第28話 勿忘草 三
「やあ、こんにちは。さっきはたくあんをご馳走さま」
「あんた、旅人さんか?」
つい先刻、飯を振舞ってやった旅人が、穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「石を投げたのは、あんた?」
「うん」
「なぜ鬼の味方をするんだ。あんたも殺してやろうか」
「おや、随分と怖いことを言うね。
私は別に鬼の味方をしたわけではないよ」
「鬼を助けただろ!」
「違うよ」旅人は小さく首を振った。「私が助けたのは、お前さんだ」
「何だと?」
すっと、旅人は指先で、目、鼻、口を順に指差した。
「血が、出てるよ。気づいていないかな」
「え……」
慌てて顔に手を当てる。ぬるっとした感触が、顔じゅうから感じられる。顔に触れた左の手のひらには、べっとりと赤い液体が滴っていた。
「その刀」
旅人が神の刀を指差した。
「それは本来、人の子が使うような刀ではないんだよ。あまりに強すぎて、お前さんの体は、その負荷に耐えきれない。早く手放さないと死ぬよ」
なるほど確かに、ソウマの身体能力は恐ろしいほどに強化されていた。体が耐えきれないと言うのにも納得だった。神にはきっと、人の脆さが理解できないのだろう。
「だが……」
しかしソウマは刀を手放すのを躊躇った。これがなければ、ヨナの仇を討てない。
「何を迷うの。弟や、妹がいるんでしょう? お前さんが死んだら、彼らがとても悲しむよ。それに、お前さんの稼ぎがなくなったら、とても困るんじゃないかい?」
弟と妹たち。それは確かに、困る。もしも己が死んだら、村で里子を募るはずだ。そのための金は、村でもいくらか溜め込んでいるはずだ。あの子達が飢えて死ぬことは、多分ない。だが……。
躊躇うソウマを見て、旅人はやれやれと首を振った。それから無造作にこちらに近づいてくる。
「く、来るな」
「何がそんなに怖いの? 丸腰の私相手に?」
旅人は小さな脇差しを持っているが、その長さはソウマの刀とは比べるべくもない。まともに戦えば、勝負にならないだろう。だが、旅人が近づいてくるたびに、全身から冷や汗が滲み出てくる。
「なんだ、もう精神まで影響されているじゃあないか。
それにしても、傷つくなあ。そんなに怯えなくてもいいのに」
旅人はソウマの前で立ち止まり、右手を差し出した。
「勿忘草、持ってるよね」
「わ、勿忘草?」
「そう。くれるかい? 後でちゃんと返すから」
数秒たっぷり考え込んで、それから旅人が言っているのが、ヨナの形見のことだと思い至った。
「さあ」
旅人が催促する。ソウマの左手が、懐の勿忘草を探った。
「待ってくれ」
その言葉がソウマの手を止めた。左手は勿忘草を握り、しかし旅人に向けて差し出してはいない。
その言葉は鬼の口から発せられていた。
「どうもお久しぶりで。お元気そうで何よりです」
意外にも、鬼が丁寧に礼をした。
「どうして止めるの?」
「あいつとの約束だからです。邪魔をしないでください」
「黙って討たれてやることが、約束なの?」
「人に敬意を払うこと。それがあいつとの約束です」
鬼はまっすぐに旅人を見た。旅人もまた、まっすぐに鬼を見つめ返す。
「それは分かるけど……。このままじゃ、良くないだろう」
旅人がソウマの方を指差した。
「このままだと、お前さんもこのお人も、どちらも死ぬよ」
「それは、そうかもしれませんが」
旅人は盛大にため息をついた。それから踵を返してソウマの方を向くと、今度はすたすたと間合いを詰めてくる。
「わわっ」
反射的に刀を構えたが、旅人がひらりと袖を振っただけで、己の手から刀が消えた。代わりに旅人の手の中に、それはスッポリと収まっている。
「返し……」
返してくれ。それがないと俺は戦えないんだ。そう言おうとして、口の端から血がぼたぼたとこぼれ落ちた。
「ああほら、だから言ったのに」
旅人が幼子にするように、ソウマの口元を布で拭う。ソウマは地面に倒れこみ、旅人から受け取った布を真っ赤に染めた。
「もうやめなよ。無理をしても、いいことなどないよ」
旅人の声に、嘲りなどなかった。本当に己を心配しての言葉なのだと分かる。だけど、どうしても承知できない。
「ヨナの、仇なんだ」
討つと誓ったんだ。必ず、無念を晴らすと。
「鬼を殺すまで、帰れない」
悲痛なソウマの訴えに、旅人よりもむしろ鬼が同調した。
「ミツキ様。そういうことですから」
鬼が、旅人ミツキに向けて手を伸ばす。刀を返せと言っているのか。ソウマに返そうというのか。刀の力は強かった。己の身さえ危うくするかもしれないのに、わざわざ?
「なんで、鬼が……?」
血を吐き出しながら、ソウマは問うた。鬼は面倒臭そうにこちらに目を向けた。
「約束したのだ」
鬼はさっきからずっと繰り返していた「約束」という言葉を再び口にした。
「誰と、何を」
「友と、人に敬意を払うと、約束したのだ」
「なんでそんな約束を」
「おれが友を、喰ったからだ」
「……なんだって?」
「おれが友を、喰ったからだ」
その時風が吹いて、勿忘草が舞い上がった。
「知りたい?」
ミツキが聞いた。
「ああ、知りたい」
「だって。いいかい?」
鬼がミツキを見て、うなずいた。
「……人の子が、それを望むなら」
「それじゃあ」
ミツキが両手を勿忘草に向け、伸ばした。
そしてソウマの目の前で、勿忘草の花びらが砕けて散らばった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます