第28話 勿忘草 一

 昔の話だ。

 ある時、ある場所に鬼がいた。鬼は乱暴で残酷で、鬼であるから人を食った。しかし鬼もまた、限りある命しか持たない生き物であった。怪我をすることもあれば、病にかかることもある。程度がひどければ、死ぬことだってある。

 その時なぜ鬼が弱ったのか、そのことについてはもう記憶から消えていた。どうでも良いことだった。記憶する価値もないことだ。少なくとも鬼にとって、己が弱った記憶など、恥以外の何物でもない。

 とうの昔の物語である。誰に問いただされることもなく、反芻されることのない記憶は、月が巡るごとにどんどん薄れてゆく。忘れてしまいたい事柄であれば、尚のこと。鬼が覚えていたのは、どうして弱ったかではなく、どうして助かったのか、であった。

 気づけば、百年以上もの月日が経っていた。

 途中から、月日を数えることもやめた。

 それでも、忘れていないことが一つだけあった。

 ただそれも、もう遥か昔の話だ。

 夜空の月と鬼だけが覚えている。そのくらい、昔の話だ。



「危ないから、日が暮れてから外を出歩いてはだめよ」

 母はいつも、ヨナにそう言っていた。それは決して母が必要以上に心配性であるからではなく、実際に危ないからだった。

 この時代、夜の闇にはたくさんのものが潜んでいた。

 娘を拐かそうとする悪人。

 物入れを盗もうとする罪人。

 暗がりに溶け込み、牙を研ぐ妖たち。

 女であれば、男よりも余計に気をつけなければならない。

 ヨナはよく村人から勇敢な娘だと言われたが、その彼女をしても、夜間に出歩くような無謀な真似はしない。しない、ようにしていた。

 不安が、ぱたぱたと動く足を急かす。片手で前を抑えねば、着物がはだけてしまうほど必死に進んだ。ヨナは空を見上げた。日はとうに沈みきり、辺りはすでに濃紺に染まりつつある。

(はやく、はやく、はやく)

 宵闇は、ヨナが呼吸するたびに肺の中に潜り込み、全身を駆け巡って心の臓を蝕んだ。

 暗がりに潜む何かを見つけられるほど、ヨナの視力は優れていない。そして何かがあった際、それに対応できるほど、ヨナの体力は優れていなかった。それどころか、並の人より劣っていると言っても良い。だからヨナにできたのは、ただ何にも遭遇しないことを、天に祈ることだけだ。

 もっと早く出かければよかった。そう思っても、昼日中には仕事がある。これでも精一杯頑張った結果だ。

(やめておけばよかったかしら)

 そう思わぬでもなかったが、どうしても出かけたかった。明日は大事な日なのだ。あの人に、これを渡してあげたかった。

 ヨナの視線が握りしめた右手に移る。そこには、数輪の勿忘草。

 これを、あの人に。

 私を好いてくれた、あの人に。

 明日でなければならないのだ。明日は大切な日だから。

「こほっ」

 精一杯動いたからか、咳が出た。仕方なく立ち止まり、息を整えた。胸を押さえ、何度か深呼吸をした。

「ほう」

 突如聞こえた音に、ぎくりと身がすくんだ。聞こえてきた音の方を振り返る。そうして必死に闇の中に目をこらすと、闇に紛れた木々の隙間から、二つの鋭い目がのぞいているのが見えた。

「ほう」

 それは再び鳴くと、ばさっと翼を広げ、獲物の野鼠を求めて山の奥へと消えた。

 ただの梟であった。

 ヨナは安堵に肩を落とし、それから再び村の方へと歩を向けた。

 どん。

 何かにぶつかった。

 後ろに転んで、尻もちをついた。

 ヨナがぶつかった、まるで大木のようにびくともしないそれは、赤みがかっていた。

 それが二本、たっていた。

 赤い柱の、地面に触れた部分は、三つの太い枝に分かれていた。

 その先端からは、黒く鋭い刃物がついていた。

 ヨナは、顔を上げることもできなかった。ガタガタと震え、黒い鉤爪を見つめ続ける。

「おう、珍しい。娘じゃないか。若い娘だ」

 低い声が降ってきた。

「最近じゃあ、娘は日が沈むよりも前に、家に閉じこもってしまうからなあ。家ごと襲うのは面倒だし、食い残すのも悪いから、避けていたんだが……。

 さては娘、自殺志願者か?」

 ヨナは地面を見つめたまま、激しく首を振った。

 鬼の足のすぐそばに、大きく重そうな金棒が、ズンと振ってきた。

「はっはっは! そう怯えるな。大丈夫だから」

 ヨナの視界に、鬼の頭が映り込んできた。ぎょろりと出っ張った黄色い目が、無遠慮にヨナに注がれていた。

 ヨナは顔を上げていない。鬼がしゃがんだのだ。

「おお、よしよし。泣くな泣くな」

 鬼はヨナの頭に手を乗せた。それから聞かん坊に言い聞かせるように、ぽんぽんと頭を撫でる。

「痛めつけるつもりなんて、おれにはこれっぽっちもないぞ。獲物を嬲る趣味は持っておらん。

 だから、なぁに。痛いのはほんの一瞬だ」

 次の瞬間、鬼の顔が天地逆さになった。



 ヨナが消えて、三日が経った。

 彼女は仕事を終えてから村の外へ出かけ、そして消えた。

「ヨナ……。翌日には嫁入りだったってのに、どうして」

 ヨナの昔馴染みであるソウマは、彼女の髪飾りと共に側に落ちていた、血の付いた勿忘草を握りしめて呟いた。

 姿を消すほど、あの縁談が嫌だったのだろうか。いや、そんなことはないだろう。たしかにヨナは、あの男に懸想をしていたわけではなかった。しかし彼は別段嫌な男だったわけでも、醜男だったわけでもない。

