第六話 ハジメテの遠距離 1
あやは後悔していた。一日か二日でやめるつもりだった恵一朗と口をきかない行為は、一週間が経ってしまった。
あやはバイトの研修が始まり、ちょうど恵一朗も忙しい時期が重なっているらしい。朝も夜もすれ違いの毎日で、仲直りのきっかけがつかめない。
この日もあやは大学の授業後にバイト先に向かった。
「あ、木元さん」
石野に声を掛けられ、あやはびっくりした。
「石野さんもここでバイトするんですか?」
「今日からこのカフェでお世話になるんだ。バイト先も一緒なんて嬉しいよ」
石野の笑顔にあやは笑みを浮かべる。バイト先に顔見知りがいると安心する。
バイトの研修はオープン日までに覚えなければならないカフェレシピの練習と、レジや片付けの練習があった。三木は一人一人に丁寧に指導してくれる。そのおかげであやたちはプレオープン前日にはすべての業務がこなせるようになっていた。
(明日、プレオープンだけど……恵一朗さんは来てくれるのかな? ご飯はちゃんと食べているのかな)
恵一朗が家で食事をしている気配はない。それでも彼が夜中に帰ってきているのは知っている。あやを起こさないように気遣いながら、彼はただいまと言いながらあやの額に唇を押し当てている。そしてベッドで一緒に寝ずに、書斎へと行ってしまう。
何度かあやは足音を忍ばせて、彼の書斎を覗いた。深夜に帰ってきてからも恵一朗は自分の部屋で仕事をしているようで、キーボードを叩く音が響いていた。
あやが一度も返信をしないのを知っているのに、恵一朗は頻繁にメールをくれる。
『あや、今日は一日雨らしいよ。いつもよりも気温が低いから、風邪をひかないように』
あやを気遣ってくれるメールもくれるのに、あやは一度も返信ができていなかった。
「木元さん」
三木に話しかけられ、あやは慌てて自分のスマートフォンを鞄に押し込んだ。
「はい、オーナー」
「明日はプレオープンなんだけど、何時にお店に来られる?」
「明日は授業が午前だけで終わるので、午後ならいつでも大丈夫です」
「それなら、オープン作業の準備から来てもらえるかしら。時間は十四時にお店に来てもらって、マシンの準備や開店準備をお願いしたいわ。プレオープンは十八時からで招待した方たちだけだからね。ニューヨークから社長もいらっしゃるから、笑顔を忘れずにね」
三木の言葉にあやは頷いた。
「わかりました。十四時までに出勤します。オーナー、必要なものはこれで大丈夫ですか?」
「そうね、それとボールペンとメモ帳があるといいわ。ところで、ケイは明日大丈夫そう?」
「たぶん、大丈夫だと思いますが……」
あやは言葉を濁したが、三木は満足そうに微笑んでいた。
「明日は木元さんと石野くんのほかに四人が入ってくれるから。明日以降のシフトはここにあるので、確認しておいてね」
三木にシフトを渡され、あやはすぐに確認した。この日の夜も恵一朗と顔を合わせることはなく、翌朝もあやが起きる頃には恵一朗の姿はなかった。
大学の講義を受けながら、あやはぼんやりと恵一朗のことを考えていた。
(今日、会えてもどんな顔をしていいかわからない)
次に会った時、どんな言葉をかけるべきかわからない。そんなことを考えているうちに授業が終わってしまった。学食で昼ご飯を食べたあやは、そのままバイト先に向かう。
「木元さん、十四時からだよね? 一緒に行こうよ」
石野があやを追いかけてきて、すぐ隣を歩き始める。
「俺、トーカンホールディングスの傘下にある飲食店で働きたくてさ」
「それって就職ですか?」
石野の言葉にあやは質問した。
「うん、将来的に飲食店のマネジメントとかオーナーとかそっち方面がいいんだけど」
「どうしてトーカンホールディングスなんですか?」
あやの疑問に石野はゆっくりと頷いた。
