第四話 ハジメテの夜 2
十文字市長がグラスのワインを呑み干し、恵一朗が彼のグラスにワインを注いだ。
「昨年の秋頃でしたか。あやちゃんは彼女と同じクラスだったんだよね? 彼女が一週間ほど、体調不良で学校を休んだのを覚えているかな?」
「そういえば、そんなことがあったような気がします」
あやは記憶を辿ったが、その当時の記憶はあやふやだ。恵一朗と毎日メッセージのやり取りをしながら、次に会える日を楽しみにしていた。そして大学受験の追い込みの時期でもあり、受験勉強で毎日があっという間に過ぎていたことしか覚えていない。
「木元ファームが会社として運営を始めてから、ビジネスとして木元ファームに行くことが増えてあやちゃんと出会えた。同じ頃、十文字市長とも頻繁に会うことが増え、その延長線上で彼女とも会うことがあった。もちろん、十文字市長と一緒に彼女と顔を合わせる程度だった」
恵一朗が淡々と話し、あやはその話を聞いていいのか悩んでいた。
「もちろん、何度か彼女から好意を寄せているということは聞いていたが、俺は心に決めた人がいたから断っていた。あやちゃんと出会ってお互いの気持ちを確認した後も、市長と会うたびに彼女と食事に行くことはあった」
「そこで鈴音とそういうことがあったから、娘は中絶手術を行うことになったのだろう」
十文字市長の声には感情が一切含まれていなかった。抑揚のない声で吐き出されたその言葉は、あやの思考を止めるのに十分な効力があった。
「指一本、触れた覚えのない女性にそのことを告げられた時は、何か深い理由があるのだろうと思った。だから俺のせいにして父親の怒りを鎮めようというのならそれで構わなかった。もちろん、あやちゃんの耳に入るようなことがなければの話だけど」
恵一朗は静かに鈴音を見つめた。
「約束したはずだ。受験が終わって落ち着いたら、ご両親には本当のことを告げるようにと」
恵一朗の低い声に鈴音は肩を震わせながら、泣き出した。
「あの、どういうこと――?」
あやは恵一朗の横顔を見つめた。
「これ以上、俺の口から説明できることは何もないよ。あとは家族での話し合いが必要なことだと思う。十文字市長、こちらが実績報告書です。仕事の件はこれだけでよろしかったですか?」
「今、この場で仕事の話ができる状態ではない。また日を改めて」
「かしこまりました。あやちゃん、食事は別のところでしようか」
恵一朗があやの手を取り、そしてその場を離れた。
「あの、どういうことなのかまったくわからないのですが」
「俺もちょっと気になっていた件でね、だからわざと婚約者がいるということを広めたんだ」
「どういうことですか? わかるように説明してもらえないんですか?」
あやの手をギュッと掴んだ恵一朗は笑みを浮かべた。
「もちろん、俺の知っていることはすべて話してあげる。それであやちゃんには安心してもらわないといけないから。ただゆっくり話すためには場所を変えようと思って」
恵一朗の声はいつも通り穏やかで、なぜかあやは不安が募った。
ホテルから出ると、ロータリーにはすでに友坂が来ていたようだ。友坂がドアを開けてくれて、あやは恵一朗と一緒に後部席に座った。
「あやちゃん、お腹は空いているかな?」
「今は食べられそうにないです」
正直に答えたあやの肩に恵一朗の腕が回った。
「うん、わかった。車の中で話そう」
恵一朗はそう言い、友坂が頷いたようだ。
「コンビニに寄りますね。お飲み物は何がいいですか? あや様」
「あの、甘いアイスカフェラテがいいです」
「かしこまりました」
友坂が飲み物をいくつか購入して戻ってくると、あやはまず甘いアイスカフェラテを口に含んだ。やっと一息ついたあやは、先ほどまでの会話が一気に頭の中に流れ込んだ。
「友坂、後ろは極力見るなっ!」
恵一朗の鋭い声にビクッとしたあやだったが、次の瞬間彼に抱きしめられた。
「あやちゃん、ごめん。あんな話、びっくりしたよね。涙、止まるまで抱きしめているから。ちゃんと説明もさせて」
「ご、ごめんなさい。あの――」
「うん、混乱しているんだよね。涙が勝手に溢れちゃうのかな?」
「どうしてわかるんですか?」
