第二話 ハジメテのキス 3
翌日は恵一朗と買い物に出かけた。メイクレッスンを受けながら、化粧品を選ぶのも恵一朗と一緒だった。
主にあやの買い物ばかりだったが、恵一朗は嫌な顔をするどころか楽しそうに見えた。
「すみません、こんなにしてもらってばかりで」
「楽しいからね」
「楽しいですか?」
「うん、楽しいよ。あやちゃんは何を着ても似合うからね」
「そんなこと」
あやは照れてしまうが、恵一朗は平然とその指を彼女の頬に滑らせる。
「あやちゃんは可愛いよ。さて次はね」
恵一朗がいろいろなところを案内してくれた。
翌日から恵一朗は仕事に行き、彼の姿にあやは驚いた。
「藤巻さん、眼鏡ですか? 髪形もいつもと違うような」
「うん、顔が子供っぽいからそれを隠すための眼鏡。ほとんど度も入っていなくてパソコン用の眼鏡みたいなものだよ。髪形も同じ理由。あやちゃんにも大学生に間違われたし」
「ごめんなさい」
「いや、俺こそ君のことを大学生だと思ったなんて、女性には失礼だよね」
「そんなことないです」
「じゃ、留守番、よろしくね。何かあったら連絡して」
「はい。いってらっしゃい」
あやの言葉に彼の唇がそっと頬に当たる。
「いってきます」
恵一朗を見送ったあやはその場に座り込んでしまった。
「朝、いってらっしゃいのキスってまるで新婚みたい」
いつまでも玄関に座り込んでいられず、あやは立ち上がった。まずは洗濯を済ませ、掃除をする。段ボールの中を確認しながら、あやはようやく片付けを始めた。広めのクローゼットにしまいながら、あやは恵一朗に買ってもらった服を一緒に片付ける。洋服だけでなく、恵一朗は少し席を外してくれてあやに下着まで購入してくれた。
自分の部屋の片付けをしながら、あやはバイトを探していた。
(うーん、駅名とかわからない)
土地勘のないあやにとってバイトを探すのも大変だった。
恵一朗は昼休みの時や移動中に電話をくれることが多い。
『あやちゃん、一人で大丈夫? 昼ご飯はもう食べた?』
その言葉を聞き、あやは昼ご飯を忘れていたことに気付いた。
「今から用意しようと思って」
『それなら、少しだけ外に出ておいで』
マンションの下に出ると、恵一朗の姿が見えた。
「メイク練習したんだね。上手にできているよ」
「時間がかかってしまって」
あやの言葉に恵一朗は少しだけ笑った。
「こっちはランチに食べてね。こっちは――冷蔵庫に入れておいてくれる?」
「はい」
「夕食、俺が作るから」
恵一朗はそう言い、今度はあやの額に唇を当てた。そして車の後部席に乗り込むと、その車は滑るようにあやの前を過ぎた。
「忙しいのにご飯を用意してくれたんだ」
あやは嬉しい気持ちと申し訳ない気持ちが入り混じっていた。
いよいよ入学式当日になった。リクルートスーツを身に着け、あやは数日間練習したメイクで大学に向かう。
「俺も一緒に行くから」
恵一朗がそう言い、あやは兄の大地と待ち合わせている場所を告げた。
「うん、わかった。今日は電車で移動しようね」
恵一朗と一緒に駅に向かったあやは、人の多さに驚いた。
(ぶつからずに歩くってすごい)
そんなことを思いながら、あやは恵一朗の手をしっかりと握っていた。
「こっちだよ」
恵一朗があやの肩を掴み、引き寄せてくれる。電車の中も満員であやはただ息を潜めているだけだ。乗り換えもなく、一駅で大学近くの駅に着くらしい。
(この距離なら自転車とか)
歩いてこられないだろうかと考えていた。
「あ、大地さんだよ」
兄を見つけてもらい、ようやく入学する大学に到着した。入学式は滞りなく、形式通りに終わったようだ。
