第30話 長い眠り
ああ、まただ。まただめだった。
深い失望と、それに付随するあまりの苛立ちに、コクシツはつい舌打ちをした。そしてその後で、己の態度の悪さに気付いて、ふるふると首を振った。落ち着け、と己自身に言い聞かせる。
約束したのだ。他人を気遣えるようになると。これまで喧嘩ばかりしてきた己だが、これからはもっと優しく、穏やかに生きると。友の優しさに触れて、温かさを知って、己は変わったのだ。無味乾燥とした世界が、キラキラと輝いて見えるようになったのだ。
けれど。
「君がいないんじゃ、意味がないよ」
眠ったままの友人の額をそっと撫でて、一切の反応を示さない表情を見つめる。ただ穏やかに、眠っているだけに見えた。ああ、今にも起きだして、寒かったとか、蒲団が固いとか、文句を言いだしそうじゃないか。
「寒くないかな? もうすぐ冬だもんね。もっと暖かい布団があれば良かったんだけど。ごめんよ、せんべい布団で。勘弁してくれな」
友人は、口が悪かった。心根はまっすぐなのだが、いかんせんそれを表現するのがへたくそだった。だからきっと、起き上がったらまず文句を言うに違いないのだ。
「こんなに痩せちゃって。もとから太くはなかったけど、これじゃ、がりがりだね」
すっかり軽くなってしまった体を抱き上げ、いつか彼が起き上がったときに、なるべく不便がないように、関節を動かしてやった。毎日、毎日、たっぷり時間をかけて、彼の体をほぐしていく。
「きっと、もうすぐだから。君を治せる医者を、必ず連れてくるから」
そう約束して、コクシツは友人が眠り続ける家を後にした。
つい先日、大きな火事があった。そのこと自体は珍しくなどない。そもそもこの町はとても火事が多い。珍しかったのは、そこでひどい火傷を負った娘が、なんと起き上がれるくらいにまで回復したということであった。
(娘の火傷痕が残っているようなのは気になるけれど、他のやぶ医者みたいに、体を土に埋めてしまうことはなかったんだ。きっと、それなりの名医に違いない。あの医者ならもしかしたら、助けてくれるかも)
コクシツは医者の後をつけ、彼が住んでいる家を突き止めた。どうやら本当に名の知れた医者らしく、その住まいは平民にしては豪華な方であった。少なくとも食うに困っている様子はない。
音もなく家の戸を潜り抜け、眠りこける男の顔を覗き込む。隣には妻と思われる女と、幼い子供が眠っていた。
己は運がいい。コクシツの表情にうっすらと笑みが浮かんだ。
(この二人を人質にすれば、きっとこの男は大人しく僕に従うよね)
すっと、コクシツは女の首に手を伸ばした。人質は二人もいらない。それなら、軽い子供の方が使い勝手が良い。女の方は動けなくして、ここに放置してもいいだろう。
コクシツの引き締まった手が女の首に届く寸前、頭の中で友の怒鳴り声が響いた。
――ばかっ、何やってんだお前!
ぴたりと、コクシツの手が止まった。顔を上げる。すぐそこに、目尻を釣り上げてこちらを睨んでくる友の顔があった。
――お前の頭には何が詰まってんだ! そういう物騒なこと、二度とするなって言っただろ。何度言ったら分かるんだよ。
――ったく。ほら、もう行くぞ。すみませんね、お姉さん。こいつちょっと、頭おかしいんです。よく言って聞かせますから、許してやってください。
「あ……、若」
起き上がれたのか。自力で回復できたのか! なんだ、それなら、この女にだって医者にだって、もう用はない。
ああ、よかった。これでまた、一緒にいられる。また二人で、お屋敷を抜け出そう。叱られちゃうかもしれないけれど、夜が明けるまで喋っていよう。そしてきれいな月の下でこっそり甘味でも食べようじゃないか。
にこりと微笑んで、久方ぶりに会う友に手を伸ばした。そしてその手が柔らかく温かな頬に触れると思ったその刹那、友の姿は掻き消えた。
「え……? あ。……また、か。まぼ、ろし」
行き場を失った手を胸元に当てる。落胆はなかった。こうした幻を見るのは、何も初めてではない。
ぽたりと、雫が手の甲に落ちた。
(あれ……? 慣れた、はずだったのにな)
表情の抜け落ちた顔から、ぽたぽたと涙が零れ落ちる。どうして涙が出るんだろう。たとえ幻であっても、会えて嬉しかった。声を聴いたのは久しぶりだ。喜びこそすれ、悲しむことではない。
ああ、そうか。唐突に理解した。これはきっと、嬉し涙だ。人は嬉しくても泣くのだと、いつだったか友が言っていた。
涙を垂れ流しながら、コクシツは医者の男に向き直った。人質を取るという考えはもう残っていない。たとえ幻でも、友がだめだというのなら、きっとだめなことなのだろうから。
すっと男を背負い、それから家の端に置いてあった、男の仕事道具と思しき荷を片手で拾い上げた。
「よいしょ」
男の家を出て、それからはたと足を止める。
「奥さん、旦那さんをお借りします。若を治してくれさえすれば、すぐに返しますから」
