第31話 繋ぐ 前編

 ひゅうと、風が吹いた。

「ひっ」

 小さく呟いて、できる限り身を縮める。ただの風の音だ。わかってる。わかってるけど……。

「怖い……」

 呟いて、それからブンブンと首を振った。怖いと思うから、怖いのだ。ここは墓場。故人が眠る場所。でも、だからといって、生者が入り込んでいけないことなどあるはずない。

「簪……簪……。もうっ、どこに隠したのよ」

 恐怖を紛らわすように、リツは吐き捨てた。

 まったく、やんちゃな弟を持つと、苦労する。弟は友人との遊びで、「母の大事なものを勝手に持ちだす」という意味のわからないことをして、その上さらに、それを墓場に置き忘れるという愚行を犯した。

 しかもしかも、日も暮れてから、半べそをかきながらリツのところにやってきて、「たすけて、姉上」とか言い出すのだ。

 リツは武家の女だった。弟も当然のこと、武家の男だ。武家の男とは誰より勇敢であるべきなのに。あまりの情けなさに呆れもするが、まだ幼い弟のこと。お化けが怖くても仕方のない年頃ではあった。

 それに、武家の暮らしは窮屈でもある。それは実際に武家の女として教育を受けた己が一番よく知っている。だから多少の息抜きはしてもいいと、リツは考えていた。

 だが、それはリツ個人の価値観であって、父や母はそうは考えていない。明日になって簪がなくなっていることに気づいたら、母が一体どんな金切り声で叫び出すか……。

(でも、こんな夜中に出歩いて、しかも刀を持ち出したなんて知れたら、私の方が雷を落とされてしまうわね)

 刀を持ってきたのは、護身のためだった。リツは女だが、それなり以上に刀を使える。これさえあれば、例え夜盗に行き遭ったとしても、みすみす殺されることはあるまい。

「せめて場所くらい覚えておきなさいよね……馬鹿弟」

 提灯の明かりを掲げ足元を照らすが、その明かりはあまりに心もとない。もっと広範囲を照らすことができれば、きっと簪探しはもっと早く進んだだろうに。

 影が踊った。寸の間、ぎくりと体がこわばる。

「……はあ。もう」

 どちらかといえば、リツは勇敢だった。そしてその勇気に見合うだけの刀の腕前も持ち合わせている。だが、幽霊となれば話は別だ。

 怪談話は、あまり得意ではない。だが娯楽としての怪談は皆から好かれていて、リツの興味の有無にかかわらず、耳に入ってきた。

 この墓地には、女の幽霊が出るのだそうだ。

 女は不慮の死を遂げた。川で溺れ死んだのだ。それは事故として処理されたが、女の知り人は皆、それはおかしいと言っていたという。女は用心深く、ついうっかりで川に落ちるなどあり得ない。

 誰かに突き落とされたに違いないのだと。

 そして以来、夜な夜なこの墓場では、さめざめと泣く女の幽霊が目撃されているのだという。彼女に話しかけてしまった勇気ある御仁は、魂が引き摺り込まれ、翌朝川で水死体となって見つかった。

 女は今日も、己が身を儚んで泣いている。一人で死んだ悔しさを噛み締め、誰かを道連れにしようと企んで。

 そこまで思い出して、リツはハッと我に返った。つい手が止まっていた。今はそんなこと考えている場合ではないのに。簪……そう、簪を探さなくては。

「あ」

 場所を変えようと立ち上がり、くらっと目眩がした。ただの立ちくらみだ。だが転んでしまっては危ないから、その場にしゃがみこんで、目をぎゅっとつむる。

「あら、大丈夫?」

 すると頭上から、意外なことに声が降ってきた。しかも、女の声だ。

 リツは不審に思いながらも、ゆっくりと目を開けて声の主を見上げた。するとそこには、己と同じくらいの年の、きりりとした様相の女が立っていた。

「こんな夜中に、いったいどうしたの?」

 それはこちらの台詞だった。まさかこんな刻限に、しかも墓場で女に出会うなど思いもしなかった。怪しいことこの上ないが……まあ、人のことを言えた義理ではない。

「あなたは?」

「私はユイ」

 よろしくね、と微笑むユイの目が、一瞬リツの顔から離れた。その視線を追うと、彼女がリツの腰に提げられた刀に目を向けているのが分かった。つい左手を鞘に添える。

 するとユイが小さく吹き出した。

「そんな警戒しなくても、盗ったりしないわよ」

「あ、いや、そんなつもりじゃ」

「冗談よ。気にしないで」

 リツはユイに、簪を探しにきたことを告げた。ユイはそれを聞いて、あからさまに不満げに眉をひそめた。

「明日にすればよかったのに。こんな夜中に出かけるなんて、馬鹿なの?」

「だから、一応武装を……」

「馬鹿なの?」

 ユイはもう一度同じ言葉を繰り返した。何を警戒しているのか知らないが、よほどの手練れでなければ、突然襲いかかってくる物盗りや妖怪に対処するなど不可能だと。

「妖怪って……」

 堅物そうな彼女の冗談に、リツは少し笑いかけたが、ユイの表情は真剣そのものだった。リツの笑顔はすぐに強張った。

「本気なの……?」

「もちろん本気よ。けど、まあ、そうね。本当に怖いのは、妖怪よりも人間の方だわ」

 ユイはそれから、リツの手を引いて歩き始めた。

「ど、どこ行くの」

「どこって、出るの。帰ってちょうだい」

「でも簪が」

 後ろ髪を引かれるリツの様子に、ユイは呆れた様子で振り返る。

「死にたいの?」

「このまま帰ったら、母上に殺されるもの」

 弟が。と胸中で付け足す。

 しばらくの間にらめっこして、やがて根負けしたと言わんばかりに、ユイが肩を落とした。

「……どんな簪なの?」

「えっと、赤くて、牡丹の花が描いてあるはず」

「この辺りにあるのは間違いないのね?」

「ええ。弟が隠したらしいから、すぐ見つかる場所に落ちてはいないと思うけれど」

「手伝うわ。見つけたらすぐ帰りなさいよ」

「あ、ありがとう」

 ユイはそれには答えずに、足元を探し始めた。リツもすぐにあちこちへ目をやる。

 それからしばらく、二人は黙って簪を探した。しかし薄暗い墓地のこと、なかなか見つからない。

 立ち上がって腰を伸ばす。凝り固まった筋肉がミシミシと音を立てた。

「ねえ」

 いつの間にか、ユイがすぐ側に立っていた。明かりも点けずにいるものだから、気が付かなかった。

「これ、違う?」

 彼女の手の中に、正に探していた赤い簪が収まっていた。

「これ! そうこれよ! ありがとう、良かったぁ」

 簪を受け取り胸に抱く。喜ぶリツの姿を見て、ユイが少し笑った。しかしその笑みはすぐに強張り、リツの左手をぐいと引き寄せた。

「きゃあっ」

「静かに!」

 ユイが鋭く叫んだ。そしてユイの左手の提灯を消した。

「何するの」

「静かにって言ったでしょ」

 それからユイはリツを墓石の裏に隠し、己自身も身を隠した。そっと身を乗り出して、墓地の入り口の様子をうかがっている。

 リツもそっと、身を乗り出した。すると。

「ひっ……あれ、何」

 そこに、一人の男がいた。小さな明かりを一つ持っているから、暗い墓地の中でその姿は妙に浮き上がって見えた。

 その男は、もう老人と呼んでも差し支えない年齢のようだった。顔に刻まれた深い皴は、男の生きた年月の長さを物語っている。しかしその立ち姿は、どこをとっても老人のそれではない。己も刀と生きる人間だから分かる。薄い着物のその下には、鍛え抜かれた筋肉が隠れているのだろう。

 ぶるっと、リツは身震いした。

 墓地に男がいるだけなら、リツはここまで怯えたりはしない。問題は、男の風体だ。

 男は腰に刀を佩き、そしてその刀身からは、何らかの液体が滴っていた。

 血だ。

 今になって、血の臭いが風に乗って届いてきた。間違いない。あれは、辻斬りだ。

「大丈夫。まだ気づかれていないわ」

 ユイが小声で囁いた。それからリツの袖を引く。

「こっち。裏から出ましょう」

 小さく頷く。ゆっくり、ばれないように、音をたてないように、男から離れる。

 ユイが案内した道は、ほとんど獣道みたいなものだった。道は当然のように整備されていないし、みずみずしい雑草が鋭利な刃物のように着物の裾をひっかいているのを感じる。

 でも、だからこそ、あの物騒な男から逃げ切れるのではないか。そう感じて、リツは少し安心した。

 草木生い茂る山の中、明かりもなく動き回るのはひどく骨の折れる行為だった。走っているわけではないが、緊張感は予想以上にリツの体力を奪っていく。そんな逃走劇の最中、木々の向こうに眩しいほどの明かりと、賑やかな笑い声が聞こえてきた。

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