「きっかけは大学受験の時だったんだ。地方出身でビジネスホテルを取ったんだけど、そこがトーカンホールディングスのホテルでね、手違いが起きて予約が取り消されていたらしい」
「えっ? それって」
「うん、その時は目の前が真っ暗になって、どうしていいかわからなかった。ネットカフェに泊まることも思いつかないくらい切羽詰まっていた時に、藤巻社長がたまたま現れて俺にホテルを用意してくれたんだ。ビジネスホテルじゃなくて普通のホテル。ビジネスホテルのスタッフも俺の手違いかもしれないのに、すべてホテルの不手際って言ってくれてね。その上、用意してくれたホテルの部屋は必ず合格する部屋ですって言われたら、なんかホッとして」
「落ち着いて受験ができますよね」
あやの言葉に石野は大きく頷いた。
「そのおかげで合格して、すぐにバイトを始めようとしたんだ。トーカンホールディングスのカフェでもレストランでもどこでもいいと思っていたんだけど、バイトの募集がなくてさ。一年くらいずっと居酒屋でバイトしていた。その居酒屋でバイトしながら思ったんだよね。よく行くトーカンホールディングスのカフェってスタッフが楽しそうで、活き活きとしていてやる気に満ち溢れているのに、なんか居酒屋のスタッフたちはやる気もなくてやりがいもなく感じられちゃって」
「それで新規オープンのこのカフェですか?」
石野が頷き、あやは少しだけ嬉しかった。
「木元さんはどうしてここでバイトを?」
「紹介してもらったんです」
あやは誰にとは言わず、そう答えた。
カフェに到着した二人は、着替えを済ませる。そして三木に教わった通りにマシンの電源を入れ、オープン準備に取り掛かった。
「ここまでの準備が終わったら、レジの準備に入ります。でも、今日はレジを使わないので、レジ金の準備も必要ないわ。レジ金を金庫から出すのは社員がやるので、その後確認してドロアーに指定通りに入れてください」
三木がそう言い、あやたちは元気よく返事をした。
十八時ぴったりにオープンすると、招待客が次々と入ってくる。三木が挨拶をして、あやたちは指定されたドリンクを作ってテーブルに運ぶ。夕方のメニューにはアルコールの入ったドリンクもある。
乾杯の時間になっても恵一朗の姿はなく、あやは不安になった。
(私に会いたくないとか)
乾杯が終わり、三木が招待客一人一人と楽しそうに話しているのを見ながら、ドリンクを作る。
「遅くなってすみません」
恵一朗がようやく到着し、あやは驚いた。
(大地お兄ちゃんがなんで一緒なの?)
大地もあやに気付いたようだが、お互いに言葉を交わすことはなかった。大地と恵一朗が三木の前で挨拶をした後で、社長にも挨拶をしている。どうやら大地の目当てはこのカフェの社長らしい。
どうにか無事に終わったらしく、三木は笑顔であやたちを労ってくれた。
「お疲れ様、明日からもよろしくね」
三木に追い出されるようにしてあやたちはカフェを出てきた。
「今夜も藤巻社長と一緒っぽいなぁ、オーナー」
「そうなんですか?」
「木元さんは早めに帰るから知らないと思うけど、閉店作業練習中に藤巻社長が来てテーブル席で何かを打ち合わせているよ」
その言葉にあやは胸が締め付けられるような痛みを感じた。
「夜遅いし、送っていくよ。木元さんは家、どっち?」
「あ、大丈夫です」
あやは石野の申し出をすぐに断り、携帯を見ていた。
「どうしたの?」
「兄が来ているらしいので待ち合わせをしているんです」
「そっか。じゃぁ気を付けて」
「はい、お疲れ様でした」
石野が歩き出したのを見て、あやはすぐに大地と連絡を取った。大地と一緒に恵一朗も来てくれて、三人は黙ったまま歩いていた。
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