第一話 ハジメテの恋 1
三月上旬、公立高校の卒業式が厳かに行われた。最後にみんなで写真を撮り合い、別れを惜しむ仲間たちを後目(しりめ)に彼女はゆっくりと校門を出る。
(本当に来てくれた)
校門の前で待つ男性に早足で歩み寄ると、彼は彼女の頭をクシャッと撫でて微笑んだ。
「卒業、おめでとう。合格祝いしてやれなくてごめんね」
柔らかな笑顔と低いけれど聞き取りやすい声で彼女は包み込まれた。木元(きもと)あやはこの日ようやく高校を卒業した。
「いえ、受験の時もいっぱいお世話になってお礼もできなくて」
あやは言葉を選びながら、ゆっくりと口を開いた。
(会えてよかった。あの約束通りって信じていいんだよね?)
あやは嬉しさとホッとしたのとよくわからない感情が入り混じり、泣きそうだった。
「夕方まで、あやさんをお借りします」
彼があやと一緒に卒業式に出席していた両親に向かって、頭を下げる。
「夕方、二人で帰って来なさい。卒業祝いを家で準備しているから」
あやは両親に頷き、彼と一緒に車に乗り込んだ。
彼の名前は藤巻(ふじまき)恵一(けいいち)朗(ろう)、あやの人生に一番の影響を与える人だ。
彼との出会いは二年前――あやはあの日から彼のことが気になっていた。
あやが高一の夏、地元でも有名な酪農家の木元は、大きな変革を迎えた。あやの父方は酪農業を営み、広大な土地で牛舎、豚舎、鶏舎を管理している。父と祖父と父の兄が主な担い手だったが、祖父が体調を崩すようになった頃でもある。一方で母方の佐々木家も有名な農家で米や野菜を出荷するこの地域では最大級の農家だった。収穫の繁忙期にはあやも幼い頃から手伝いに行っていた。
しかしどちらも担い手が足りない。あやの長兄が酪農を継ぎ、次兄が大学在学中にあるプランを打ち出した。あやにはよくわからないが、木元家の酪農業と佐々木家の農業を併せて企業農家にするというのだ。そして木元ファームという会社ができた。
あやが理解しているのはその程度のことだった。それから半年後、父の兄夫妻の息子が都内から戻ってきた。イトコは都内のレストランでシェフとして腕を磨き、そこで出会った女性と結婚してこの土地に戻った。
イトコ夫妻がレストランを開業し、あやはそこのアルバイトスタッフとして働くことになった。
あやの通う高校はこの地域では有名な進学校で、土日と長期休暇以外はアルバイト禁止だ。あやはその校則を守った上で、アルバイトに励んでいた。もちろん成績を落とすことは許されない。
そのレストランに月に一回程度やってくる大学生っぽい男性が、アルバイトスタッフの間で話題になっていた。
「ちょっとおしゃれな大学生で、モデルっぽい」
誰かがそう言いだし、あやも思わず頷いた。
(都会の人って感じ。でも観光客っぽくないんだよね)
あやはそう思っていた。ちょっと不思議な大学生風の男性は、毎月土曜か日曜の昼間にやってくる。そしてその日のおススメランチを頼み、食後にはブレンドコーヒーを飲む。タブレット端末で何か作業をしていることが多く、しばらくするともう一杯ブレンドコーヒーを頼む。
あやは毎月、彼に会えるのが楽しみだった。今月はもう来たのか、それとも今日来るのか、そんな楽しみを抱えながらアルバイトに励んでいた。
一年近く彼を見ていたあやだが、オーダー以外で話をすることはなかった。
高二の春休み、この日は朝からずっと忙しい店内だった。夕方にはスキー客の団体が入り、いつも以上に賑わっている。
(あ、こんな日の夜に?)
その大学生風の男性がふらりとやってきた。
「お客様、申し訳ありません。ただいま満席でして」
あやが彼に気付き、声を掛ける。
「オーナーに話があったんだけど、オーナーは?」
「外出中です。もうすぐ戻ると思うのですが」
オーナーのイトコは足りなくなった食材を調達しに行っている。といっても木元ファームに行けば調達できるはずだ。
「わかった。ねぇ、エプロンって借りられる?」
急にそんなことを言われたあやは、驚いて反応ができない。
「荷物を置きたい。それからエプロンを貸して。洗い場が回らなさそうだから、そこを手伝うよ」
彼はそう言い、あやはバックルームのロッカーを一つ、彼に貸した。そしてエプロンを貸すと、彼はすぐに洗い場に入った。
「あやさーん、六番テーブルですが」
彼のことを気にしている間もなく、あやはスタッフに声を掛けられた。
「はーい、六番テーブルは煮込みうどんを先にお願いします。お子様用の食器も」
「三番テーブルのハンバーグお願いします」
あやは店内を見ながら、厨房に指示を飛ばす。これはイトコの奥さんがやっていた仕事を真似ているだけだ。先月、彼女の妊娠が判明して仕事を休んでいる。その穴埋めとまではいかないが、あやはできる限り周りを見て行動しているつもりだ。
「おーい、そこの姉ちゃん!」
喫煙席の男性客があやを呼び止める。
「さっきから呼んでいるだろ! 無視するなよ」
「申し訳ありません」
あやは深く頭を下げ、ゆっくりと顔をあげた。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
「決まったから呼んだんだろ。注文は君。美味しく料理してやるからさ、テーブルに乗ってよ」
あやはテーブルを囲む三名の男性客を見つめた。どう見ても酔っ払いだ。年齢は二十代後半から三十代前半だろうか。
「申し訳ありません。メニューに載っている商品をご注文いただけませんか?」
やんわりとあやは言ってみたが、通用しないらしい。
「いいからテーブルに乗れって言ってんの。あぁ、俺の膝でもいいぞ」
腕をグイッと引っ張られ、あやは途方に暮れた。正直、ここまで性質(たち)の悪い客は今までに対応したことがなかった。周りの客たちも冷ややかな視線を送ってくる。これ以上、他の客に迷惑をかけるわけにはいかなかった。
(どうしよう?)
あやは掴まれた腕を離してもらおうと言葉を考えたが、どうしていいかわからなかった。
「申し訳ありません、お客様。従業員が何か?」
洗い場にいたはずの彼があやの手を客から離しつつ、前に出てきた。
(庇ってくれた。助かった)
あやはホッとした。
「お前、客の腕を掴むとは」
「失礼ですが、あなたがたはお客様ではありません。そういうサービスをお求めでしたら、別のお店を紹介させていただきます」
「はぁっ?」
「警察を呼びましたので、あとは警察にお任せします」
毅然とした彼の態度に三人の男性客は慌てて店を飛び出していった。
「ありがとうございます」
「俺にお礼はいいから、迷惑をかけたお客様に対応して」
あやはすぐに周りのテーブルに謝罪し、ドリンク一杯をサービスさせてもらうことにした。
その直後、オーナーが戻ってきてあやはアルバイトの時間を終わらせた。
「藤巻さん、こんなところで――あぁ、手伝わせてしまって申し訳ありません」
「構いませんよ。彼女、送って行ってもいいですか?」
「えぇ、構いませんが、何かあったんですか?」
「性質の悪い酔っ払い客に絡まれていましてね。待ち伏せされていたらかわいそうでしょう?」
「これからファームに行くのでしたら、ついでにお願いできますか?」
イトコがそう言い、彼があやを送ってくれることになった。
レンタカーで移動しているらしい彼は、あやを車に乗せた。
「あの、あなたは」
あやの疑問に彼は少しだけ笑った。
「毎月、木元ファームとこのレストランに仕事で来ているんだけど」
「大学生じゃないんですか?」
「よく言われる。一応、社会人。君に会うのがとても楽しみでね」
「私、ですか?」
「あぁ、君の接客は本当に心地よくて」
その言葉はあやにとって最高の誉め言葉だった。
「君は大学生?」
彼に訊かれ、あやは苦笑を浮かべた。
「すみません。高校生です。もうすぐ高三になります」
「ごめん。大人っぽいし、接客も上手だからてっきり大学生だと思った」
「私も大学生だと思っていて、失礼なことを言ってしまって」
「俺ね、君に一目惚れして通っていたんだよね。あのレストラン」
「私もお客様が来てくれる日が楽しみで」
あやはこの瞬間、この人ともっと話したいと思っていた。
「君の家がここ?」
「はい」
木元ファームと書かれた看板をくぐり、手前にある二階建ての家の前に車を停めてもらった。
「今日はありがとうございました」
「改まらなくていいよ。俺もここに用があるから」
「え?」
「大地(だいち)さんに話があるんだ」
あやには三人の兄がいる。一番上は雄一(ゆういち)、二番目が大地、そして三番目の広也(ひろや)だ。雄一と父親が酪農部門の責任者、大地はいわゆる企業農家の社長で広也は農業大学で勉強しつつ、その知識を生かした農業を提案している。
家に戻ったあやは一緒にいるように告げられた。
彼の名前を知ったのはこの時だった。あやは恵一朗から名刺を受け取り、そして彼が木元ファームと契約を結んでくれるということを聞かされた。
名刺をジッと見ていたあやは会社の名前はよくわからないが、社長という二文字に息を呑んだ。
その日から頻繁にあやは恵一朗と会うことが増えた。もちろん契約に基づき、仕事をしに来ているのは知っている。
「あやちゃん、将来は何がしたい?」
恵一朗に問われ、あやは正直に答えた。
「やりたいことがないんです。正直、進学するか専門に行くか、それとも就職するか――それさえも決まっていなくて」
「目標は?」
「特に無くて。ただ漠然と家の手伝いがしたいっていうか」
「都内の大学、来ない?」
「えっ?」
「俺、君に一目惚れをしたって言ったよね。君が高校を卒業したら、正式に付き合いたいと思っているんだけど」
「でも、藤巻さんは社長さんで」
「君は俺がおじさんで嫌って感じ?」
「ち、違いますっ! 私も藤巻さんのこと好きです」
さらりと言葉が出てきたあやは自分でも驚いていた。
「よかった」
それから恵一朗があやの両親と兄たちを説得し、あやは勉強に励むことにした。両親からは両親も知っている有名な大学であることが条件だった。
一年間、あやは恵一朗と遠距離恋愛だった。お互いにSNSで連絡を取り合い、恵一朗が仕事であやの実家に来るときは食事を一緒にする付き合いを続けた。
あやは恵一朗の言葉を信じ、ただひたすら合格を目指して頑張るだけだった。
「高校を卒業したら正式にお付き合いをさせて頂きたいと思います」
恵一朗の言葉を励みにあやは、大学受験を乗り切った。
都内で受ける大学は二校だった。受験するにあたりあやの交通費と宿泊費を出してくれたのは、恵一朗らしい。
そして無事に合格したあやは、恵一朗に会える日を楽しみにしていた。
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