第29話 悪意ある術

「今日も日本橋へいくの?」

「そうだよ。約束があるから、もういくね!」

 そう叫んで、母のいる家から駆け足で立ち去る。気を付けなよ、と言う声が背後から聞こえてきた。

 レンは返事の代わりに少し手を振って、また走ることに集中した。

 今年七つになったレンは、長屋住まいにしては裕福だった。着るものもきちんとしていたし、清潔だった。そのせいか、近所のおばさん連中からは、可愛いとか、女の子みたいとか言われている。

 大家さんなんかは、何度かレンに女物の着物を持って迫ってきた。隣で笑っていた母に助けを求めたら、なんと母まで「着てみる?」とか言い出すのだから堪らない。

 それ以来、すっかり大家が苦手になったレンは、この日も、人目を避けるようにして己の住んでいる長屋から抜け出した。

 向かう先は、日本橋だ。


「遅かったな」

 息を切らして日本橋の前にたどり着いたレンに、同い年くらいの男の子が、偉そうに踏ん反り返ってそう言った。

「おばさんに見つかって。逃げ出すのに苦労した」

「難儀だなあ。お前も早く、もっと男らしくなれるといいな」

 なんぎ、という言葉の意味はよく分からなかったが、同情してくれている様子だったので、レンは男らしく頷いてみせた。

「で、ソウタ。目標は?」

 声を落として、真面目な顔でソウタに聞くと、ソウタは「しーっ!」と人差し指を立てて静かにするように指示する。

「あそこだ」

 ソウタが指差した先、そこには男が一人いた。

「おつかい?」

「いや、今日は休み」

 男は奉公人だった。それも、ソウタの父が営んでいるお店の奉公人。だからソウタはあの奉公人のことをよく知っていた。

 レンは目を凝らして奉公人をにらんだ。

「黒いのは?」

「今はいない」

 あっさりと言われ、レンは拍子抜けした様子で肩を落とす。

「なんだよ。意味ないじゃん」

「仕方ないだろ、いないもんはいないんだから!」

「そうだけど……」

「まあでも、そのうち戻ってくるかもしれないしさ。

 あっ、ほら、あいつが動く! さあ行くぞレン!」

「あ、待てよソウタ!」

 こっそり後をつけているとは最早呼べない。パタパタと足音を立てて、レンとソウタは男の後ろ姿を追った。


 日本橋の大店の子。そんなすごい生まれのソウタとレンがこれほど仲良くなったのには、理由があった。

 二人とも、簡単に言うのなら、ちょいと変わった子供だったのだ。

 幼い頃のレンは、柳の木を見ては「あそこに誰かいるよ」と言って、お堀の水を見ては「水の中で揺れている手は何?」と言って、鳥居を見ては「変な犬が吠えてくる」と言って、母親を大いに困らせた。

 ソウタに出会う前、己が見たものを誰にも分かってもらえず、でもその正体が気になって仕方のなかったレンは、ある日見かけた黒いもやもやを、追いかけて捕まえることにした。

 見られているなんて思いもしない『黒いの』は、なんとも堂々と通りを歩き、やがて日本橋までやってきた。そこはたくさんのお店の立ち並ぶ区画で、レンには馴染みの薄い場所であった。

 しばらく進むと、『黒いの』は小さな木戸をすり抜けて、お店の中に入っていった。それほど深く考えずその後を追って木戸をくぐり抜けたレンは、しかしすぐに、文字通り摘まみ上げられてしまった。

「わっ!」

「おい、ガキ! ここで何してる!」

 大声でレンを叱りつけたのは、大きな体の男の人だった。レンの着物の帯を掴んでひょいと持ち上げ、己の目の高さまで持ってきて、怖い顔して睨んでる。

「ここがどこだか分かってるのか。お前、盗人か」

「ち、違うよっ」

「じゃあ何しにきた」

「黒いのを追ってきたんだ。それだけだ」

「はあ? 黒いの?」

 レンは必死に頷いて、我が物顔で縁側を歩いている『黒いの』を指差した。男はその指を追って首をそちらに回す。

「何もないじゃないか」

 やはりと言うか、しかしと言うか、男には何も見えなかったらしい。

「嘘をつくとは、やはり盗人か。子供とはいえ罪は罪。かわいそうだが、岡っ引きに連絡しなくては」

「待って! お願い、やめて!」

 必死になってそう叫ぶ。すると思わぬところから助け舟が出た。

「おい、放してやれロクスケ」

 変に大人びた口調で、己とそう年の違わない子供がロクスケと呼ばれた男に命令した。彼はとても上等な着物を着ていて、そしてとても偉そうな態度だった。

「ソウタぼっちゃん」

 ロクスケは目を見開いて、それからレンとソウタを見比べた。

「もしかして、お友達ですか?」

「そうだ」

 ソウタは躊躇いなく頷く。レンは大急ぎでロクスケに名乗った。

「おれ、レンって言います。嘘ついて、勝手に入ってごめんなさい。でも、ソウタ、くん、と遊びたくて」

 どきどきしながらロクスケの顔を見る。するとロクスケの顔から険が取れて、レンを降ろしてくれた。

「ぼっちゃん、お友達を呼ぶときは、一声かけておいてください」

「呼んだんじゃない。勝手に来たんだ」

「じゃあ今後は勝手に来ないように、しっかり話しておいてくださいね。

 お前も、次からはぼっちゃんに話してから来るんだぞ」

「はい。迷惑かけて、すみませんでした」

 頭を下げると、ロクスケは満足げに頷いてどこかへ行った。

 その背を見送ると、緊張の糸が解れたせいか、どっと疲れてしまって、レンはその場で座り込んだ。するとまた「おい」と偉そうな声が降ってくる。

「座るなら、こっち」

 ソウタが縁側に腰掛けて、彼の隣に座布団を敷いた。恐る恐る近付いて、ひょいと縁側に登った。レンは座布団に座るのなんて初めてで、とても緊張した。尻の下が柔らかくて、なんだか落ち着かない。

「食うか?」

 そう言ってソウタが差し出したのは、羊羹だ。長屋住まいではそうそう食べる機会になど恵まれない。

「食う!」

 喜び勇んでかぶりつく。口の中に何とも言えない甘さが広がった。

「んーっ!」

 口いっぱいに頬張ったレンの様子を見て、ソウタが笑った。

「そんなに好きなら、おれのもやるよ」

「ありがとう」と言いかけて、そういえばもっと先に言わなくちゃいけないことがあったのを思い出した。急ぎ口の中を空にして、ソウタに向き合った。

「助けてくれて、ありがとう」

「ああ。気にするな。別に親切で助けてやったんじゃないんだ。おれ、お前に聞きたいことがあったから助けたんだ」

「聞きたいこと?」

「そう」ソウタはそれからちょっとだけ躊躇って、「お前、黒いのって言った?」と聞いた。

 そして縁側を歩き去っていく『黒いの』を、間違いなく指差した。

「ああ、うん。そうそれ。……えっ? 嘘、まって、本当? お前、見えるの?」

「やっぱりお前も見えるんだな!」

 ソウタが興奮した様子で両手をぶんぶん振った。レンも嬉しくて、首を大きく、何度も上下に振る。

「見える! 初めてだよ、おれ以外に見える人なんて!」

「おれだって初めてだよ! なあ、あれ何なんだ。お前知ってるか?」

 上下に振っていた首を、今度は左右に振る。

「わかんない! だから捕まえてやろうと思って、追いかけてたんだ」

「ああなるほど、それでここまで来たんだな」

「ソウタくんは、何か知ってるの?」

「ソウタでいいよ、くすぐったい。ああ、あの黒いのについては、何も知らない。けど、うちの奉公人が、よくあの黒いのを連れてるんだ」

「じゃあその人も、黒いのが見えてるの?」

「いや、見えてなさそうな感じなんだよなあ。それか、見えてるのに見えてないふりをしてるのか」

 少し考えるそぶりをしていたソウタが、ニヤッと笑った。

「なあ、お前、あの黒いのの正体、気になるよな」

「うん」

「じゃあ、捕まえようぜ」

 生まれて初めてできた『変なもの』が見える仲間。その彼からの魅力的な提案に、レンは「おう!」と元気よく返事をした。


 それから数ヶ月。

 レンとソウタはこっそりと奉公人の後をつけ、黒いのの行動を観察した。そしてとうとう、ここまで確信した。

「あいつは、黒いのが見えている」

「うん。そして、何かに使ってる」

「それが何かはわからないけど、あいつはいつも、この場所で黒いのを放ったり、回収したりしている。つまりここは、あいつと黒いのにとって、とても重要な場所だ」

 男から隠れながら、レンとソウタはそっと眼の前に立ち塞がる巨大な門へと目を向けた。そこには門番が立っており、油断なく周囲を見張っていた。

 レンは困りきった顔をソウタに向けた。

「で、どうやって入ろう……?」

「うーん……」

 そこは常世の楽園。大人たちの遊び場。

 吉原である。



「まあ、いい男。寄っていかない?」

「お、そこの男前。どうだい、うちの店は」

 どうやら、上客だと確信されているらしい。あちこちから接客の声がかけられる。

「ああ、すまないな。先約があるんだ」

 タカマは適当に断りを入れながら、花街を歩く。この花街に来るのは初めてでは無い。前に来たときは、こんなに声をかけられただろうか。

 嘆息して首を振った。わかっている。上客と思われているのも、女たちが色めき立ちながら呼んでいるのも、己では無い。己の後ろをひょこひょこ歩く、どこか頼りなさげな優男だ。

 ちらりと後ろを振り返る。男と目が合うと、何が楽しいのか知らないが、彼はにこりと微笑んで手を振った。なんだろう、腹が立つ。腹が立つが……美しいことは間違いない。

 高直ではあれど、流行りの模様が入っているわけでも無い、ただの藍染の着物さえ、彼の儚げな容姿を引き立たせることに一役買っているように思える。

 その本性は、儚いどころか物騒だというのに。

「一歩歩くごとに声をかけられるのは、さすがに面倒だねえ。なかなか先に進めないよ」

 物騒で、ひどく綺麗な男がぼやいた。

「お前のせいだ、お前の」

「随分とひどい物言いだねえ、親分。もう帰ろうかな。

 ……ああ、そうしたら、今度はどんな濡れ衣で捕まってしまうか分からないね?」

「あのときは悪かったと謝っているだろうが。男が昔のことを、いつまでもぐちぐちと情けない」

「おやまあ、相変わらず口が悪いこと。それにあれは、ついこの間の話じゃあないか」

 物騒で綺麗な男、ミツキは、しばらく前にオキクさんの息子のハクを、狐憑きから救ってくれた恩人だ。その際にタカマが少し、いや、まあ、かなり強引な方法で協力させたものだから、ミツキの愚痴は止まらない。

「そもそもねえ、お前さんは岡っ引きだろう。いつも誰かの力を借りて解決するのはどうかと思うよ。私だっていつもこの辺りにいるわけじゃないからさあ」

「いつもじゃねえし、そもそも今回の件は、本来おれの案件じゃねえ」

「そうだよね、吉原だったら地区が違うよね。どうして駆り出されたの?」

「ここの担当は知り合いでな。おれが不可思議なものに縁があることも知ってるから、泣きつかれたんだよ」

「親分のそれを承知しているのかい? そりゃあ、随分と親密な知り合いだ」

「……弟分だよ。悪いか」

「へえ、弟分! 会ってみようかなあ」

「そう言われるのが嫌だったから、知り合いだと言ったんだよ!」

 タカマは頭を抱えた。すっかりミツキに振り回されている。何が悲しくて、遊女より美しい男と吉原を歩かねばならないのか。可愛い弟分の頼みでなければ決して聞かなかったろう。

