第五話 ハジメテの喧嘩 3

 無事に飛行機に乗ったあやは少しだけ冷静になったつもりだった。チェックインをしてから一時間ほど二人はラウンジで過ごしたが、恵一朗はパソコンを開いて仕事をしているようで話しかけられなかった。お互いに黙り込んで過ごしている時間の中、あやは途方に暮れていた。

(なんであんなこと言っちゃったのかなぁ。恵一朗さんを疑ったりなんかして……バカみたい)

 恵一朗と飛行機に乗るまで自己嫌悪と戦うあやだった。

「あや、行こうか」

 搭乗時刻になり、恵一朗がパソコンをしまった。

「ごめん。報告書だけ先に作成したくて、一緒にいるのに仕事しちゃった」

「お仕事、大丈夫ですか?」

「うん、大丈夫だよ。一緒に来ない方が良かったかもなんて考えないで」

「どうしてわかるんですか?」

「十文字さんが帰省しているって聞いた時に、君を連れてきたのは失敗かなって思ったから」

「鈴音ちゃんが帰省している時、私が一緒だと邪魔だってことですか?」

「違う。あやに嫌な想いさせたくなかったから」

 二人はシートに身体を沈め、低い声で話していた。

「嫌な想いをするってわかっていたんですか?」

 あやの言葉に恵一朗は苦笑を浮かべる。

「いい想いはしないだろう? 俺と彼女の間に何があったのか、前にも言ったけど特別なことは何もない。付き合った期間もないし、二人きりでどこかに行くこともなかった。だけど、俺がこっちに来ている時にホテルの部屋に何度か彼女が訪ねてきたことはある」

「部屋で二人きりということですか?」

「部屋の中に入れたことはないよ。彼女は市長に命じられて、俺のところに来ていたのだと思っていた。彼女からの言葉には気持ちを感じられなかったから」

 恵一朗の言葉にあやはどう答えていいのかわからなかった。

「気持ちを感じられないってどうしてそんな酷いことが言えるんですか? 鈴音ちゃんは本気かもしれないのに」

「そうだね。俺の心には響かなかったと言っておこうか。ただ何度も俺のところに来て……んー、なんていうのかなぁ。俺を欲しがるんだよな」

「欲しがるって何ですか?」

「簡単に言えば、肉体関係を求めているってとこかな。そういうことを求めていると言葉としては出てくるのに、手が震えているんだよ」

「本心じゃないってことですか?」

「俺はずっと本心じゃないから、震えているんだと思っていたんだ。だけどあやを抱いてみてわかった」

「え?」

 あやは首を傾げた。

「あやの手も震えていたから。緊張やいろんな感情があったんだろうなと思ったら、十文字さんが震えていたのも別の理由があるんじゃないかと思っただけ」

「恵一朗さんは鈴音ちゃんのこと好きになったんですか?」

「え? なんで?」

 恵一朗の目が大きく見開かれ、あやはその視線から顔をそむけた。

「だって、なんかそんなふうに聞こえてきて」

「好きになったのとは違う。ただ次に彼女が何をしてくるのか、気になっているだけ」

「どうして気にするんですか?」

「あやに何かあったら困るから」

「私ですか?」

 あやが驚くと、恵一朗が真面目な顔で頷いた。

「あぁ、そうだよ。今は俺に対していろいろ仕掛けてきているけど、おそらく次の段階はあやを狙うと思う。俺から君を引き離すための手段をいろいろと考えていると思うから、気になっているっていうか」

「あの、ごめんなさい」

「ん? なにが?」

「う、疑ったつもりはなくてただ」

「あぁ、わかっているよ。あやはもっと感情をぶつけてくれていいのに。空港でイヤって言ってくれた時、本当に嬉しかった」

「でも、恵一朗さんは私じゃ不満なんですよね?」

 あやはそう言ってしまった後で、ハッとした。

「不満? 俺があやに対して不満があると思っているの?」

「だって、その――二回目、シてくれないから」

「――あぁ、そっちの話か。それはちょっと違う。反省していたんだよ。本当はもっと時間をかけてあやの気持ちを待ちたかったのに、おとなげなく奪ってしまったから。それにハジメテの君に対して無理させちゃったから、少し時間をおいていただけ」

