第五話 ハジメテの喧嘩 1

 あやは講義室に入り、空いている席に着いた。大学での友達ができず、いつも一人で講義を受けている。

「隣、いいかな?」

 あやは急に声を掛けられ、顔をあげた。目の前には少し困った顔をした茶色い髪の男性が、あやの顔を覗き込んでいる。

「すみません。つめますね」

 あやは自分の荷物を抱えると、奥へと席を詰める。

「いや、友達の分の席だったら申し訳ない」

「いえ、大丈夫です」

 あやは笑みを浮かべた。

「ありがとう、助かったよ。去年、この必修が抽選で落ちてさ、今年も落としたら厳しいから」

「二年生ですか?」

「うん、君は一年? 俺、二年の石野」

「一年の木元です」

 簡単な自己紹介を済ませると、講義に集中していたあやだった。授業の中盤、隣の石野からメモが回ってきた。

『指輪、彼氏?』

 あやは小さく頷いた。

『サークルは入ってる?』

 今度はあやが首を横に振り、石野が笑みを浮かべていた。

『よかったら、俺が入っているサークルに来ない?』

 サークルに入るつもりがなかったあやは、メモに丁寧な字で断りを入れた。

『ごめんなさい。サークルは入るつもりがありません』

 残念だと言わんばかりに肩を落とした石野に申し訳ない気持ちが募る。この授業の時間が終わると、あやは学食で昼食を摂りながら恵一朗とたわいのないメッセージをやり取りしていた。三限目が始まる前に次の講義室へと移動すると、あやはまた話しかけられた。

「あれ、この授業も一緒だね。隣に座ってもいいかな?」

 石野があやの隣に当たり前のように座る。

「サークルに入らないのは、彼のため? 高そうな指輪だから、社会人だよな?」

「サークルに入らないのは、彼とは関係ありません。今、バイトを探していてそれが決まって時間に余裕が出たら、サークルのことは考えようかと思って」

 あやの言葉に石野は大きく頷いた。

「なんだ、そうだったのか。ね、木元さんの連絡先、教えてくれないかな?」

「連絡先、ですか?」

「うん、メッセージアプリでもいいよ。君ともう少し仲良くなりたいんだけど」

「ごめんなさい。すぐに連絡先を交換するのは抵抗があって」

「わかった。俺、一年の必修をいくつか取っているから、会った時は隣に座ってもいいかな?」

 それくらいならと思ったあやは小さく頷いた。

 三限の授業が終わると、あやの携帯にメッセージが入る。

『駅前のカフェで待っているから』

 恵一朗のメッセージを見つめ、あやは知らずに頬が緩んでしまう。小走りで大学を出たあやは、駅前へと急いだ。

(このカフェ、今日からの季節限定メニューがあったはず)

