第四話 ハジメテの夜 1
あやは恵一朗の腕をギュッと掴んでしまった。
「ごめんなさい」
「あやちゃん、緊張してるよね。いろいろと不安だと思うけど、俺にしっかり掴まっていればいいから。挨拶を済ませたらすぐに帰るからね」
「でも」
「気にしないでいいよ」
恵一朗の腕にぶら下がるようにして歩くあやは、彼が挨拶をしているのをただ聞いているだけだ。
「藤巻社長も隅に置けないですな。そちらの女性は」
「紹介するつもりはありませんよ。彼女はまだ勉強中の身ですからね。もちろん婚約はしていますが」
恵一朗の言葉にあやはドキッとした。
数名に挨拶を交わした恵一朗は、あやを連れて会場を出てきた。
「いいんですか? 私を婚約者だなんて紹介して」
「うん、あやちゃんのご両親とも約束しているだろ。俺はあやちゃん以外に興味はないし、それに俺に婚約者がいるってことを少し広めたかったんだ」
「え?」
あやが疑問に思っていると、恵一朗は少しだけ笑った。
「すぐにその理由があやちゃんにもわかるよ」
意味深な恵一朗の言葉はいつものことだ。
「食事をして帰ろうとかと思ったんだけど、あやちゃんの足が痛そうだね」
「あ、大丈夫です」
「我慢しなくていいから。家でゆっくり二人きりで食事をしようよ」
恵一朗の言葉にあやは彼の手をギュッと握った。嬉しすぎて言葉が出てこないのに、恵一朗はもっとあやを喜ばせる言葉を紡ぐ。
「今日は無理をさせちゃったから、あやちゃんが食べたいものを考えないと。テイクアウトになるけど、いいかな?」
「はい」
恵一朗の秘書、友坂が迎えに来た。途中、恵一朗が一人で買い物に出かけると、友坂の肩が小さく震えていた。
「友坂さん、どうしたんですか?」
「いいえ、あんなに楽しそうな社長を見るのははじめてなので。あや様と出会ってから社長は別人のようですよ」
「そんなに違うんですか?」
「えぇ、いい方向に変化しています」
友坂の言葉にあやは少しだけ笑った。
「以前の藤巻さんってどんな――」
あやが話しかけていると、恵一朗が戻ってきた。
「ただいま、あやちゃん。友坂と楽しそうに話しているようだね。ねぇ、何を話していたの? 友坂なんて話がつまらないはずなのに」
恵一朗の言葉には棘があり、あやはどうしていいかわからない。
「あの、藤巻さん、怒っていますか? えっと、ごめんなさい。勝手に藤巻さんの過去を聞き出そうとして」
あやは恵一朗の腕に縋った。
「あやちゃんには怒っていないよ。俺の過去――ね。知りたいなら、俺に訊いて。友坂なんかと話さなくていいよ」
「社長、おとなげない嫉妬はみっともないですよ」
「友坂に言われたくないね」
あやの肩がグイッと引き寄せられ、少しムッとした恵一朗の横顔に嬉しくなる。
「私と会う前の藤巻さんって、どんな感じだったんですか?」
あやが問いかけると、恵一朗は目を丸くした。
「そんな話をしていたのか」
少しだけ照れたように笑う恵一朗にあやは可愛いと思ってしまった。
「藤巻さんのこと、少しでも知りたくて」
あやの言葉に恵一朗が苦笑を浮かべる。
「俺のことを知りたいって思ってくれるのは嬉しいよ。そうだなぁ、俺の過去か」
少しだけ間を置いた恵一朗はあやの手を取った。
「息が詰まるような勉強漬けの毎日だったかな。やらなきゃならないことも覚えなきゃならないことも、そこから自分で考えて導き出して答えを探らなきゃならない。その答えが合っているのか間違っているのかわからないけど、前に進まなきゃならない。雇用を守るために何をするか、そればかり考えてきたよ」
「あの、辛い過去ってことですか?」
「うーん、当時は辛かったよ。遊びたかったし、あれもやりたかったとか色々あったけど、今はやっておいてよかったと思う。あまりに息が詰まって辛くて無茶なことをしたこともあったけどね」
「無茶?」
あやの疑問に恵一朗は少しだけ笑う。
「社長の無茶は今もされますからね。さぁ、到着しました。あや様、今夜は社長も疲れていますので、しっかりと癒してあげてくださいね」
友坂が話を切り、二人は車を降りた。
「今度はあやちゃんの過去も知りたいな」
恵一朗がエレベーターの中でそう言い、あやは首を傾げる。
「普通の子供でしたよ。あ、でも農業をやっている家って藤巻さんの周りにはいないですよね」