新入生は書類を受け取ると、解散になった。
「少し早い時間ですが、食事に行きましょう」
恵一朗がそう言ってくれて、あやは母親と大地と一緒に歩き出した。
「あや、藤巻さんと一緒で楽しい?」
母親の言葉にあやはすぐに頷けなかった。
「一緒にいてくれる時はすごくよくしてくれて、申し訳ないくらいなの。当たり前だけど藤巻さんが仕事に出てしまって、一人で留守番していると何をしていいかわからなくて」
「あやちゃんはよくやってくれているよね。毎日、掃除してくれて洗濯して食事も頑張って作ってくれるし」
「食事は藤巻さんが作ったほうが美味しいし」
あやの言葉に母親と大地が笑い出した。
「お父さんが聞いたらムッとするわよ。娘のノロケ話なんて面白くないに決まっているんだから」
「そうそう。親父ったら、あやが寂しそうだったら連れて帰って来いって、今朝も言っていたよ」
「お父さんが?」
あやが驚くと、大地が笑っていた。
「そういうものなのよ」
母親が笑う。
「こちらの店を予約したんですが」
高層ビルの上階にある和食の店に、あやと母親、そして大地は躊躇してしまう。
「安心していいですよ。個室なので」
「それって高いんじゃ」
「あやちゃん、料金は気にしないの。俺はあやちゃんに対しても格好つけたいし、君の家族にもいい男だって認めてもらわないといけないんだよ」
「藤巻さんが素敵なのは、家族みんな知っていることで」
あやの反論に恵一朗が首を横に振る。
「そういうことじゃないんだよ。みんなが大好きなあやちゃんに相応しい男かどうか見てもらわなきゃならないからね」
男の力量というのだろうか、プライドなのか、あやにはよくわからなかった。
「あやちゃんに見せたい景色があって、ここが一番だと思う」
個室に案内されたあやたちは、恵一朗に誘われて窓の外を見つめた。眼下に広がるのは桜並木で、それはまるでピンク色の川のように見える。
「すごく綺麗」
あやはその一言しか思いつかず、自分の言葉が子供っぽいと思った。
「喜んでもらえてよかった」
恵一朗が優しくそう言ってくれて、あやを窓際の席に座らせてくれる。
「大地さんの声が大きいので、個室で話すしかないんですけどね」
冗談めかした恵一朗の言葉に、大地がムッとしていた。
「声が大きくてすみませんでした。メニューを見ても何を頼んでいいかわからないんですが」
子供のようにいじけた口調になる大地に、あやは苦笑を浮かべていた。
「お料理は頼んでありますよ。それではまずは飲み物ですが」
それぞれが好きな飲み物を頼んだが、全員ノンアルコールだ。
恵一朗が頼んでくれたのは松花堂弁当のようなものだ。十六種類のおかずはどれも手の込んだ職人の技が垣間見える。
「まずはあやさんの入学を祝って」
乾杯と言ってくれた恵一朗にあやは笑顔を見せた。
「藤巻さん、あやが迷惑をかけるようなことがありましたら、すぐに」
「あやちゃんが迷惑をかけるようなことはありませんよ。私の方こそ、あやちゃんに負担を掛けていて」
「私に負担ですか?」
あやが疑問を投げかけると、恵一朗が笑った。
「朝早く起きて、朝食を作ってくれるよね。夕食は交代制でも俺の仕事の都合上、当番が守れないこともあるし、家の掃除はすべてあやちゃんがしてくれているからね」
「それくらい当たり前のことですから」
あやがそう言い、母親も頷いた。
「あや、しっかりと藤巻さんの胃袋を掴んでおきなさいよ」
「あやちゃんの料理、とても美味しいですよ」
「藤巻さんの方が料理上手で」
あやがすぐに恵一朗のフォローをし、大地が笑い出した。
