第三話 ハジメテの嫉妬 1

 あやの大学生活が始まった。

(履修が決まったから、バイトを決めなきゃ。サークルはどうしよう?)

 履修が始まって一週間ほどが経ち、この講義は一日目だった。広い講義室を見渡したあやは、何人かの女子グループができていることに気付いた。

(友達の作り方もわからない)

 今までこんなことを考えたこともなかった。地元にいる時は幼馴染みもいて友達を作るという特別な行為が必要なかった。

「それでは講義を始めます。月に一回程度、特別講師の授業をさせてもらいます。それでは特別講師の藤巻恵一朗社長、お願いいたします」

 あやは同姓同名の人なのかと思うくらいその名前に驚いた。しかし、講義室前方の教壇に立った人は、今朝見送った時と同じ格好の恵一朗だ。

(嘘? なんでここに)

 この講義は必ず取ったほうがいいと恵一朗からのアドバイスを思い出し、あやは彼が特別講師をする予定があったことに気付いた。

「トーカンホールディングスの社長、藤巻恵一朗です。毎月一回程度、経営のノウハウ的なものを講義する予定ですが、ほぼ我が社自慢です」

 恵一朗の声がマイクを通して響いてきた。

(もっと早く教えてくれてもいいのに。心臓が飛び出しそうなくらいビックリした)

 そんなことを思っているあやのすぐ隣の席から声が響いた。

「社長だって。まだ若いよね?」

「ちょっと待って。調べているから――あ、まだ二十八? 二十九くらいみたい」

「若い! ね、帰りに誘ってみる?」

「お近づきになれたらいいよね。講師だし、質問ついでに」

「連絡先を交換する」

 そんな声を聞きながら、あやは不安になった。

(連絡先、訊かれたらどうするんだろう? ランチ誘われたら? 藤巻さんは行っちゃうのかな)

 この講義が終われば、昼休みだ。その後の三限目は休講になったのもあり、あやはこのまま帰るつもりだった。

「声もかっこいい。聞き取りやすいし、説明もわかりやすいよね」

 隣の席の女性がそう言い、あやはドキッとした。

(あー、もう。せっかくの藤巻さんの講義、集中しなきゃ)

 あやはようやく耳を傾けた。

「まずは我が社が経営している業種ですね。この中で行ったことがあるレストランやカフェ、ホテルはありますか?」

 恵一朗がそう言い、あやは配られたプリントを見つめる。

「行ったことがある人がいるとありがたいっていうだけですが。我が社はホテルや飲食店をメインに展開しています。つまりお客様第一のサービス業がメインということです」

 あやは恵一朗の説明で彼の仕事や会社のことを少しわかるようになった。九十分の講義はあっという間で、あやが立ち上がる頃には恵一朗の周りに女性が集まっていて話しかけられる雰囲気ではなかった。

(連絡先、渡されたりするのかな。ランチに行くのかな)

 誘われている恵一朗を見ていられなくてあやは講義室を出てきた。

 中庭に向かい、満開の桜を見上げる。綺麗な桜を見ていても、あやの気持ちが上向くことはない。

 恵一朗の周りにいたのはキラキラと輝いている女性ばかりだ。自信のある人はきっと自分を上手にアピールするだろう。

「私を相手するよりも楽しいかもしれない」

 都会の話題にはついていけないし、恵一朗の仕事についてもよくわかっていない。恋なのか憧れなのかよくわからないまま、彼の傍にいたい気持ちが強くなってついてきてしまった。

「もしかしたら、迷惑なのかな」

「何が迷惑なの? あやちゃん」

 背後に恵一朗の声が掛かり、あやはビクッとした。

「藤巻さん、どうしてここに?」

「君が講義室を出ていくのを見て、窓の外を見ていたんだ。中庭に行くのが見えたから、追いかけてきた」

「でも」

「俺ね、彼女がここの大学にいるから講師を引き受けたんだ。少しでも大学生の可愛い彼女を見たいし、彼女と共有する時間が欲しくて」

 あやは何も言わずに俯いた。

「彼女ってあやちゃんのことだってわかるよね?」

 あやは小さく頷いた。

「でも藤巻さんは他の女性に声を掛けられていて」

「何も心配しなくていいよ。不安にならないで。俺がどれだけ君に夢中かわからせてあげるから」

 あやのことをギュッと抱きしめ、恵一朗の唇が額に落とされた。

「迎えに来たんだよ。今日はもう講義がないでしょ」

「はい」

「会わせたい人がいるんだ。一緒に来てくれる?」

 恵一朗に微笑まれ、あやは頷いた。

「あの、呆れていますか?」

「なんで?」

「くだらないことでいじけてって思っていませんか?」

「くだらないことじゃないよ。あやちゃんがそれだけ俺のことを好きだっていうことでしょ。俺もあやちゃんが男と話していたら、ムカつくから」

「その心配は、しなくても大丈夫です」

「君は本当にわかっていないよね」

 恵一朗の言葉にあやは首を傾げるだけだった。

 恵一朗の運転であやははじめて彼の会社に足を踏み入れた。

「これが社長室ですか?」

「うん、意外とシンプルでしょ」

「は、はい」

 応接セットと大きなデスクがあるだけで、大きな棚や飾り棚があるわけでもない。美術品や骨董品が並んでいるわけもなく、壁には高そうな絵画が一枚掛けられているだけだ。

「もうそろそろ来ると思うんだけど」

 あやは恵一朗に頷きながら、デスクの奥にある黒い革張りの椅子を見ていた。

「あの椅子にいつも座っているんですか?」

「ここにいる時はそうだよ。座ってみる?」

 あやは慌てて首を横に振った。

「藤巻さんが座っているところを見たいです。お仕事風景が見たいというか」

「俺もあやちゃんの大学生活を覗き見したかったからなぁ。その気持ちはわかるよ。いつもはここに座って、書類がこうやって置いてあって確認したり、パソコンで業績をチェックしたりするんだ」

