第31話 繋ぐ 後編

「ねえ、待って、ユイ」

 ユイの背中に声を投げかける。止まってくれないので、服の裾を引っ張った。

「待ってって。ほら、あっち。明かりが見える」

「そうね、それで? 今急いでるんだけど」

「あっちに行こう。助けてくれるかも」

「だめよ」

「何で?」

「だめったらだめ」

 ユイは頑なで、そして理由を説明することもなく、ただひたすらだめとだけ繰り返した。その頑固さにユイは少々頭にきた。

 向こうに明かりがある。ということは、人がいるのは間違いないのだ。であれば、助けを求めて何が悪いというのだろう。にぎやかさから察するに、かなり大勢がそこにいる。まさか全員があの男の仲間とは思えない。

「じゃあユイはそっちに逃げればいいじゃない。私は向こうに行くわ」

「あっ、だめよ、戻りなさい!」

 ユイの制止を振り切って、リツは光に向かって走り出した。それからすぐに、木々の向こうで騒ぐ人影を見た。

「あのっ」

 助けてください。向こうに、怪しい男がいるんです。

 そう言おうとして、しかし言葉は出てこなかった。代わりに口から飛び出したのは、鋭い悲鳴だ。

「あ、あ、妖……!?」

 明かりの中、酒を飲み飯を食い、大口を開けて笑っていたのは、人ではなかった。

何十もの火の玉がふわふわと宙を舞っている。明るいのはそのせいだ。酒を舐めている者たちも、首が長かったり胴が長かったり、体の一部が獣のそれであったりと、明らかに人ではないのが分かった。

唯一、人と見紛う姿の男がいた。しかしその男は、妖どもの宴会の中にあっても、ひどく落ち着いていた。いや、むしろ妖どもは、その藍染めの着物を着た男の周囲を囲うようにして、酒を飲んでいるではないか。

 リツの悲鳴に反応して、妖たちが一斉にこちらを向く。慌てて口を押さえるが、もう遅い。

 逃げなくては。そう思うのに、足が震えて動かない。

「だから言ったのよ、馬鹿っ」

 後ろからリツの着物を引いたのは、ユイだった。ユイに半ば引きずられる形で、その場から逃げ出す。

「あいつらの邪魔しちゃダメ。本当に殺されるわよ」

「ご、ごめんなさい」

「それに……あなたが今叫んだから、あっちの男も気付いたみたい」

 苦々しげに、ユイが吐き捨てた。つられて後ろを振り向くと、黒い人影がすごい速さで迫ってきていた。血の臭いが濃くなる。

 このままでは追い付かれてしまう。

 右後ろからは火の玉。左後ろからは辻斬り。絶体絶命だ。

 リツはユイの手を振り払い、辻斬りの男に向き直った。火の玉はどう戦えばいいのか分からないが、こっちならまだ、戦える。

 リツは刀を抜き、構えた。相手の一撃を受け流して反撃をする、独特の構えだ。

 あたりは暗く、視界は悪い。火の玉が近づいてきているから少しずつ明らんできてはいるが、急に光が強くなると、それはそれで都合が悪い。

 しかしそんな中でも、辻斬りが笑ったのが分かった。武士崩れなのだろう、相手が刀を持っていて嬉しいのだ。

 リツは唇を噛み締めた。己は弱くない。でも決して強くもない。特に男女の筋力差は実践において絶望的なほどの差を生み出してしまう。

 覚悟を決めて、緊張で強張った手から、ゆっくりと無駄な力を抜いた。



 ユイは、あの辻斬りの男に見覚えがあった。記憶にある男と比べると、随分と年を取っているようだが、その程度で見紛う程、ユイと男は浅い関係ではない。

 忘れようとしても忘れられない、魂に刻みついたあの姿。

 ユイを殺した、男の姿。

 己が何をしたというのだろう。確かにユイは男勝りで口も悪く、皆が望むようなおしとやかな娘ではなかった。だがそれは、殺されればならぬほど、罪深いことだったのだろうか。