「あやちゃんのことならなんでも知りたいからかな」
「私も藤巻さんのこと、なんでも知りたいのになにも知らなかった」
「先に話しておくべきだったね。でもこの話は俺だけの問題じゃなかったから」
「鈴音ちゃんっ! 彼女はどうなるんですか?」
あやが顔をあげると、恵一朗の唇が眦に当たった。
「彼女がどうなるか、これからどうするかは十文字家で決めることだと思う。ねぇ、あやちゃん、十文字さんって彼がいたとか噂はなかった?」
「鈴音ちゃんはそういう話をするタイプではなかったので」
「そっか。九月終わりにあやちゃんと志望校の話をしていたのを覚えているかな?」
恵一朗の言葉にあやは小さく頷いた。都内の大学を受けると決めたあやだったが、どの大学をどう選んでいいかわからなかった。恵一朗に相談に乗ってもらい、いくつかの大学を夏休みに見学した後で志望校を絞り込んだ。あやが絞り込んだ志望校について、恵一朗が的確なアドバイスをくれたおかげで二つの大学に合格した。
「あやちゃんと進路の話をした後で、大地さんとレストランでメニューの話をしてホテルに戻ったんだ。翌日の昼前の飛行機で都内に戻る予定だったから」
恵一朗の言葉を聞きながら、あやはそっと彼の胸から顔をあげた。
「ホテルのロビーに十文字さんがいた。そこで妊娠したかもしれないと聞かされ、彼女は中絶したいと言ってきた」
「鈴音ちゃんはどうして藤巻さんにそんなことを言ったんですか?」
「俺を頼った理由の一つに金銭面があるんじゃないかとは思っている。だけど、彼女は相手を知っているはずなのに、そこに相談もせずにましてや産むことを選択せずにそう決めてきた。俺が受け入れた理由はただ一つだ」
「理由があるんですか?」
「理由もなく、父親役を買って出るなんてしないよ。俺が父親ではない決定的な証拠を手に入れておくためだったから」
恵一朗の言葉は冷たく響き、あやがすぐに理解できるものではなかった。
「わかりやすく言えば、DNA鑑定をきっちりとしておきたかったんだよ。俺が父親ではない証拠を残しておくために。彼女は相手が誰なのか、俺にも言わなかった。今日の様子を見る限り、両親にも伝えていない。そこで考えられるのは、相手に子供ができたことを知られたくない、もしくは言えない相手。それか……最悪、乱暴された結果か」
あやは息を呑んだ。
「彼女の相手のことを詮索するつもりはなかった。だけど、このままではおそらく十文字市長が暴走する可能性も出てきたな。父親として本当の相手を知りたいだろうし、ヘンな想像を巡らせて俺とあやちゃんが婚約したから彼女が身を引いたみたいなことを君の家族に言い出しかねない」
あやは何も言わずに恵一朗をジッと見ていた。
「俺が証明できるのは彼女の子供の父親ではないこと、それだけだけどね」
恵一朗がそう言い、あやはまた彼の胸に顔を埋めた。
それから数日が経ち、ゴールデンウィークに入った。親友の理佐が上京し、恵一朗が仕事の時間に二人は都内を観光しながらランチを楽しんでいた。あやは鈴音に連絡を取ることができなかった。
「ここのカフェランチ、楽しみにしていたの」
理佐が満面の笑顔を見せ、あやは少しだけ気分が晴れた。鈴音の話を聞いてから、気持ちが落ち込んだままだった。
「あやは何かあった?」
注文を済ませた理佐に問われ、あやは迷っていた。
「何を話せばいいのかわからないんだよね」
「ん、そういう時ってあるよね。でも藤巻さんが頼らせてくれるんじゃないの?」
「うーん、それが今は忙しい時期みたいで、帰りも遅くて朝も早いからあまり話す時間が無いんだよねぇ」
「一緒に暮らしているのにね」
少し微笑んだ理佐が急に真面目な顔をした。
「鈴音ちゃんってさ、なんで都内の大学を受けたんだろうね」
理佐の言葉にあやは唸った。
「そうだね。地元の大学に推薦で決まるかと思ったのに。欠席したからかな?」
あやの言葉に理佐は首を横に振った。
「藤巻さんを追いかけたんじゃないの? だって鈴音ちゃん、藤巻さんのことが大好きだって言っているらしいから」
「誰からの情報?」
「鈴音ちゃんの周りにいた子たちの話。時々、レストランに来て食事をしているよ。声が大きいから話は丸聞こえだしね」