「そういう過去、じゃないんだけどね」
恵一朗がクスッと笑い、あやは唸った。
「あやちゃんだって俺の過去でも違う部分が知りたかったんじゃないの?」
「少しずつ、教えてもらえるようにします」
あやの言葉に恵一朗は笑い出した。
「あやちゃんには敵わないなぁ。かっこ悪いところは俺も隠したいんだよね。好きな人の前でかっこつけたいし」
「藤巻さんでもそう思うんですか?」
「男ならみんな、きっと同じことを思うよ」
彼が笑うと嬉しくなる。あやは恵一朗が屈託なく笑ってくれる姿が大好きで堪らない。ギュッとしがみついた瞬間、恵一朗に笑われた。
「部屋に入ってからにしてよ」
玄関の扉を開けると、恵一朗があやを先に中に入れた。そしてそのまま、二人の唇が重なる。深いキスに変わると、あやは恵一朗の肘をギュッと掴んでしまう。
「んっ……」
「キス、上手になったね」
彼の唇が離れると寂しくなる。彼の体温がもっと欲しくなるのに、うまく考えがまとまらない。
恵一朗に促され、あやは先にバスルームを使った。少しだけいい雰囲気になったような気がしたが、いつも通り食事をしてベッドでたわいのない話をしながら眠ってしまった。
鈴音と約束した日曜日になり、あやは恵一朗と一緒に家を出た。彼の車で出かけるのだと思っていたが、友坂が迎えに来ていた。
「鈴音ちゃんのお父さんが来るって、何かあるんですか?」
車に乗ってすぐにあやは恵一朗に尋ねた。
「仕事の話だけで終わってくれるといいなとは思っているけどね。たぶん、それ以外のことも耳に挟んだろうから」
「どういう意味ですか?」
「俺が婚約しているって情報が流れたからね」
あやはドキッとしながら、恵一朗の横顔をジッと見つめる。
「あや様が心配されるようなことは何もありませんよ」
友坂がそう言い、あやは頷くしかなかった。
鈴音から誘われたあやは、久しぶりに上京してきた彼女の父親が娘の様子を訊ねるためにこの席を設けたのだと思っていた。しかし、十文字市長が指定してきたのはホテルのレストランで、個室になっている場所だった。あやは緊張しながら、恵一朗と一緒に部屋に入った。
「やぁ、久しぶりだね。あやさん」
十文字市長は笑みを浮かべていたが、鈴音の方は俯いたままだ。あやはその様子が気になったが、挨拶をして席に着いた。
「まず、藤巻社長が婚約を決めたそうで、おめでとうございます」
十文字市長はその言葉から切り出した。
「ありがとうございます。正式に発表となるにはもう少し先になるかと思いますが」
恵一朗が笑みを浮かべ、答えているのをあやは横で見ていた。
「婚約者がいると聞き、先に話しておきたいことがあるんだ。あやさん、婚約者のいる方の部屋で過ごすのは、居心地も悪いだろうと思う。そこで鈴音と一緒に暮らしてみてはどうかな」
あやは一瞬、何を言われているのか理解できなかった。
(鈴音ちゃんと一緒に暮らす? なんで?)
答えに困るあやの横で、恵一朗がゆっくりと言葉を紡いだ。
「十文字市長は私の婚約者が誰なのか、ご存じないのでしょうね」
「あぁ、婚約を決めたとしか聞いていない」
十文字市長はそう言いながら、食前酒のワインを恵一朗と二人で呑み始める。あやと鈴音の前にはアイスティーが用意されていた。
「私が婚約をしたのは、木元あやさんです。つまり婚約者と一緒に暮らしているので、何も問題はありません。今のところ、あやさんを公表するつもりもありません。彼女に何かあっては困りますので」
恵一朗はワインを口に含み、笑みを浮かべる。
十文字市長の表情は変わらず、あやは鈴音の様子が気になっていた。ずっと俯いている鈴音はワンピースの裾をギュッと握りしめている。
「あやさんと婚約とは。まったく君という男は、鈴音の気持ちを弄んでその友人と婚約したとでも言うのか」
十文字市長の言葉にあやはドキッとした。
(鈴音ちゃんの気持ちを弄ぶってどういうこと? 藤巻さんは、鈴音ちゃんともお付き合いしていたの?)
不安を抱いた眼差しで恵一朗の横顔を見たあやは、恵一朗がこちらを向いて微笑んだのに気付いた。
「まだちゃんと説明をしていなかったようですね」
恵一朗のその一言に鈴音の肩が大きく震えるのをあやはぼんやりと見ていた。
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