 恵一朗が椅子に腰を下ろし、いつもの姿を見せてくれる。

「お仕事をしている雰囲気、やっぱり違いますよね」

 あやの言葉に彼が苦笑を浮かべていた。

「こっちおいで、あやちゃん」

 彼の傍に行くと、あやは恵一朗の膝の上に座らされた。

「俺がいつも見ている風景だよ」

 あやはデスクを見渡し、あっと声をあげた。

「私の写真……」

「そう、まだ高校の制服を着たあやちゃんの写真と写真シール」

「飾ってくれているんですか? 恥ずかしい」

「そう? 最高に可愛いと思うんだけど。いつも君の笑顔に癒されて、俺のやる気を引き出してくれているんだよ」

 恵一朗の優しい声にあやは嬉しくて涙ぐみそうになった。

 ドアがノックされ、一人の男性が入ってきた。

「あやちゃん、紹介するね。俺の秘書で幼馴染みみたいなものなんだけど、友坂(ともさか)浩司(こうじ)だ。すごく信頼している仲間なんだ」

「は、はじめまして。木元あやです」

 あやは慌てて立ち上がった。

「あや様、はじめまして。友坂です。社長の大切な人だと伺っております。今後も何卒、社長をよろしくお願いいたします」

「友坂、今日はもういいだろ?」

「はい。お疲れ様でした。来週の件ですが」

「俺が話しておくから」

 恵一朗がそう言い、あやと一緒に社長室を出てきた。

「藤巻さん、どこに行くんですか? お仕事は」

「今日は急ぎの仕事がないから、半休にしたんだ。あやちゃん、ランチに行こう。デートもしたいし」

 あやは戸惑った。あやのために半休を取ってくれてデートの時間を作ってくれるのは嬉しい。社長が仕事を休んでデートをしてもいいのか、そんなことはないとわかっているだけに素直に喜べない。

「あの、一緒にいられてすごく嬉しいです。でも」

「うん、気を遣わせちゃったね」

 恵一朗はそう言いながら、あやの手を繋いで会社の正面玄関を出ていく。

「藤巻さん、会社の傍で手を繋いだら」

「困らないよ。彼女と手を繋いで何が悪い? それにあやちゃんにとても大切な話があるから」

 恵一朗がそう言い、あやは彼に手を引かれて駅の方へ向かった。

「ここだったね。あやちゃんが行ってみたい東京のカフェ」

「あの、そんなことを覚えていてくれたんですか?」

「当然でしょ。可愛い彼女が幸せそうに話してくれたんだから。まだ受験生の頃だったよね」

「はい、藤巻さんがシミュレーションは必要だって言ってくれて」

「東京に来たら、どこに行きたいか訊いたんだっけ」

「はい、カフェだったらどこに行きたいって訊いてくれました」

「で、ここのカフェの何が目当てだったっけ」

「メニューまではわからないです。ただ、地元には無いので」

「じゃ、今月のおすすめにしようか」

 恵一朗がそう言い、あやは頷いた。

「ランチはどこにしようか。何がいい?」

 カフェでドリンクをテイクアウトし、恵一朗がゆっくりとあやに尋ねる。

「あの、ラーメンが食べたいです」

「いいよ」

「でも藤巻さんはおしゃれなお店じゃないと」

 あやの言葉に恵一朗は笑っていた。

「俺もラーメン好きだよ。食べに行くし――ただ、女の子は嫌がるかなって思っていただけ」

 あやは首を横に振り、ハッとした。

「ご、ごめんなさい。あの、デートで行く場所じゃないんですよね?」

「デートでラーメン屋もありだよ、俺はね。美味しいところ連れて行ってあげる」

 恵一朗がそう言い、あやはどうしていいかわからなくなる。

(デートってどこに行けばいいんだろう? 恋人同士って何をすればいいんだろう)

 地元にいる時だったら、できることもデートで行ける場所も限られている。東京は広くて店もたくさんあってどうしたらいいのかわからない。

 ギュッと恵一朗の手を握ると、彼の手がそっと離れた。あやが顔をあげると、彼の手が伸ばされて肩を優しく抱いてくれた。

「不安になる必要はないよ。あやちゃんが行きたいと思ったところ、いっぱい連れて行ってあげる。だから君の好きなことも嫌いなこともすべて俺に教えて」

「藤巻さんも教えてくれますか?」

「うん、教えてあげる。でも俺はたぶん、嫌いなことはないかな。あやちゃんと一緒だったら、どこに行っても幸せだから」

 彼の言葉はずるい。だけどあやに少しずつ自信を持たせてくれる不思議な力があった。

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