第二話 ハジメテのキス 1

 抱きしめられたあやは頭の上でフッと恵一朗が笑うのを聞いた。

「どうして笑うんですか? 私――変ですか?」

 彼にギュッとしがみついた仕草が子供っぽいのだろうか。大人っぽく抱きつく方法があるのだろうか。あやにはわからず、戸惑ってしまう。

「違うよ、あやちゃん。君に笑ったんじゃない。俺の余裕の無さに笑うしかなかったんだ」

「余裕の無さ?」

「教えてあげない。今はね」

 恵一朗がそっとあやを引き離し、彼女の手を取った。

「あやちゃんの部屋はこっちだよ」

 あやのために用意された部屋には、木目調の机が置いてあるだけだ。

「椅子は座り心地があるから、あやちゃんが選んだほうがいいと思う。ベッドはこっちの部屋に置いたから。君から届いた荷物はここに置いてあるよ」

 クローゼットは広く、あやが送った段ボールは梱包されたまま置いてあった。

「ほかに必要なものがあったら言って」

 あやは小さく頷くだけだった。

「ベッドは勝手に選んでしまったんだ。どうしても配送に日数が掛かるからね」

 恵一朗はそう言い、ベッドルームに案内してくれた。大きなベッドが置かれた部屋には壁にテレビがはめ込まれている。ベッドの両サイドにはサイドチェストが置かれていた。

「ここに照明を置きたいから、あやちゃんが選んで」

「あの、藤巻さん」

「うん、どうしたの?」

「家賃、半分払えないです。それに照明って」

 あやの言葉を遮り、恵一朗が笑いながら言葉にした。

「君はわかっていないよね。俺はここに君を閉じ込めるつもりだって」

「でも、大学」

「学校には通ってもらうし、バイトもしていいよ。だけど君が俺の傍を離れたいと思わないように君の居心地がいい空間を作りたい。そのための部屋だから、俺に甘えてよ」

 恵一朗の腕が伸ばされ、あやはまた彼の腕の中に閉じ込められた。

「あやちゃんが傍にいてくれるだけで、俺は癒されてまた頑張れる。君が傍にいるだけで安心できるから」

 恵一朗の想いがあやの心に響く。

「藤巻さん、私は」

「俺の腕の中で笑ってくれればいい。さて、買い物に行こうか」

 あやは小さく頷き、恵一朗の手を掴んだ。

「はじめてだね。君から俺の手を掴んだのは」

 恵一朗の言葉にあやはハッとした。

「ごめんなさい。子供っぽくて嫌ですか?」

「ううん、そうじゃないよ。君がやっと俺を求めてくれたって気がしただけ。そうだな。できればこうやって手を繋いでほしいかな」

 指と指を絡ませ合い、手を繋ぐとあやのほうが照れてしまう。

(うわ、ここって高級家具店って感じ?)

 恵一朗が連れてきてくれた家具店は、テレビで見るような場所であやは緊張して顔が強張ってしまう。歩くたびに手足が同時に出ているような気がして、一人だけ動きが怪しい。

「藤巻社長、いらっしゃいませ」

「案内を頼むよ。まずはドレッサーがあるところを」

 ドレッサーと聞き、あやは慌てて恵一朗の手をギュッと握った。

「必要でしょ? あやちゃん」

「でも」

「気にしないでって言ったよ」

「社長のご親戚ですか? 可愛らしい方ですね」

 優しそうな営業スマイルを見せる女性店員に対し、恵一朗はムッとしたようだ。

「すごく可愛い人だよ。俺の彼女だから」

 恵一朗の言葉に女性店員は驚いているようだ。

(そうだよね。こんな子供っぽい私が藤巻さんの彼女だなんて信じてもらえないよ)

 あやはつい俯いてしまい、恵一朗の手に引かれるまま付いていくだけだ。

「あーぁ、君の接客ダメだね。俺の彼女、落ち込ませてどうするつもり?」

 恵一朗が低い声でそう言い、あやは彼の冷たい声に驚いて顔をあげた。いつもの優しい顔とは違う冷たく光る鋭利な目にあやはビクッとした。

「悪いけど、別の人を呼んで。ドレッサーのコーナーには勝手に行くから」

 恵一朗の手があやの手をギュッと掴み、早足で歩き始めた。

「ごめん、あやちゃん」

「あの、でもっ」

「君に嫌な思いをさせるつもりはなかったし、ビビらせるつもりも無かった。だけど俺の彼女をバカにする奴は許さない」

「でも、藤巻さん。私が釣り合い取れないのは」

「君が釣り合いを取る必要はないだろ。俺が君に合わせるべきなんだから」

「えっ?」

「あやちゃん、わかっていないの? 俺の方が君のことを愛しているんだよ。これからもっとわからせてあげるけど」

「藤巻さん、でも」

「君は急いで大人になる必要はないよ。俺が少しずつ大人にしてあげる。さて、どんなドレッサーがいい? 色もたくさんあるんだね。鏡の形は?」

「そんな、こんなにいっぱいあったら選べない」

「まずは色から決めようよ」

 恵一朗があやの好みを聞きながらドレッサーを選んだ。

「藤巻社長、先ほどは大変失礼いたしました」

「彼女は再教育したほうがいいね。客に対する態度ができていない。それでは困る」

「はい、申し訳ありません。ドレッサーはこちらでお決まりですか?」

「あぁ、これにする。次はソファだ」

 恵一朗がそう言い、あやは彼の手に引かれる。すれ違う客は少ないもののそれなりに裕福な人ばかりだろう。

(私みたいな農家の娘が来る場所じゃないんだろうな)

 あやは今まで農家の娘ということに引け目を感じたことがない。はじめてこんな気持ちを募らせ、そんな気持ちを抱いた自分が嫌いになりそうだった。

(東京に来る人ってやっぱりみんな違うんだろうな)

 そんなことを考えていると、ソファのフロアに到着したようだ。

「あやちゃん、座ってみて」

「は、はい」

 緊張してぎこちないあやを包み込むようにエスコートしてくれる。恵一朗がゆっくりと言葉にした。

「こんな店に連れてきてごめんね。居心地が悪いかな」

「ち、違います。あのはじめてで」

「居心地が悪そうな顔をしているよ。でもここはうちの会社の一つだから、あやちゃんも知っておいて欲しいんだ。それに自分の物を買う時に店に貢献したいから」

「ごめんなさい。あの、すごいところだとは思うんです。でもどうしていいかわからなくて」

「いつものあやちゃんで構わないのに。あやちゃん、これは本革のソファだけど、こういうのと布とどっちがいい?」

「あの、え、選べないです」

 あやは涙目になってしまった。

「困らせたくて言っているわけじゃない。君が好きな座り心地を知りたい。好きな人のことは一つでも多く知りたいからね」

「それなら、私に藤巻さんのことを教えてください。藤巻さんはどっちがいいですか?」

「前の家の時はこのシリーズだったんだ。布は手入れが楽らしいんだけど、使ったことがない。こっちに座ってみて」

 布張りのソファに座ると、あやは懐かしいと思った。

「君の実家はこっちのソファでしょ?」

「はい」

「こっちがいい?」

「あの、藤巻さんが使いやすい方で」

「あやちゃんの好みは?」

「革のソファ、憧れてました」

「オッケー。こっちにしようね」

 大きさを選んで、色を選んだ二人は照明とあやの椅子を買った。会計の時は恵一朗がカードを出すだけで、金額はわからない。

「ソファは二週間後だって。二週間も待たないと、ソファでイチャイチャできないって残念」

 彼が小声でそう言い、あやはようやく笑った。

「あやちゃん、東京タワーに行ってみる? スカイツリーがいい?」

「スカイツリーは行ったことがないので」

「じゃ、行ってみようか。今日は観光も楽しまないとね」

 恵一朗がそう言い、あやは彼の手をギュッと握った。

「藤巻さんは明日、お仕事ですよね」

「休みを取っているよ。君の買い物に付き合うつもりだし、引っ越してきたばかりのあやちゃんを案内しないと」

「でも」

「有休はこういう時に使うものだと思うからね。それにあやちゃんの入学式も休みを取ったんだ」

「さっき、休めるかわからないって」

「それは十文字さんが傍にいたからそう言っただけ。大地さんとも約束しているし、休みは取ったよ。大地さんとの話は仕事だけど」

「藤巻さんは鈴音ちゃんとも親しいんですか?」

 あやは少しだけモヤモヤしながら、言葉にした。

「親しくはないけど、何度も会っているよ。市長に呼ばれることもあって話を伺いに行く時は、必ずと言ってもいいほど彼女が同席していたから」

「それって何か意図的に彼女が同席していたんですか?」

「意図的、だろうね。俺には関係ないけど。だって俺にはあやちゃんという可愛い彼女がいるわけだし」

「可愛くないです」

 あやは窓の外を見た。

「俺にはもっと相応しい女性がいるとか、そんなことを思っているのかな。俺、そこまで余裕がないんだけど」

「余裕がないって何ですか?」

「俺がどれだけ君を欲していて、君を愛しているのかしっかりわからせてあげる。でも、それは今日じゃない。君が覚悟を決めた時って決めているから。ほら、スカイツリーが見えたよ」

 謎めいた恵一朗の言葉にあやは何も言えず、天高くそびえるスカイツリーを見ていた。

「東京タワーは修学旅行で?」

「はい、東京タワーは全員強制でした」

「あやちゃん、高いところは平気?」

「たぶん」

 高くそびえるスカイツリーに少しだけ恐怖を感じていた。恵一朗と一緒に駐車場を出て、展望台へのチケットを購入する。

 あっという間に展望台に到着し、あやは恐る恐る窓際に近付いた。

「あれがあやちゃんと俺の住むマンション。その左手にあるちょっと変な形のビルが見える?」

「え? えっとてっぺんが斜めになっているところですか?」

「うん、あれがうちの会社。それでその傍に茶色い建物が見えるでしょ?」

「はい」

「あれが十文字さんのマンションだよ。彼女の通う大学はあっち。あやちゃんの大学はあそこ」

 恵一朗にギュッと抱きしめられながら、あやは耳元で囁かれた。

「ん、藤巻さん。耳、くすぐったいです」

「くすぐったいか。あやちゃんの攻略は難しいかもなぁ。もっと上の展望台に行ってみる?」

 あやは頷き、彼の腕に腕を絡ませる。

「あやちゃんはずるいな。俺が我慢しているのを気付かないで、そんなことをしてくるんだから」

「我慢って何ですか?」

 あやの言葉に恵一朗は苦笑を浮かべるだけだ。

「藤巻さん、教えてくれないんですか?」

「そのうち、わかるから」

 二人は最上階の展望台で手を繋いで夜景を楽しんだ。

「ちょうどいい時間だね。明るい時間にも見れて、上の展望台では夜景が楽しめて」

「はい、ありがとうございます」

「食事をしながら、今後の話をしようか」

 恵一朗がそう言い、二人はゆっくりとスカイツリーを後にした。

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