「え? あ、そ……そうなんですね。あの、重ね重ねごめんなさい」

「あやが謝る必要はないよ。あやが俺を欲しがってくれるなら、今夜でもプレゼントするよ」

「恵一朗さんっ! そ、そんなこと、こんなところで言われても」

「恥ずかしがらなくてもいいのに。でも、たぶん今夜は無理だけどね」

 飛行機が着陸し、二人はゆっくりと飛行機を降りた。

「あや、話があるの」

 鈴音の声が背後から響き、あやはゆっくりと振り返った。

「鈴音ちゃん、話って何?」

「どうせ藤巻社長からは私とは何の関係もなかったって聞かされているんでしょう? 本当のことを教えてあげる」

 鈴音の言葉にあやは首を横に振った。

「もし鈴音ちゃんと恵一朗さんの間に何かあったとしても、今の私には関係のないことだから」

 あやの言葉に鈴音は怒ったようだ。足早に去っていくのを見たあやは、ふぅっと大きく息を吐いた。

「あやは強いね。さて、行かなきゃならないところがあるんだ」

「行かなきゃならないところですか?」

「ん、あやのバイト先になるカフェ」

 あやは恵一朗と一緒にまだオープンしていないカフェへと向かった。そこには店長の三木しかいなかった。

「ケイ、待っていたの」

「遅くなって申し訳ない。仕事が立て込んでいてね」

「来月、出張でニューヨークに行くのよね」

 三木がそう言いながら、恵一朗とあやを店の中へと招き入れた。

(ニューヨーク出張なんて知らなかった。でも、出張はあるだろうし)

 そんなことを考えていたあやは、内装工事が終わったばかりの店内を見渡す。

(うわ、可愛い。行ったことはないけど、海外のカフェっぽい)

 そんなことを考えているあやには見向きもせず、三木が恵一朗に話しかけていた。

「どうかしら? ニューヨークのお店よりは少し落ち着いた感じにしたんだけど」

「いいんじゃないかな。照明の明るさも悪くないし」

「それで日本だけの期間限定メニューをやろうと思って」

「社長の了承は得ているんだろ?」

「もちろんよ。社長からはケイにテイスティングしてもらって、あなたがオッケーを出せばいいって」

「そのテイスティングに呼ばれたのか」

「そういうこと。木元さん、あなたはこちらに来て。特別に作り方を見せてあげるから」

 あやは三木に言われてすぐに彼女の後ろを付いて行った。

「これがコーヒーマシーンよ。豆を挽くのはこっち。使い方はボタン一つなんだけど、定期的に豆の補充が必要だから」

「はい」

 三木が操作しながら教えてくれる。

「あ、連絡先を交換してもいいかしら?」

 期間限定メニューは初夏をイメージしたメロンと桃を使ったフレーバーカフェらしい。

 ホイップクリームでデコレーションを終わらせると、二人は連絡先を交換した。

「あや、覚えられそう?」

 恵一朗がカウンター越しに話しかけてきて、あやは笑みを浮かべた。

「頑張って覚えます」

「オープニングスタッフは二十人くらいいるから、頑張ってね」

 三木にそう言われ、あやは頷くだけだった。

「ん、悪くないんじゃない。でも」

「そうね、ケイには甘すぎるわよね。はい、口直しのエスプレッソ」

「あぁ、ありがとう」

 二人のやり取りがまるで恋人のようで、あやの胸の奥がチリチリと痛くなる。

「木元さんはどう?」

「私は好きです。期間限定メニューは毎月、出るんですか?」

「この二種類はオープニング記念なのよ。日本人は期間限定だったり、季節限定だったりすると人気だって言うから、それも含めて企画を出さないと」

 三木が仕事の顔になり、恵一朗も仕事の口調になった。

「あとは人気メニューって書かれていると売り上げが上がるみたいだな」

「そうね、向こうの定番人気が受け入れられるかどうかも含めて実験的にやっていくしかないと思っているの」

「価格が少し高めなのが気になるが、ターゲットの客層をしっかり把握して売り上げを取ってもらうしかないな」

「プレオープンには来てくれる?」

 上目遣いの三木に恵一朗が作り笑いを浮かべる。

「彼女の姿を見に来るよ。あやの制服姿を見たいからね」

 二人の仕事の話はまだ続き、あやは期間限定のメニューを二つとも飲み干してしまった。三木は楽しそうに恵一朗と話していて、おもしろくない。ただその時間が早く終わるように願っていた。

 ようやく二人の話が終わり、あやは恵一朗の車に乗り込んだ。

「恵一朗さんはどうして元恋人のお店で、私をバイトさせるんですか?」

「元恋人じゃないよ」

「でも、二人の間に何もなかったとは思えませんっ!」

 そんな話をしていた矢先、あやのスマートフォンが鳴った。三木からのメッセージには恵一朗と抱き合っている写真が付いていた。

『これから一緒に仕事をするのにあたって、隠し事はよくないと思ったの。でもこれは過去のことで、今とは関係ないから』

 その言葉があやの嫉妬に火を点けた。

「恵一朗さんの嘘つき。元恋人じゃないですか。過去のことだって言ってくれれば――我慢するのに」

「参ったな。そんな写真、あったんだ。ちなみにそれ、アメリカの経済誌に掲載された時の写真だから」

「経済誌ってゴシップも扱うんですか?」

「違うよ。カフェの経営について語るってやつで呼ばれて、彼女と対談した時の写真」

「でも、抱き合っているなんて変じゃないですか。騙されませんから。隠し事ばかりする恵一朗さんなんて知りませんっ!」

 勢いでも彼に嫌いだとは言えず、あやは奥歯を噛んだ。その日からあやは恵一朗と口をきかなかった。

 はじめての喧嘩にどう終止符を打てばいいのかわからないまま、時間だけが過ぎていく。

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