「そっか。鈴音ちゃんはやっぱり藤巻さんが好きなのかなぁ」
そうなると、鈴音の相手はやっぱり恵一朗なのかと疑わしくもなる。
(好きな人の子供だったら絶対産みたいだろうから、やっぱり藤巻さんの子供じゃないのかな。好きじゃない人の子供ってこと? 本当に乱暴なことをされて……)
考えるのをやめようと思ったあやだが、頭の中は悪い方へと想像を巡らせてしまう。
「でも、あやの話を聞いている限り、鈴音ちゃんが藤巻さんを好きって言っていてもなんかしっくりこないんだよね」
「どういう意味?」
理佐の言葉にあやは食いついた。
「鈴音ちゃんが藤巻さんを好きだったとして、わざわざあやを経由して連絡を取るかな?」
「あ、そうだね。連絡先くらい知っているよね」
「うん、それにあやだったらどうする? 片想いで連絡先を知っていて、住んでいるところも仕事場も知っていたら……」
「会いに行っちゃうと思う。会社とか、家とか」
「そうだよね。それにライバルに予定を聞いて、ライバルと一緒でいいから会いますって言うかなぁ?」
「ひとりじめ、したいよね」
「あやもそう思うよね。となると、都内に出てきた理由が藤巻さんじゃない可能性があるよね」
「どういうこと?」
「地元にいたくない理由があった。もしくは、あの市長から離れたかった」
「あ、そうか。そういうことも考えられるね」
あやは頷き、その日は理佐と楽しい時間を過ごした。
「理佐こそ、どうなの?」
「気になる人はいるよ。専門学校の先輩でパティシエの腕がすごい人。見た目からは想像もできないほど繊細な飴細工とか作っちゃって、なんか憧れる」
「憧れなの?」
「憧れと追い付きたい気持ちと、追い越したい気持ちが入り混じっていて、その上でもっと彼のことを知りたい」
「頑張れ」
あやはくすくすと笑っていた。理佐とは高校時代も恋話をすることがなかった。お互いに恋愛に興味がないというよりは、そういう相手がいなかった。
「あやも頑張って」
理佐をホテルに送り、あやは一人でマンションに戻ってきた。翌日、理佐はパティシエのコンクールを見に行ってそのまま帰るらしい。
「地元から離れたかった……か」
あやは恵一朗と一緒にいたいという気持ちが強かった。鈴音はいったいどんな気持ちで都内の大学を受験したのか、あやは気になって仕方なかった。
「おかえり、あやちゃん。連絡くれれば迎えに行ったのに」
家に戻ったあやは恵一朗の声にハッとした。
「藤巻さん、今日は早かったんですね」
「迎えに行くつもりだったからね。楽しい時間は過ごせた?」
「はい――理佐とは楽しかったんですが、どうしても鈴音ちゃんが気になって」
あやはなんとなく俯いてしまった。
「お友達とはその話をしたのかな?」
「鈴音ちゃんのことは、その……地元で噂になっている内容を聞きました。藤巻さんのことが好きで、東京に追いかけてきたんじゃないかって」
「そうか。あやちゃんは明日も学校は休みだよね? 少し遅くまで話をしようか」
「でも藤巻さんは」
「うん、気にしなくていいよ。こっちにおいで」
ソファにあやを座らせ、恵一朗が冷蔵庫から飲み物を持ってきた。彼にはビールを、そしてあやにはジンジャーエールを用意してくれた。
「十文字市長からは予想通りの注文が来てね、俺が父親ではないことを証明しろって言われたから、鑑定書を提出した。俺は彼女が都内に出てくるとは思っていなかった。何度か進路の話をしたことがあって、その時は地元の大学に行くと言っていたからね」
「やっぱりそうですよね。鈴音ちゃん、なんで進路を変えたんでしょう?」
「あやちゃんはどう考えたの?」
「藤巻さんの傍にいたいって思ったのか、それとも地元にいたくない理由があったのか。理佐ともそういう話をしていてわからなくなったんです」
「わからなくなったのは、なんで?」
恵一朗の優しい問いかけにあやはゆっくりと答えた。
「藤巻さんのことを本当に好きだったら、わざわざ私に連絡をしてこないと思います。藤巻さんと連絡を取って、もしくは私のいないところで二人きりで会おうとするんじゃないかと」
「確かにそれが妥当だね。彼女はおそらく地元にいたくなかったんだと思う。都内を選んだのは俺を好きだと言っていれば、みんなが納得するからだろうし、十文字市長は賛成すると思ったんじゃないかな」
「鈴音ちゃんは本当に藤巻さんを好きなんですか?」
「それはわからないね。ただそうしていることで自分の身が守れたのかもしれない」
「都内にいたほうが安全ということですか?」
「たぶんね。ただ彼女のことはこれ以上、踏み込むべきじゃないと思っているんだ」
恵一朗がそう言い、あやは静かに頷いた。
「あやちゃんを不安にさせてごめん」
ギュッと抱きしめられたあやは、恵一朗の腕の中で少しだけホッとしていた。
彼の唇がそっとあやの額に押し当てられ、それから唇に触れる。そっと重なった唇にあやは彼の背中に回した手に力を込めた。
ゆっくりと離れるとあやは言葉にした。
「バイト、どうやって探したらいいですか?」
「もう少し待ってくれるかな? 俺が紹介するから」
「でも」
「金銭的なことで不安があったら言ってくれればいいから」
恵一朗の言葉にあやは首を横に振った。
「あやちゃんはもっと俺に頼っていいんだけどなぁ」
少しだけ笑った恵一朗があやの耳元で囁いた。
「来週の金曜日、お祝いさせてね」
あやはその言葉に驚いた。
「うん、あやちゃんの誕生日。丸一日デートしよう」
「でも、藤巻さんはお仕事ですよね?」
「そのために今、仕事を頑張っているんだよ」
あやは恵一朗に笑顔を向ける。
「私は学校です」
「学校が終わる頃、迎えに行くよ」
あやは頷きながら、ギュッと恵一朗にしがみついた。
あやの誕生日は五月の半ばだ。その日は金曜日で授業が終わると、恵一朗が車で迎えに来てくれる。
「どこに行くんですか?」
「まずはここ」
恵一朗が連れてきたのは、高級ブランドのショップだ。あやはそこで用意されていた服に着替えることになった。柔らかい素材のワンピースは淡い水色で、その服に合わせた靴や鞄も購入してくれた。
「藤巻さん、これはいくらなんでも」
「気にしないで。じゃ、次はこっち」
恵一朗に手を引かれ、あやは映画館に向かった。ドラマやコミックで見るようなペアシートだが、傍にウエイターが佇んでいる。メニューを渡され、あやは驚いた。
「飲み物は何がいい? 軽く何か食べる?」
恵一朗に勧められ、あやはドリンクだけ頼んだ。
話題のアクション映画を恵一朗の肩に頭を乗せてあやは観ていた。
(こんな映画館はじめて。あぁ、なんだか夢を見ているみたい)
幸せすぎて実感が沸かない。現実なのかどうかもわからなくなりそうだった。それでも家一郎と繋がった手は温かく、時折彼がギュッと握ってくれると嬉しくなる。
映画が終わると、食事に行くようだ。
「あの、こんな誕生日、はじめてで――私、藤巻さんにこんな素敵なお誕生日をお返しできないですよ」
「俺はあやちゃんの笑顔を見られればそれでいいから」
「でも」
「今日の食事はここなんだ。コースで予約しちゃったけど、いいかな?」
あやは目を見開いて驚いた。
「こんな高級そうなホテル?」
「うん、実は部屋も予約してある。あやちゃん、覚悟を決めてもらってもいい?」
恵一朗の言葉にあやは頷いてしまった。
「ダメだと思ったら言ってくれて大丈夫だから」
恵一朗はそう言いながら、あやの手を取った。彼にエスコートをされて入ったホテルのレストランは、煌びやかな装飾であやは足が震えてしまう。
「緊張しなくていいよ。君の誕生日を最高に祝いたいだけだから」
恵一朗が用意してくれた個室に案内され、あやは戸惑いを隠せない。
「いつも通りの食事をしようね。あやちゃんと楽しく食事をしたいから個室にしたんだ」
緊張するなと言われても無理がある。
「あの、でもこんなお店はじめてで」
「うん、でもこの空間は家と同じで俺と二人きりだよ」
恵一朗がワインを頼み、あやにはレモネードが届けられた。
「十九歳のお誕生日、おめでとう。今年はこうやって二人きりで祝えて幸せだ」
「ありがとうございます」
あやは素直に嬉しかった。
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