「ほら、ここだ」

 一軒の妓楼の前で、タカマは足を止めた。周囲の妓楼と比べても一線を画すほどの大きくて豪奢な建物だ。当然、お足も高くつく。

「ふうん。ここか」

「何か感じるか」

「いや、特に何も」

「本当か?」

 疑いの眼差しを向けると、ミツキは遺憾だと言って口を尖らせた。

「私は嘘はつかないよ。ここから見る限り、変な感じはしないけどねえ。お前さんだって、何も感じないんだろう?」

「おれの力は弱いんだ。誰かが意図的に隠そうとすれば、感じ取れなくもなるさ。まあ、お前も感じないなら、そういうわけじゃないんだろうがな。

 だが、実際にここではおかしなことが起こってる」

「頭がおかしくなった遊女。死人まで出ているんだっけね?」

 そりゃあ随分と大ごとだ。ミツキは平然とそう言った。

「まあ、入ってみれば何か分かるんじゃないかな」

「あ、おい勝手にいくな! お前一人だと、ただの客だと思われて終わりだぞ!」

 ミツキの後を追って妓楼に足を踏み入れる。するとすぐに、綺麗な女たちが群がってきた。

 タカマはごほんと咳払いをして、十手を掲げた。

「楼主に会いにきた。案内してくれ」


 タカマとミツキは豪奢な妓楼の奥へと案内された。ミツキが面白そうにあちこちに目をやっている。

「おい、落ち着け。何をキョロキョロしてるんだ」

「いやあ、妓楼に来る機会なんて、なかなか無いからさ。随分と気合いを入れて飾り付けるんだねえ」

 物珍しそうな顔をしたミツキが、空色のギヤマンでできた風鈴を手で突いている。ちりーんという涼しげな音と、余韻のない、かんっと言う音が交互に聞こえてきた。

「そりゃあ、常世の楽園だからな。見た目にもこだわるだろうよ」

「詳しいね。よく来るの?」

「んなわけねえだろ。金がない」

「ああ、なるほどね。納得だ」

 出された茶をすすり、待つことしばし。ミツキが茶の半分をからにした頃になってようやく、恰幅の良い、年の頃四十ほどの男が、一人の美しい娘を伴ってやってきた。

「お待たせしてすみません。私が楼主のオオダイです。こっちは禿のソケイです」

「ソケイでありんす」

 両の手を畳について、ソケイは丁寧に礼をした。

 まだ十代半ばといった様子だが、どうやら後の花魁候補として楼主は厳しく彼女を躾けているのだろう。それが分かるくらい彼女の動作は洗練されていた。

「おれは岡っ引きのタカマです」

「ええ、お話は伺っています。不思議のことにお詳しいとか」

「おれはあまり詳しくはないんですが、こっちの男が詳しいんでね」

 タカマはそう言ってミツキに視線を向けた。何やらぼうっとしていたミツキは突然名を呼ばれ、二、三度瞬きをした後でニコッと笑った。

「ミツキです」

 ミツキはそれ以上の自己紹介をする気は無いらしく、そのまま口を閉ざした。仕方なくタカマが話を継いだ。

「で、頭がおかしくなった遊女が出たとか?」

 話が本題に触れると、楼主とソケイの表情が明らかに曇った。

「はい」

「具体的に、教えてくれますか」

 タカマに促され、楼主は重々しく口を開いた。

「始まりは、一人の遊女が主演の最中に、客をひっぱたいたことでして」

 何の前触れもなかったという。いつものように遊女は舞を披露し、酒を注ぎ、楽しげに話をしていたそうだ。

 それが突然、酒瓶を客に投げつけ、掴みかかり、頰をひっぱたき、何やらわめき散らした。

「その遊女は、短気な気性の人だったんですか?」

 タカマの問いに、今度はソケイが大きく首を振った。

「いいえ! そんな事はありんせん。姐さんはとても優しくて、穏やかで、人を殴るなんて、そんな事するようなお人では、決してござんせん!」

「これ、落ち着きなさい」

「楼主、でもっ」

「お客様の前でも、お前は同じようにするのかい?」

「……すみません」

 うなだれたソケイの隣で、楼主がタカマに頭を下げた。

「すみませんね。さっき話した遊女を、ソケイはとても慕っていたもので」

「気にしてませんよ。

 それで、その後は?」

「似たような症状が出た遊女が、度々」

 幸いにも客に大事に至った者はいなかったが、暴れて暴れて仕方なかった遊女が一人、命さえ落としている。

「おかしくなった遊女は、座敷牢に閉じ込めています。時折発作のように凶暴になるので、そうするしかなくて。

 このままこれが続くようなら、うちは畳むしかなくなります。今でさえ、おかしな遊女の噂が広がって、客足が遠のいているのに」

 ここは大きな妓楼であるから、抱えた遊女の数も多い。この店が潰れてしまうという事は、ここに勤めている遊女らが職を失うという事だ。

「ある程度名の売れている遊女らは、よその店に置いてもらえるでしょう。でもそうでない者たちは、そうもいかない」

 楼主は再び手をついて、タカマに向けて頭を下げた。

「お願いします。私たちを、助けてください」

「お任せください。何とかしてみせます」

「ほ、本当ですか」

「もちろんです。なあ」

 そう言って後ろのミツキに話を振った。するとミツキはあきれた様子であんぐりと口を開けた。

「勝手に約束しないでおくれよ。私はまだ、助けられるとは言っていないよ」

「助けられないのか」

「まだわからないよ。まずはその遊女さんたちに会ってみないことにはね」

 その言葉を聞いて、ソケイがさっと立ち上がった。

「わっちがご案内いたしんす。どうぞ姐さんを助けておくんなんし」

 