 バイトが決まったら、毎月この季節限定メニューのドリンクを自分に買おうと思っていたあやだ。

「お疲れ様、あや」

「恵一朗さん、お待たせしました」

「これでいいんだよね?」

 季節限定のドリンクを渡され、あやは目を丸くした。

「どうしてわかったんですか?」

「あやのことだから毎月出る新作メニューをバイト代が入ったらご褒美にしようと思っていたんじゃないかな?」

「そ、その通りですが……どうしてわかるんですか?」

「前にあやは同じことをやっていたよ。ほら、高校近くのハンバーガー屋さんで」

「季節限定に弱いんです」

「今月は誕生日もあるから、俺からご褒美ね」

「私、恵一朗さんに何もしていないのに」

 あやの言葉に彼は笑うだけだ。

「じゃ、誕生日デートの続きをしようか」

「え?」

 あやが驚くと恵一朗が彼女の手を取る。そしてゆっくりと歩き出した。

「まだ、誕生日プレゼントを買っていないからね」

「でも、もう十分頂いていますっ!」

 あやの言葉に恵一朗が苦笑を浮かべる。

「俺の方がプレゼントを貰ってしまったからね。それにまだまだあやを喜ばせたいんだ。付き合ってくれる?」

 恵一朗に誘われて断れるわけがない。あやは頷いた。

「よかった。まずはこっちだね」

 恵一朗が連れて行ってくれたのは、アクセサリーショップだ。

「あやはピアス、つける?」

「ピアスにしたいんですが」

「うん、まだ開けていないんだね。ピアスとネックレスをプレゼントしようと思っているんだけど、どんなのがいい?」

 あやと手を繋ぎながら、恵一朗がショーケースを覗き込むだ。あやもつられてショーケースを覗き込んだが、肝心のプライスカードは見えない。

「ついでにピアスも開けに行こうか」

「え?」

「怖い?」

「そうじゃなくて――」

「君が変わっていく姿を一番近くで見たいだけ」

 恵一朗の顔が近付き、あやは照れて俯いてしまった。

「あ、これはどうかな?」

 恵一朗の指先を見た後で、あやは彼の横顔を見た。

「あれ? 恵一朗さんもピアスですか?」

「開いているけどね、滅多に付けることはないかな」

「あの、私とデートの時だけ、おそろいってダメですか?」

 あやの言葉に恵一朗は笑いながら頷いた。

「いいよ。そのかわりシンプルなものになるけどいい?」

「はい」

 あやは大きく頷き、恵一朗とおそろいのピアスとペアのネックレスを選んだ。

「じゃ、ピアスを開けに行こうか」

「待ってください、恵一朗さん」

「どうしたの?」

「あの、恵一朗さんに開けてもらいたいです」

 あやの言葉に恵一朗は一瞬、目を丸くしたが、すぐに笑みを浮かべた。

「わかった」

 あやの肩を抱いた瞬間、恵一朗が彼女の耳に囁いた。

「ほかの奴に君を傷付けさせたくないから」

 二人はピアッサーを買った。そして家に帰ってから、恵一朗があやの耳にピアスを開けた。

「痛くない? 大丈夫?」

「ちょっと耳が熱いですけど」

「しばらくはこのピアスだね」

 恵一朗が笑みを浮かべ、あやも一緒になって笑う。お互いの額をこつんと押し当て、そしてあやからキスをした。

「可愛いね、あや」

「ごめんなさい。上手にできなくて」

「歯が当たったことを言っているの?」

「はい……」

「気にしなくていいのに。あやが俺を欲しがるのが可愛いって言ったんだ」

 彼の笑みにあやは嬉しくて幸せで、それなのに涙が出そうになる。


 五月の終わり、恵一朗があやを連れてまだ内装工事をやっている最中の店にやってきた。

「あら? ケイ?」

「やぁ、久しぶり。日本初出店、おめでとう」

「あなたのおかげよ」

 あやの存在が見えないのか、その女性は恵一朗に抱きついた。

「今日はお願いがあって来たんですよ。あや、こちらはオーナーの三木さん。ニューヨークのカフェで今回日本初出店することが決まったんだ」

 恵一朗は三木という女性を自分から引き離した。

「ケイのおかげで日本出店の夢が叶ったの」

「三木さんはニューヨークのカフェで店長を務めていてね、今度日本で出店したいから彼女に日本での責任者を任せて欲しいと頼んだんだ」

「それが叶って、こんないい立地に第一号店が出せるの。それより、ケイはどうしたの? オープンは二週間後なのに。内装のチェック?」

「違うよ。このカフェで彼女をバイトとして雇ってほしいと思ってね」

「彼女? あぁ、大学生かしら」

「あぁ、そうだ。そして俺の彼女だから、よろしく頼むよ」

「面接の必要はないってことね。いいわ、オープニングスタッフとして来てもらうわ。来週から研修が始まるの。日程をあとでケイに伝えておくわね」

「よろしくお願いします」

 あやは頭を深く下げたが、三木と恵一朗の関係が気になって仕方ない。

「じゃ、行こうか」

 恵一朗と一緒にその店を出たあやは、三木が恵一朗の背中を見ていることに気付いた。

「恵一朗さん、あのオーナーの方とお知り合いですか?」

「高校の時の同級生なんだよ」

「それだけじゃ、ないんですよね?」

 あやの剣幕に恵一朗は困った顔を見せる。

「前にも言ったけど、彼女はいたという過去はある。だけど、今まであや以上に愛した人はいないよ」

 あやは納得できないものの、何も言えなくなった。

(過去に嫉妬しているなんて馬鹿だってことだよね。でもはじめてで不安ばかり膨らむんだもん。この気持ち、どうしたらいいかわからない)

 恵一朗の車に乗せてもらっても、あやはもやもやした気持ちを抱えたままだった。

「あや、今夜は遅くなるから先に寝ていて。それから明日、授業が終わる時間わかったら連絡くれるかな?」

「わかりました。恵一朗さん、お仕事中にありがとうございました」

「気にしなくていいよ。あのカフェは一度見ておきたかったからね。それとこれ、夕食の代わりに食べて」

「ありがとうございます」

 あやは恵一朗の愛情に触れ、さっきまでの気持ちが晴れていた。

 恵一朗を見送ったあやは、マンションの部屋に入る。

 のんびりと夕食を終わらせると、あやはシャワーを浴びた。そのままベッドルームで横になりながら、理佐とメッセージのやり取りをしていた。

『今日はこれを作ってみたよ。ガトーショコラ! あやが帰ってきたらバースデー用のケーキを作るね。帰ってくる日が決まったら教えて』

 理佐のメッセージにあやはただ嬉しかった。お互いの近況をやり取りしながら、あやはいつの間にか寝てしまった。


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