「母さん、この二人は心配ないようだね。あや、東京と地元じゃ気温や気候が違うから、体調管理はしっかりするんだぞ」
大地がそう言い、あやは照れ笑いを浮かべた。食事を楽しみながら、あやは母親とたわいのない話をしていた。
大地と恵一朗が仕事の話をしているのもあり、あやは聞かないようにしていた。
「今度ね、ミャンマーからの農業留学生を受け入れるのよ」
「ミャンマーから?」
「うん、ほかにもアジア圏の農業留学生を受け入れて、三年間農業を学びながら一緒に過ごすらしいのよ」
「すごいね。ほかにも農大生の研修も受け入れるんでしょう?」
「そうなの。意外と大地がやり手なのよ。雄一とお父さんも驚いているくらいに」
「びっくりするよね」
食事を終わらせると、今度はあやと恵一朗のマンションに案内した。
「飛行機の時間は?」
「十八時半だっけ?」
母親の曖昧さに大地が笑った。
「十八時半までにチェックインするんだよ」
「そろそろ出たほうがいいかな。送っていきますよ。あやちゃんも見送りしたいでしょ」
恵一朗がそう言い、部屋ではお茶を飲んで少し話しただけだった。
空港でチェックインを済ませ、搭乗時刻までロビーで母親と話していた。
「しっかり勉強してよ」
母親からは激励を受け、あやは頷いた。二人を見送ると、あやは少しだけ寂しくなった。
「さて、帰ろうか。あやちゃん、何が食べたい?」
「え?」
「今夜は俺が作るよ。あやちゃんの好きなものは何かな?」
「急に言われても」
「お祝いメニューだから、メインは肉にしようか」
あやは笑いながら、恵一朗の手をギュッと掴んだ。
「藤巻さんがすごく優しくていっぱいいろんなことをしてくれて、私は何を返せばいいですか?」
「俺が君に与える物よりも、君が俺に与えてくれるものは価値があって大切なものばかりだよ」
「どういう」
「そのうち、教えてあげるから、今はわからなくていいよ」
家に帰り、恵一朗がハンバーグを作ってくれた。あやも手伝いルッコラのサラダを作る。ブルーチーズのドレッシングを手作りしていると、恵一朗が目を丸くしていた。
「へぇ、あやちゃん、ドレッシングも手作り?」
「はい、毎回違うドレッシングが楽しめるのと、簡単に作れるので」
「さすがにドレッシングを作ったことは無いな」
恵一朗がそう言い、二人は食事を囲んだ。食事後はあやの履修を決めるのに、恵一朗がアドバイスをしてくれる。
「こことここは必修じゃないけど、取っておいた方がいいよ」
経営学科に入ったあやにとって、知らない科目も多く楽しみで仕方ない。
「履修は明日だっけ?」
「期限は今週中です」
「早めに出しに行く方がいいから、朝は大学まで送ってあげる」
彼の言葉にあやはただ嬉しくて彼に抱きついた。そのまま、あやが顔をあげると、恵一朗の優しい笑顔が見えた。そのまま彼の顔が近付き、あやは思わず目を閉じた。
いつものように額や頬にキスをされるのかと思っていた。この日は唇に優しい感触が当たり、ゆっくりと重なった。
(はじめてのキス)
あやがゆっくりと目を開けると、恵一朗が彼女の下唇をプニッと摘んだ。
「柔らかくておいしいよ」
「そう、ですか?」
「あやちゃんは何か感じた?」
「あったかくて優しくて」
「もう一回」
唇が重なり少しだけ角度を変える。下唇を吸われたあやはどうしていいかわからなかった。
「明日からは行ってきますって、ここにキスをするね」
唇を彼の人差し指で押し当てられ、あやは恥ずかしくなった。照れた顔を見せたくなくて、もう一度ぎゅっと恵一朗の胸に顔を埋めていた。
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