は」

「慌てるな。今治療してる」

「ち――」



 目をらすまでもなかった。

目の前で魔女に抱かれている先生の頭から、幾筋いくすじもの血が流れている。

瓦礫が頭に当たったのか。



「せ――」

「声を立てるな。……」



 魔女が生み出した水泡すいほうが、先生の頭をすっぽりと包み込む。魔女は疲労困憊ひろうこんぱいと言った様子で息を吐き、先生をそっと地面に横たえた。



「おい、これじゃ」

窒息ちっそくしないし傷はふさがる。下手に触れるな」

「……信じるぞ」



 そうこたえ、救急への電話番号を押しながら辺りを見回した。

依然いぜん土煙と瓦礫の音は断続的に続いているが、一先ひとまずあの赤髪せきはつの男が現れる気配はない。

 電話が相手とつながる。



「救急です。女性が一人、頭部打撲だぼくの出血、意識はなし。場所は八市之宮はちしのみや駅周辺高架下。高架が壊れて瓦礫が落ちてきた。駅後ろの大きなはいビルの周りです」

「…………さっきの指示といい。気味が悪いほど手際良いな」



 何かリセルが独り言を言っている気がしたが、聞こえない。

用件を伝え終え、通話を切った。



「……聞きたいことは山程あるが、今はいい。この後はどうするんだ、リセル」

「悪いが、愛しの先生の完治を待ってはやれないぞ。すぐに越界魔導えっかいまどうを使う」

「エッカイマドウ?」

「説明したいが時間がない、手短に言うぞ。圭、お前にはこれから、こことは違う世界に行ってもらう」



 ――ちょっと待て。



「どういう意味だ」

「そのままの意味だ。恐らく二度とこちらには戻って来られないだろう」

「そうじゃない」

「何?」

「先生はどうなる? 俺だけが助かるっていうのか」

「お前……こんな時に何を心配して」

「何をだと? 人の命がかかってるんだぞ」

「では諸共殺される気か? ここで、得体の知れない何者かに」

「っ、魔女、お前……!」



 パシャリと、水の弾ける音。

 見ればそこには、上半身が水にれ、水滴すいてきしたたらせながらき込む先生の姿があった。



「! 先生、」

「行って圭君。私はなんとか逃げ切ってみせるから。――ええと。魔女さん?」

「え……」



 一切物怖ものおじする気配を見せず、先生がリセルに話しかける。



「お願いです。どうかこの子を助けてあげてください。私の代わりに、どうか」



 リセルは数秒ほどたっぷりと固まっていたが、やがてその声に応えるように大きく息を吸い込み、先生から視線を外す。

手の平を下に向け、両手を前に突き出して目を閉じた。



「いくぞ。私の体に触れろ、圭!」

「先生、あんた」

「いいから行くの!」



 予想外に強い声音こわねで、先生が俺の言葉を打ち消す。

その顔は相変わらず頼りなく弱々しかったが――そのまっすぐな瞳に、俺は言葉を失ってげなかった。

 先生がかすかに笑う。



「そんな顔も、出来たんだね。……私は、結局あなたを理解してあげられなかったけど――この先きっと、あなたをちゃんと理解してくれる人が現れる。先生には解るの。だって、あなたはこんな状況でも、私を助けようとしてくれた。あなたのような優しい人を、人は放っておかないもの」



〝あなたはお母さんと同じ……いいえ。お母さんよりも――大きい優しさを持っている〟



「せ……」

「見つけたぞ、魔女めッ!!」

『!!!』



 土煙を突き破ってくる赤髪。

先より遥かに巨大な赤銅の爆弾が奴の手を離れ、凄まじい速さでこちらに迫る。



 ――待て。これは。



「くっ――不完全だが、仕方ないか――しっかり掴まっていろ、圭!」

「先生っ!!!」

「行きなさいッ!!!」



 先生に押され、リセルの体に触れる。

途端足元から白い光が立ち昇り、飛ぶように地面に屈みこむ先生の姿も、やがて見えなくなった。



「――――――っっ、」



 もう後戻りは出来ない。



 覚悟も理由も条理もない。何も知らない。



 ――あるいは、運命なんてそんなものだろうか。



行こうレディル行こうレディル行こうレディル渡りの園へアドウェナ・アウィス



 心地よく鼓膜を刺激するリセルの声。真っ白な空間で体が浮遊し、足場が消失していくのが分かる。

肌が露出したリセルの腕を情けないほどに握り締め、慣れない浮遊ふゆう感に身を任せ――



――ようとして、突如作用した斥力せきりょく――としか形容しえない、力のようなもの――によって、俺の手はあっさりと離れてしまう。



「くそっ、やはり――圭ッ!!」

「リセルッ!!」



 手を伸ばす。だが、届かない。



「――――『プレジアを探せ・・・・・・・!』」

「!?」



 斥力せきりょくに吸い込まれていく。

魔女が視界から消え、体が乱回転し、意識が振り混ぜられていく。



視界を光が支配し、意識が焼き切れるような息苦しさとまぶしさに限界を感じた時――――唐突に、視界が開けた。



 目の前には、青く清々しい空と雲。しかし感じた浮遊は一瞬。

 俺の体はすぐに重力を受け、下へ下へと音もなく沈んでいく――そう思った。



 体が、柔らかく冷たいものに包まれた。



『!? なっ、なん――』

『ちょっと?! 先生ッ、何ですかアレ!!?』

『わ、わからない――キミっ!』



 二つの女性の声。

あわてて体を動かそうと周りを見れば、俺がいるのは空中に浮く藍色あいいろの、ゼリーのような大きく丸い水泡すいほうの上――言うならばスライムか。



すべり落ちていく体を支えようとそのスライムを掴もうとするが、張力ちょうりょくが強いのかつかんだつかから手を滑りぬけていく。

ついに体はスライムから滑り落ち――その下にあった別のスライムに落ち、また深く沈み込む。

滑り落ち、沈み、また滑り落ちる。その度に冷やりとした感覚が肌に触れ、地上にいる女性と少女の声が右往左往する。



 なんだ。このいやにファンシーな感じのする状況は。

まるでウサギ穴に落ちたアリスのような――



 ――いや。そういえば俺はたった今、不思議の国に迷い込んだところだった。



『わわわわわわわわわわわ?!! 落ちてきます、落ちてきちゃいますよ先生っ!!』

『くっ……ええい、ままよ!』



 スライムが一斉に弾けた。



「!?」



 張力を失ったスライムは、全てただの水の塊と化す。空中で水のトンネルをたっぷりとくぐり、全身水びたしになって落下する。

 思っていたより早く、地面は間近に迫っており――真下には、両手を広げてこちらを見る金髪の女性の姿。



 馬鹿っ、こんな高さから落ちる男を女一人で受け止めたりしたら怪我けがを――!!



『きゃあっ!』



 案の定、俺を受け止めてよろけた女性と共に、水浸しの芝生しばふへと転倒する。

 俺の顔はぬかるんだ土へと突っ込み、体はぬるぬると柔らかい泥へと触れる。

俺は今度こそしっかりと地面を掴んで――――



『ひゃあぅひっ!!?』



 ――――地面を、掴んだはずだった。



『だっ、大丈夫ですか先生、と…………?!?』 



 異質の感触。

泥とは明らかに違う微かな弾力、熱、そして柔らかさ。



 泥から顔を上げる。目に映るのは涙目の美女の顔。水にれ、うっすらとけた服。



 じゃなくて。



 地面にあると思われた俺の体は、左手を通して金髪の女性――――の、胸部――――に、思いきり、預けられていた。

 金髪の女性と交わる視線。紅潮し引きる彼女のほお

そんな俺の後ろから――――先の赤い男から感じたものと、違うが同じ敵意の気配。



 振り返る。

そこには、赤い髪を熱された鰹節かつおぶしのように揺らしながら、体をふち取る赤い発光に身を包んだ少女が、



『あ――――あんたっ、』



 憤怒ふんど羞恥しゅうちをその顔にたぎらせて、



『先生に何やってんのよこの不審者ふしんしゃアァァァァ――――ッ!!』



 猛獣もうじゅうのように、俺へと襲い掛からんとしてた。

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