一度頭を下げて、それからコクシツは飛ぶように家へと戻った。
「起きて」
家に戻ると、コクシツは医者の男を下ろし、体を揺すった。まだ眠いのか、少し唸った後で医者はゆっくり目を開けた。それから目の前で仁王立ちしているコクシツにようやく気付くと首を傾げた。
「君、は? それに、ここは……」
「僕のことはどうでもいいんだ。それよりお前、医者だよね」
「そうだが」
「診てほしい患者がいる。助けてくれたら、礼はいくらでもする」
コクシツがそう言い放つと、医者の男は訝しげに眉をひそめた。
「患者がいるのなら診る。だが、こんな夜中に? それに、私はどうやってここまで?」
「僕が連れ出した。普通の方法で頼んだんじゃ、だめなんだ。最初は僕もそうしてた。でも、そうして連れてきた医者たちは皆、若を助けるのを拒んだんだ」
あの日のことは、今でもよく覚えてる。その医者は、己は優秀だと豪語していた。だのに、寝たきりの友を見せたとたん、その医者は腰を抜かした。そして「無理だ」と言ったのだ。
悔しさに唇を噛み締める。その医者はその後も、友に治療を施すことなく「無理だ、私にはできない」と言い続けた。そして最後には口を利くことさえも拒否し、コクシツが何を言っても無視するようになった。
「だから少々、無理やりな方法をとるしかなくなってしまった」
許してほしい、と頭を下げると、医者は気の毒そうにコクシツを見た。
「きっと、とても難しい病なのだね。
……いいよ、診てみよう」
コクシツははっと顔を上げた。そして心の底から、「ありがとう」と言った。
「若はこっちで寝てるんだ」
ふすまを横に開き、その奥で眠っている友のもとに駆け寄った。その枕元に耳を寄せ、いつものように友に話しかけた。
「ほら、医者の先生が来てくれたよ。これでもう大丈夫だよ。
さ、先生、早くこっちに。……先生?」
異変を感じ取って、後ろを振り返る。すると医者は、友が眠る部屋に入ることさえなく、その場にぺたんと座り込んでしまった。
「だ、大丈夫?」
医者は小刻みに震えながら、友の眠る蒲団を見つめ続けていた。そして一言、こう言い放った。何度も何度も聞いた、嫌な言葉を。
これは、無理だ。私には、どうすることもできない、と。
秋も終わりが近づき、吹く風には冬の気配が混ざりつつある。夏はあんなにじめじめとするのに、この季節になると、風は水気をどこぞに落っことしてくるようだった。ただでさえ火災の多い場所なのに、こう乾燥していては、そりゃあ火も燃え盛るというものだ。
そろそろ、もう少し暖かい綿入れでも買おうかな、などと思いながら、ミツキはとある町に立ち寄った。女が一人、取り乱しながら「夫が消えた」と騒いでいたりもしたが、まあその程度のことは、この時代では珍しくもない。つまりここは、取り立てて特筆すべきことのない、何の変哲のない町だった。
だったのだが……突然、声をかけられた。
「あの」
声をかけてきたのは、まだ幼い容姿の武士の姿をした子供だった。髪も目も、濡れ烏よりも真っ黒で、それ自体は珍しくもないのだが、彼にはどことなく暗い印象があった。何よりも異質だったのは、目だ。その目の奥に、可愛らしい見目に反した深い悲しみと疲れを垣間見て、ミツキは小さく眉根を寄せた。
「私に何か用かな」
「あなたは、どなたですか」
それはおかしな問いかけだった。向こうから話しかけておきながら、お前は誰だと問うなど、普通に考えてあり得ない。だから、つまり、目の前の彼は、ミツキに少なからぬ違和感を覚えたに違いなかった。
ぴくりと、ミツキの耳が動く。それから困ったように笑った。
「その質問は、良くないなぁ」
それから一言、名はミツキという、とだけ告げた。
すると少年は黒い瞳を輝かせた。
「あなたが、ミツキ様!」
「おや。お前さん、私を知ってるの?」
「お噂は、かねがね」
少年はミツキの藍染の着物をキュッと掴み、今にも泣きだしそうな表情で嘆願し始めた。
「あなたを見込んで、頼みがあります」
「何かな」
「若を、どうか助けてください」
若? と問い返すと、コクシツと名乗った少年は嬉しそうに何度も頷いた。
「大事な、友達なんだ。でもずっと眠っていて、目を覚まさない。たくさんの医者に見せたけど、誰も若を助けられないんだ。
あなたなら、できるよね? 若を助けられるよね? どうかお願いです。もうあなたに頼るしか、できないんです」
「…………」
コクシツの悲痛な訴えを、ミツキは静かに聞いていた。
「ミツキ様?」
「私は、医者ではないよ」
「存じております」
「誰でも彼でも、救えるわけじゃあないんだよ」
「ですが、ミツキ様でダメなら、きっとほかの誰にも救うことなどできません」
目を輝かせて熱く語るコクシツは、ミツキを信用しているという様子とは少しばかり違った。どちらかといえば、ミツキなら救えると願っているような、切実な苦しさが伺える。
ミツキは困ったようにぽりぽりと頬を掻いた。
「まあ、そこまで言うなら、診ること自体は構わないけれど……」
「!」
少年の表情に花が咲いた。それを見て、ミツキはますます困ったように眉尻を下げるのだった。
「こっち、こっちです、ミツキ様」
コクシツの案内に従って進むと、他の民家からは少し離れた一軒家へ辿り着いた。コクシツはよほど嬉しいのか、ミツキの周りを飛び跳ねるようにして笑っている。
やがて見えてきたその一軒家の様子に、ミツキは片方の眉を跳ね上げた。
「お前さん、この家」
「素敵な家でしょう? 若の持っていた家を一つもらったんです」
ああ、再び若に会える。若に会ったら、きっと褒めてもらうんですよ。だって若を起こすために、必死に頑張ったんですから。コクシツはそう叫んで、もうミツキを待つこともなく駆け出した。
家の戸を開けると、そこは紛れもなく武人の家のようだった。敷かれた畳の上に高価なものなどほとんど見受けられない。壁に掛け軸の日焼けの跡だけ残っているから、薬に変えられるような高価なものは売り払った後なのかもしれない。
ただ唯一、刀身も柄も真っ黒い刀だけが、何も残っていない畳の上に、鈍色の輝きを湛えて佇んでいた。
「若は、こっちですよ」
コクシツが家の奥へと続く襖の前に座っていた。そしてそっと戸を引く。
途端、むわっと、生温かな風がミツキに向けて吹いてきた。
「どうですか、ミツキ様。若は、どのくらいで目覚めますか」
若、と呼ぶ男が再び起き上がるのだと、信じて疑わない口調だった。ミツキは哀れな少年に向き直り、はっきりと言った。
「無理だ」
「……え」
「これは、もう誰にもどうにもできない。
彼はもう、死んでいるよ」
蒲団の上に横たわる彼の肉は、もはや腐り落ちていた。一瞥しただけでは、生前が男か女かもわからない。
さらにミツキは、部屋の隅に捨て置かれたもっとたくさんの死体に目を向けた。その中で一人だけ、若い男が身を縮めてガタガタと震えている。服装や持ち物から察するに、彼は医師のようだ。若と呼んだ男を救うために、集めたのだろう。
「……し?」
ミツキの答えに、しかしコクシツは首を傾げた。
「死とは、人や、妖や、獣が持つ概念だ。死ぬと、もう二度と動かない。もう二度と目覚めない。永遠の別れと、人は死をそう呼ぶよ」
お前さんには分からないかもしれないけれどね、とミツキは続けた。
「だって、お前さんは刀だものね」
黒漆の太刀。部屋の隅に置かれたそれが、コクシツの正体だ。
「そうだ。僕は太刀。だけど、だから何?
旦那様はおっしゃったんだ。人と僕は、形こそ違えど何も変わらないって。だから僕と同じで、斬っても大丈夫だって。形が変わっても、見た目が変わっても、何も変わらないんでしょう? 刀の形をしていても、人の形になっても僕が僕であるのと同じで、骨になろうと肉があろうと、若は若だ。目覚めるはずだ。壊れたりしないはずだ」
人を斬って、たっぷりの返り血を浴びたコクシツに、旦那様は言ったそうだ。大丈夫、大丈夫。少し休めば起き上がるよ、だってお前も、少し刃こぼれしても、手入れして休めば、治るだろう? と。
ミツキは、腐臭の中で放心したように、何やらつぶやき続ける医師を助け起こした。医師は震える手でミツキの着物の裾を掴んだ。
「ま、まって。どこに行くの」
「私では、助けになれそうにないから」
「じゃあせめて、その人を連れて行かないでよ。彼はまだ、試していない医術が残っている」
「彼にも無理だよ」
「無理じゃない。他の男は無理かもしれない。もう僕の方を見てもくれないから。でも彼は、まだ反応がある。動いてくれる。助ける意思があるってことでしょう?」
縋りつくようにコクシツはミツキの足元で正座をした。助けてほしいと頭を下げた。けれどミツキは冷静にそれを見下ろすだけだった。
「……彼を町に送り届けてくるよ。それからもう一度、ここに戻ってくる」
寸の間、コクシツの瞳が輝いた。しかしミツキは、救ってやるために戻るわけでは、決してなかった。
「骨になってしまったとて、ここに残しておくのは、あまりに不憫だからね。
それに、若と言っていたね。彼も、そろそろ楽にしてあげた方がいいと思うな」
ミツキがそう言うと、とうとうコクシツもミツキに縋りつくのをあきらめた。代わりにものすごい剣幕で、ミツキに向けて唾を飛ばした。
「わかった。……わかったぞ。
お前は、偽物だな。ミツキ様の偽物だ!
出ていけ! 二度と戻ってくるな! 金輪際、若に近づくな、偽物の嘘つきめ!」
コクシツは泣いていた。怒鳴りながら、泣きながら、救いを求めておびえていた。
ミツキはコクシツの家を出た。それからもう一度だけ振り返り、ぽつりとつぶやいた。
「救ってやれなくて、ごめんよ」
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