 もうすぐ祝言だった。これまで刀一筋で生きていた己だが、新しい人生を歩みだそうと、ようやく決めた時だったのに。

何も残せなかったことが、悔しかった。己の生きた証など、この世に一つも残せなかった。これでは何のために生まれたのか、分かりはしないではないか。

 だからユイは、男を殺すことに決めた。成仏することもなく、ただあの男に復讐することだけを夢見た。

 そして今、五十年程の年月を経て、ようやく復讐の機会に恵まれた。

 だが、問題が二つ。

 一つ目は、妖の存在だった。彼らは血の臭いに敏感だ。もし妖らが辻斬りに気づけば、妖は標的を辻斬りに変えてしまうかもしれない。ユイはあくまで、己の手で仇を討ちたかった。通りすがりの妖にその役目を奪われるなど、業腹だ。

 二つ目は、リツだ。夜の墓場に迷い込んだ愚かな女。それなり程度には腕に覚えがあるようだが、この程度では話にならない。生前のユイより弱いだろう。となれば、己を殺した辻斬りに勝てるはずもなく、戦えば確実に殺される。

 ユイの望みは、辻斬りをこの手で殺すこと。であれば、最も確実なのは、リツを妖の前に蹴り出して、辻斬りと向き合うことだ。そうすれば妖に邪魔されることなく辻斬りを殺せる。

 ほんの僅かに、ためらいがあった。リツは己と同じ家の出だ。彼女の持つ刀には、とても見覚えがあった。いくら何でも、あの刀を売りに出したりはしないはずだ。

己に子はなかったが、兄には子があった。きっとあの子は、兄の孫だ。

 だが、だから何だというのだろう。たった十七で死んだ己に、母性など宿っているはずもない。それにリツだって武家の子だ。相手が妖だろうが何だろうが、弱い彼女が悪いのだ。

 できることなら助けてやりたかったが、できないのだから仕方ない。恨むなら、運のない己を恨め。

 心の中で決意を固め、ユイはリツを振り返った。するとその途端、リツの手が己から逃れ、腰の刀に伸びた。

(まさか、勘付かれたのか)

 寸の間総身に焦りが走った。しかし彼女は、抜いた刀をこちらではなく辻斬りに向けた。そして、独特な構えをとった。

(あれは……あの構えは)

 それは非力な女のために編み出された構えだった。相手の力を受け流し反撃する。己より力の強い相手と戦うことを前提に作られた構え。

 かつて、己が編み出した型だ。

 リツの動きは、それまでに比べてひどく流麗だった。何度も何度も、繰り返し練習したのだろう。

(私は……あれを書物には残せなかった)

 まさかこれほど若くして死ぬとは思っていなかったのだ。誰かに技を継ぐ暇もなかった。

(兄上か、それとも父上? 私が稽古場に入ることも嫌がるくらい、女が刀を握ることに反対していたのに)

 継いでくれたのか、己が編み出した技を。男である彼らには、およそ役に立たない構えであるのに。

 実際彼女の構えは、厳密にいえばユイが考案したものとは違った。きっとあの稽古場で何度も刀を振って、少しずつ彼女の形にしていったのだろう。

 リツは辻斬りを迎撃するつもりだ。だが無理だ。その構えはあの時試したんだ。それでも殺されたんだ。多少の工夫でどうこうなるものではない。

 辻斬りは笑っている。己の勝利を確信している。辻斬りの姿は瞬きの間に、リツの肉迫していた。



 辻斬りの姿がすぐそこまで迫っていた。リツは油断なく相手を見据え、腰を低く保った。

今――。

 そう思ったとの時、急に辻斬りの表情に緊張が走り、刃を右手側に向けた。キンッと甲高い音。同時に辻斬りが盛大に吹っ飛んでいく。

「リツ! 逃げるよ!」

 辻斬りを急襲した刀の持ち主は、ユイだった。一体彼女のどこにそんな膂力があるのか知らないが、ユイに横っ面を叩かれた辻斬りは、火の玉の群れに頭から突っ込んでいった。

「ユイ……、その刀、一体どこから?」

「言ってる場合? 今のうちに。早く!」

 リツとユイは手を取り合い、走った。もう後ろを振り返ることもなかった。ひたすら墓地の外へ、少しでも人通りの多い場所へ。

 やがてリツの視界に、ちらほらと人の姿が映るようになった。振り売りやら夜鷹やら、有体に言えば無法者たちだが、今はそれさえありがたい。

「こ、ここまでくれば、もう平気かな?」

 ここいらなら、大声を出せば人が起き出してくるだろう。辻斬りとて働く場所は選ぶはずだ。

「ねえ、少し、休まない? もう息が、限界……。

 ユイ……。ちょっと、ユイ?」

 ユイの手を握っていた右手を持ち上げる。しかしユイの手を握っていたはずのその手は、むなしく空だけを掴んでいた。

「ユイ?」

 慌ててあたりを見回す。しかしユイの姿は、影も形もなかった。

 

 その後、リツはすぐに番屋に駆け込んだ。辻斬りに行きあったこと、助けてくれたユイという女がいたこと。妖のことも包み隠さず話したが、それだけは信じてもらえなかった。

 辻斬りの男は、すぐに見つかったらしい。まるで魂が抜けてしまったみたいにぼうっとしていて、ろくに抵抗することなく捕まったそうだ。

 だが、岡っ引きたちが必死になって探しても、ユイは見つからなかった。死体もなかったからきっと逃げ延びたのだとは思うけれど、そもそも近所にユイと同じ年頃の女も住んでいなくて、周囲の人間は、リツが恐怖のあまり幻覚を見たのだろうと判断した。

「——リツ。リツ! 刀に迷いがあるぞ」

 父にそう指摘され、リツははっと我に返った。素振りをしながら考え事など、普段なら決してしないのに。

「す、すみません。父上」

「……ふむ。

 リツ、集中できないのなら、少し休憩しようじゃないか」

「いえ、大丈夫です。集中できます」

「いや、いや。

 ……リツ、そこに座りなさい」

 そう言って父は木刀を置き、代わりに巻物を一つ取り出してきた。

「お前が今稽古をしているその型は、私が父から教わったものだ」

「おじいさまが、考えたのですか?」

「いや。父の妹君だよ。私にとっては、叔母に当たる」

 彼女には、すさまじい天賦の才があったのだそうだ。男に生まれていたならば、と誰もが悔やんだ。おじいさまは、そんな彼女の才能に嫉妬し、「女が刀を握るなど」と、文句を言ったこともあったという。

 しかし彼女は、ある日突然亡くなってしまったらしい。

「お前が今習っているのは、その刀だよ」

 父の目が、リツの右に置かれている木刀に向く。何度も振り、血豆を潰したこの木刀は、握りの部分が変色していた。

「焦らなくていい。大変なことがあった後なんだ。たまには休んだっていいだろう。

ただし、丁寧に心を込めて刀を振るうことだけは、忘れてはいけない。

お前の刀はお前だけのものではない。過去から未来へ、少しずつ形を変えながら、ずっと繋いでいく大切なものだ。皆の魂を乗せていくものだ。おざなりに刀を振るうことは、祖霊にも、そしておまえ自身の魂にも、とても失礼なことだと私は思う。

いいね、リツ。刀とは、武士とはそういうものなのだ。

――そうしていつか、お前が次の世代へその刀を伝えなさい」

「……はい。父上」

 素直に頷くリツに、父は笑顔を返した。

「リツ、これをご覧」

「何ですか? その巻物」

「家系図だよ。ここには我が家の武士の名が連なっている。もちろんお前の名も、そしてその刀を生み出した彼女の名も載っているよ」

 父はリツの前に家系図を置いた。

リツはそれを手に取り、留め金を外し、長い長い巻物を目の前に広げた。

 

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