 病がちの彼女の、決して安くはない治療費を負担すると言ってくれるほど彼女に惚れ込んでいたし、上方ではそれなりに名の知れたお店の若旦那だ。

 条件としてはこれ以上ないほど良い縁談だったはずだ。

(自ら望んで消えたのではないのなら、鬼に攫われてしまったのか)

 この村には、鬼の伝説があった。人を食らう、恐ろしい鬼の伝説が。

 そして実際に、村の周囲では度々人が消える。

 もしも……もしも彼女が本当に、鬼に遭遇したのなら、おそらく彼女は、無事ではあるまい。

 そして村はずれに残された彼女の持ち物には、おびただしい量の血が……。

「ああ、ヨナ……」

 どうして、夜中に一人で出かけたりしたのか。せめて俺に、一言言ってくれれば。そうすれば、助けられたかも知れないのに。一人で寂しく死なせることなど、決してしなかったのに。

「もし。誰かいませんか」

 物思いに沈んでいたソウマは、見知らぬ人間の声で我に返った。そう言えば、今日は店を開けていたんだった。

 ヨナがいなくなって最初の日は、一日彼女を捜して出歩いていたから、店は閉めていた。その次の日も同じだった。けれど三日目、さすがにそろそろ働かないと、ソウマの方が空腹で倒れてしまう。

 ソウマだけならまだいい。でも彼には養わなければならない弟妹たちがいる。

 己の頰をぐりぐりといじって、客向けの顔を作ろうとするが、どうしてか笑顔が作れない。それでも客をいつまでも待たせるわけにもいかず、ソウマは店面へと顔を出した。

「すみません、お待たせして」

「いいえ」

 ずいぶん待たせてしまったのに、客は気を悪くした様子など全く見せず、にこりと微笑んだ。

 そこにいたのは奇妙な旅人だった。装いはまるで商人のように気軽なのに、近隣の村でその顔を見た覚えなどない。旅人であることは間違いないが、腰の脇差と小さな風呂敷一つぽっちの荷で、一体どこから旅をしてきたのだろう。

 そのとき、旅人の腹がぐうと鳴った。

 少し恥ずかしそうに頭を掻くと、旅人はなんとも情けなさそうに笑った。

「あはは。……すまないね」

 そう言って、旅人は店に並んだ漬物のいくつかを求めた。ソウマがそれを包んでいると、旅人が問うた。

「ちょいと聞きたいんだけど、この辺りで食事がとれるところはないのかな。屋台でも何でも構わないのだけれど」

「あー、今日はちょっと……」

「…………? 何かあったのかい?」

 旅人の問いに、ソウマはただ「鬼が出たんです」とだけ答えた。

「鬼? この辺りで?」

「まあそんなわけで、まだ店を開けてないところが多いんですよ。うちも、今日からまた開けたばかりで」

「そう、なのか」

 なにやら考え込んでいる様子の旅人に、ソウマはくすりと笑った。

「うちで、食べていきますか。まあ簡単なものしかできませんが」

「いいのかい?」

「ええ、どうぞ」

 一人きりで店にいても、死んでしまったヨナのことを延々と考えるばかりだ。なら、少し気を紛らわせるのも悪くない。

 旅人はとても金持ちなのだろう。着ているものからもそれがわかる。こんな質素な食事で怒ったりしないだろうかと少々不安になるが、旅人は米と漬物だけという本当に簡素な食事を、うまそうに頬張った。

「おいしいね。いやあ、助かった。お腹と背中がくっつくかと思った」

「あなたは、家出人ですか?」

「家出?」

 問われた旅人は、不思議そうに目を瞬かせた。

「だって、その藍染の着物は、くたびれてもいないじゃないですか。とても長旅をしてきたようなお人には見えませんよ。どこか近くの大店から家出でもしてきたんじゃないですか」

「あはは、よく言われるよ。でも本当に、結構長く旅はしているんだよ」

 旅人は茶を啜って、少しだけ視線を泳がせた。

「でも、家出かあ。うん……あながち間違ってはいないかもなあ」

「じゃあ、家の方が心配しているのでは?」

「いやあ、それはないよ。皆好きな場所で自分勝手に生きてるし、そもそも喧嘩したのはずいぶん昔のことだしね。

 もう長いこと顔は合わせてないけど、一応和解はしているんだよ」

 旅人は空になった茶碗をソウマに返した。

「ご馳走様。お代はこのくらいでいいかな」

「多すぎますよ、こんな食事で」

「もらっておくれよ。こういうのは気持ちの問題だから。そのくらい感謝してるってことだよ。たくあん、本当に美味しかった」

 そう言われると、突き返すのも申し訳なくて、ソウマは多すぎる金子を懐にしまった。

「鬼、か」

 旅人が突然そう呟いた。

「ねえ、鬼はよく出るのかい?」

「いえ、流石にそう頻繁に出るわけじゃないですよ。それならこの辺りは、もっと寂れてます」

「たしかにね」

 それじゃあ、と言って店を出ようとする旅人の背に、ソウマは声を投げかけた。

「でも、夜は危ないことに変わりはないですから、旅人さんも気を付けてくださいね」

「ありがとう」

 旅人は笑顔で手を振って、ソウマの店を後にした。


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