第二話 ハジメテのキス 2

 恵一朗の運転する車に乗り、あやは次はどこに行くのかワクワクしていた。そんなあやのスマートフォンが鳴った。

「ごめんなさい」

「いいよ、出て」

 あやは頷き、すぐに通話にした。

『あや? ちょっと大変なことが起きて』

 鈴音からの電話に、あやはビクッとした。ちょうど信号待ちで車が停まり、恵一朗がすぐにあやのスマートフォンをスピーカーにした。

「何があったの? 鈴音ちゃん」

『ガスが使えなくて困っているの。お風呂とか――』

 その言葉を聞き、あやはすぐに恵一朗を見つめた。

『引っ越しの片付けも終わらなくて。あやはもう終わった? ご飯は食べた?』

 あやは正直に答えることにした。

「引っ越しの片付けはまだ全然進んでいないの。これから食事にしようと思っているんだけど」

『どこかで食べるの?』

 鈴音の言葉にゆっくりと答えたのは恵一朗だった。

「電話を替わってもらってごめんね。今からあやちゃんと食事に行くんだけど、予約制の店でね」

『すみません。それなら仕方ないので。ね、あや――明日の午前中、うちに来てくれないかな。ガス屋さんが来るんだけど一緒に立ち会ってもらえない? 一人じゃ不安で』

「あやちゃん、明日は大学までの道を覚えて貰わなきゃいけないから」

「あ、そうですよね。藤巻さんがお休みの時に教えてもらわないと」

 あやがそう言い、鈴音は溜息を洩らした。

『あやには藤巻社長が一緒にいていいわね。私は誰も頼れないのね』

 そう言いながら電話は勝手に切られた。

「どうしよう? 鈴音ちゃんの機嫌が悪くなっちゃったみたいです」

「気にしなくていいんじゃない? もともとすごく仲良かったわけじゃないだろうし」

「でも」

「俺のせいにしていいから、あやちゃんは気にしなくていいよ」

 恵一朗の優しさについ甘えてしまうあやだった。

 恵一朗が連れてきてくれたレストランは、彼の会社が経営する店の一つらしい。

「このホテルは我が社初のホテルで、うちの会社の原点みたいなものなんだ。大切な人を連れて行く場所として、俺や俺の家族にとって特別な空間だよ」

「そんな大切な場所に私が一緒に来ていいんですか?」

「あやちゃんだから連れてきたんだよ。この意味、わかるだろ?」

 恵一朗の言葉にあやは耳が熱くなった。

(藤巻さんにとって特別な人はここのレストランで食事をするの?)

 オーナーやシェフと笑顔で会話する恵一朗は、経営者としての顔ではないような気がする。何度もここに足を運んでいる様子が窺え、あやは少しだけ視線を伏せた。

(藤巻さんの元カノも来たことがあるってことだよね。大切な空間できっと幸せな時間を過ごして、その後)

 あやは息が止まりそうになった。

(バカみたい。過去に嫉妬しても仕方ないのに)

 それでも気になる。恵一朗がどんな女性と今まで付き合ってきて、彼がどんなふうに愛を囁いたのか。あやに対して優しく甘く蕩けるような愛を注ぐのは、今までの経験がそうさせているのだろうか。

「あやちゃん? 飲み物だけど」

「あ、ごめんなさい」

「何か気にしているようだね」

 恵一朗の言葉にあやは何も言えなかった。

「まずは飲み物を頼もうか。炭酸があるものがいい? それとも」

「炭酸が入っているものがいいです」

「リンゴと柑橘系はどっちがいいかな?」

 恵一朗の質問にあやは柑橘系と答えた。ライムジンジャーエールを頼み、恵一朗も同じものを頼んでいた。

「食事はどうしようか。メインは牛フィレでいいかな」

「お任せします。何を頼んだらいいのかわからなくて」

 今まで恵一朗が食事をした女性はきっと優雅にコースメニューを自分で選んだのだろう。だから彼が驚いたような顔をしているのだと思った瞬間、あやは俯いた。膝に掛けたナプキンをギュッと握り、自分がこの場に相応しくないような気がして恥ずかしい。

「あやちゃん、顔をあげてくれないかな」

「あの、藤巻さん」

「うん、いいから俺を見て。君がこういう場に慣れていないのは、仕方ないよ。少しずつ慣れて欲しいんだ。それに君の泣きそうな顔もすべて俺に見せて欲しい」

 恵一朗の言葉にあやは驚いた。

「どうして泣きそうだってわかったんですか?」

「君が何を考えているのか、君の視線や表情を見ていれば察することはできるよ。あのね、あやちゃん」

「あの、大丈夫です。言わなくても」

「ここに彼女を連れてきたことはないよ。俺はえっと、何て言えばいいのかなぁ。付き合った女性は今までにいるけど、あやちゃんほど誰かを愛したことはない。この空間も家族以外とは来たことがないし、彼女を連れてきたのははじめてだからオーナーやシェフに驚かれたんだ」

「そんな」

「本当だよ。ね、あやちゃん、顔をあげて」

 あやは涙で潤んだ瞳のまま、恵一朗を見つめた。いつも通りの優しい笑顔を向けられ、今にも涙が溢れてしまいそうだった。

「あやちゃん、俺と付き合ってくれてありがとう。そしてこれはいつか本物をプレゼントできるようになるまでの予約」

 あやの左手を出すように言われ、彼女はそっと差し出した。可愛らしいアンティーク調の指輪には真ん中にピンク色の光る石が入っていた。

「可愛い」

「気に入ってくれてよかった。君のイメージに合うものをずっと探していてね、ようやく見つけたんだ」

「でも、指にぴったり」

「それは秘密。そこまで種明かしをしたら、俺が格好つけた意味がなくなるからね」

 ウインクして見せる恵一朗がどこかおどけていて、あやは少しだけ笑った。

「笑顔のあやちゃんが好きなんだ。もちろん泣き顔も好きだけど、俺の前ではどんなに表情が変わってもいいんだけど、笑顔が君には一番似合うから」

「藤巻さん」

「はにかんだ笑顔も可愛いよ。俺の癒しだね」

 あやは思わず目を丸くしてしまった。まさかそんな言葉を言ってもらえるとは思わなかった。

 ライムジンジャーエールで乾杯した。あやはフォークやナイフの使い方は習ったことがあるが、恵一朗はとても優雅で綺麗な手つきで食事をしていくのに驚いてしまう。

「うん、あやちゃんはとても上手だよ。だけどナイフはもう少し立てたほうがいいかな。そう、フォークはそうやって押さえるんだ」

 恵一朗があやにコツを教えてくれる。

「こうやるんだよ。エビの殻はこうやって」

「あ、そうなんですね」

「うん、それからムール貝はここを――」

 フィレ肉はここからと切り方まで教えてもらった。

「すみません。あの、何もできなくて」

「いや、普通でしょ。今はできなくても覚えたらできることだから」

 恵一朗が優しくそう言い、あやは食事を楽しく過ごせた。

「さて、帰ろうか。明日はもっと出かけるからね」

「買い物って」

「まず、リクルートスーツでしょ。大学に行く時に来ていく服、それから」

「私の買い物ですか?」

「うん、俺が準備したいから気にしないで」

「でも」

 あやは戸惑ったが、恵一朗はただ笑うだけだった。

「化粧品、メイクレッスンも予約しておいたよ。あやちゃん、美容室は行きたい?」

「あの、藤巻さん、そこまで」

「自分の彼女を可愛くしたいだけだよ。今でも十分可愛いから、もっと可愛くなったら大学生の男どもが声を掛けてくるかもなぁ。それは嫌だけど、指輪が効果あればいいなぁ」

 恵一朗はそんなことを言いながら、あやと一緒に車でマンションに戻ってきた。

「藤巻さん、あの、私――モテたことがないので」

 あやが言葉にすると、恵一朗が首を横に振った。

「悪い虫が付いたら本当に困るんだよ。俺のあやちゃんなんだから」

 エレベーターの中で真顔で彼はそう言った。

 部屋に入ると、恵一朗の電話が鳴っているようだ。

「ごめん、あやちゃん。お風呂に入っていいよ。シャワーの使い方とかわかる?」

 あやは小さく頷き、一度部屋に戻った。段ボールの中にはパジャマが入っている。それを取り出しながら、下着を用意した。

(新しい下着、用意すればよかった)

 そんなことを思ったあやだが、さすがに恵一朗と一緒に下着売り場には行きたくない。バスルームを先に借り、あやは少しだけ緊張していた。

(今夜、そういうことになるのかな)

 そんなことを考えていたあやだが、シャワーを浴びた後も恵一朗の電話は終わらないらしい。冷蔵庫から水を取り出した。それをコップに注ごうとして、コップもマグカップもペアで揃っていることに気付いた。

(藤巻さんがそろえてくれたんだ。あ、お茶碗もお椀もペアだ。お箸にスプーン、フォークも。うわぁ、恋人同士みたい)

 そう思った瞬間、ハッとした。

(恋人同士みたい、じゃなくて――恋人同士だ。恋人同士って言葉がもう恥ずかしい)

 難しい顔をして電話をしている恵一朗の横顔を見つめ、あやはドキッとした。

(恋人だから――いつ、そうなってもいいようにしなきゃ。でも今日はこんな下着を見られるのは恥ずかしい)

 一人そんなことを考えていると、あやのスマートフォンにメッセージが入った。

『あや、引っ越しは無事に済んだ?』

 親友の理佐からのメッセージを見つめ、あやは急に寂しくなった。

『片付けはまだ終わっていないよ』

 正直に答えると、理佐からは長文のメッセージが入ってきた。

 どうやら鈴音が理佐に愚痴を吐いているらしい。一緒に上京したのに、あやが冷たいと言っているらしい。

『鈴音ちゃん、藤巻さんのことを好きらしいよ』

 理佐の言葉にあやはやっぱりと思った。

『理佐、私が付き合っているって言った?』

『言わないよ、面倒だもん』

 理佐の言葉にホッとしたあやだが、あやと恵一朗の関係はすぐに明らかになるだろう。それからはたわいのないメッセージとスタンプを送り合うだけだ。

『バイト先に新しい人が入ったんだよ。こっちの農大生でね、引っ越してきたばかりだって』

 理佐の言葉を読みながら、あやは寂しさが募る。

『東京は思っていたよりも寒かった』

 あやはそんな近況を伝えながら、コップに入れた水を飲んでいた。恵一朗の電話がなかなか終わらないようで、一度保留にした恵一朗はあやをベッドルームに案内した。

「どっち側で寝てもいいよ。抱きしめて寝るのは許してね。眠くなったら寝ちゃっていいから」

「藤巻さん、お仕事が忙しいのに二日もお休みを取らせて」

「あぁ、大丈夫だよ。業務報告を受けているだけだから。今度、俺の秘書も紹介するね。じゃ、おやすみ」

 あやの額に唇を落とされ、あやはくすぐったかった。ベッドにゴロンと横になりながら、理佐とメッセージのやり取りをしていたつもりだ。

 いろんなことがあった一日にあやは疲れて、知らないうちに眠ってしまった。



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