 楼主とソケイの案内で訪れた場所は、妓楼の奥まった、暗い場所であった。昼日中であるが薄暗く、行灯の灯りが申し訳程度に周囲を照らしている。

「こりゃあ……」

 思わず零れ出た声に、楼主が言い訳するように返答した。

「灯りが届く場所では、外から見えてしまうかもしれないので」

「まあ、そりゃ、そうですがね」

 座敷牢の中には、ざっと見て十人くらいの女たちが、一人ずつ閉じ込められていた。女たちは皆落ち着いていて、異常な様相を持った者は見られない。

「ミツキ、何かわかったか?」

 少なくとも、不思議のものの気配が分かるはずのタカマは、何も感じなかった。今彼女らは、いたって普通そのもののはずだ。ミツキは女たちを一人ずつ見つめ、「ふむ」と何か考える様子でこちらに戻ってきた。

「これは、呪いの一種だね」

「呪い? だが今彼女らは」

「うん。今はもう憑いていない」

「だが、再発すると言ってただろ」

「だから、何度も憑いてるんだと思うよ」

 感染力のあるようなものではないと、ミツキは断言した。

「呪いの媒介をしているのは、毛むくじゃらの小動物みたいな使い魔だ。倒すのは簡単だよ。潰せばいい。物理的にね。それそのものは弱いから、子供でも倒せる」

「なんだ、じゃあすぐに見つけておれが潰してやるよ」

 しかしミツキは首を振った。

「あれは、触れた者の負の感情を増幅する。どれほど高潔な人物であっても、恨みや憎しみを抱かない者はいない。

 小さな不満も、あれに触れれば我慢ならないほどの大きな憎しみになってしまうのさ。そうなれば、お前さん、それに耐えきる自信はあるかい?」

「む……」

 言葉に詰まったタカマ。遊女が狂うほどの憎しみだ。耐え切れるかと問われても、なんとも言えない。

「だが、おれが狂ってもお前がなんとかしてくれるだろう。とりあえず潰してから考えればいい」

「言っただろう。触れた瞬間に狂うんだ。狂ってしまえば、潰すところまで持っていけないんだよ」

 ミツキはふうとため息をこぼした。

「それにしても、ずいぶんと古臭い手を使う。

 あの術にはね、もう一つ致命的な弱点があるんだよ。それは使い魔と術者が強力に結ばれているということ。まあ簡単に言うと、使い魔が潰れると、術者も一緒に潰れるんだ。だから優れた高僧とか格上の術者にとってはカモみたいなものでね。そのせいで廃れたんだけど……。

 術そのものが廃れた現代では、もしかしたら結構強い術に、分類されるのかもしれないね」



 やがて、中で何かしらの仕事を終えたのか、黒いのが吉原の中から出てきた。

「あっ! 出てきた」

「逃すなよ、捕まえろ!」

 ソウタの号令で、レンはがばっと黒いのに覆いかぶさった。ソウタは黒いのが万一逃げた時のために、すぐに動けるように控えている。

「レン! 籠の中に!」

「わかった!」

 レンは両の手を広げ、黒いのを手の中に閉じ込めた。ぱちん! と両手が打ち鳴らされる。

「うわっ、おい、殺してないだろうな」

「大丈夫! そんな手応えなかった!」

 レンは目をキラキラさせて、ソウタが用意した籠に手を入れた。

 やった、やったぞ! とうとう黒いのを捕まえた!

 そして籠の中でそうっと手を開き始める。勿体つけるように、ゆっくりと。

 ごくりと息を飲んだ。隣のソウタも、普段は大人びた雰囲気を持っているが、今この時ばかりは年相応の少年の顔をしている。

 そしてレンの手が完全に開かれた。

「……あれっ?」

 レンの手の中に、黒いのはいなくなっていた。

「あれ? あれ?」

 レンの両手は黒く汚れていたが、それだけだった。辺りを見回す。黒いのが逃げた気配などない。

「……あれえ?」

 レンはソウタと顔を見合わせ、きょとんと首を傾げてみせた。


 その日以降、レンとソウタが、黒いのを見かけることはなくなった。

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豊葦原の旅の話 佐倉 杏 @an_s

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