第27話 ワダツミの愛娘
助けて。
そう叫んでも、誰にも聞こえない。涙が溢れて止まらない。誰もナギに目を合わせてくれない。誰も彼もが自分の幸せばかりを見つめている。
踏み台にされるナギには目もくれない。
申し訳なさそうな顔の大人が一人、ナギのところへやってきた。そして言う。
「ごめんな」
そして男はナギの手足に石を結びつけた。精一杯暴れたが、十二になったばかりの女の力などたかが知れている。
ごめんと言うなら、助けてよ。申し訳ないと、本当に思っているのなら。
口にかまされた猿轡から、むーむーと言う音だけが漏れる。
男は最後にもう一度だけナギを見て、ごめんと繰り返した。
そしてナギは海に突き落とされた。
砕け散る白いしぶきが見えた。
荒れ狂う黒い水面が見えた。
とぐろを巻く暗雲が見えた。
幼いナギを突き落とした無情な手が見えた。
「神よ、娘を捧げます。どうか怒りを鎮めたまえ」
どぼんと音を立てて、ナギの体は真っ黒な海の中に引き摺り込まれていった。
*
ふと気づくと、ナギは不思議な場所にいた。
海、であることに間違いはないのだろう。しかし体にまとわりつく水は軽く、ナギの体の自由を全く抑制しない。
腕を動かす。抵抗なく動く。
足を動かす。抵抗なく動く。
くるりと回転してみる。体の軽やかな動きにやや遅れて、長い髪が波打った。
ナギが動くたび、美しく透き通った海水は七色に光り輝く。
「すごい」
声に出して、それからとても驚いた。
声が出る。口から泡は出ない。
ふわりと全身から力を抜く。ナギの体は波に揺られ、まるで海の一部となったかのように光る水に馴染んだ。
水底から、光る魚の群れがナギの方へ向かってやってきた。魚はナギに挨拶するように、ナギの肌を撫でていく。それがくすぐったくて、ナギは声を出して笑った。
光る海は、ナギを優しく抱きとめてくれた。海から伝わるこの感情を、ナギは知っている。
これは、愛だ。
まだ両親が生きていた頃、彼らが与えてくれた愛情によく似ている。海は、ナギを愛してくれている。
それからナギは長いこと、本当に本当に長いこと、ただこの海を漂っていた。
*
海を漂って、どれほどか時が経った。
退屈することはなかった。海は常に表情を変える。泳いでいる魚の種類も変わる。ただ揺られているだけでナギは幸せだった。
この海には多くの客が来る。その全てが海洋生物で、例外なくきらきらと輝いていた。少し前に来た大型の魚の群れなどは、一緒に遊ぶと特に楽しかった。人懐っこくこちらを突いてくる彼らは、ナギが遊び疲れて眠るまで側にいた。
だからこの日、現れた影にナギは目を丸くした。
それは人の形をしていたのだ。
「こんにちは」
それは優しげな顔立ちの男だった。光ってこそいないが、ゆらゆら揺れる藍染の着物が美しい。しかしナギはその人を見て、さっとすぐ側にいた魚の群れに体を隠した。
「どうしたの?」
男の問いに、ナギは首を振る。
「……どっかへ行って」
やっとの事で絞り出した声は、震えていた。
男は少し悲しそうに肩をすくめると、その場に座り込んだ。何もない海の中に座るというのは意味がわからないが、彼の尻の下には光る波が座布団のように渦巻いている。
ナギに寄り添っていた魚たちは、ふらりとナギの元を離れて男のところに行く。男は慣れた様子で魚の頭を撫でた。
「怖がらなくていい。私はお前さんを害したりしないよ。絶対にね」
「信じられないわ」
男の言葉になど、ナギは取り合わなかった。
「人は信用できない」
「ワダツミは信用できる、と?」
「……ワダツミ?」
「この光る海のことさ」
「わだつみとは、海の神様のことではないの?」
「まあ、一般的にはね」
と、男は曖昧に頷いた。じっ、と睨みつけるように男を見やると、男は困ったように頰を掻いた。数呼吸の間そうしていると、男はちらちらとナギを見て、やがてため息とともに言葉を吐き出した。
「ワダツミは神ではあるけれど、普通の神とは違うんだよ」
どう違うのか、と問う。
「ワダツミはね、個人の意思を持たない神なんだよ」
だから通常は、生贄がワダツミの元へたどり着くことなどできないのだという。人の世にある暗い海で溺れてしまえば、神の領域までは届かない。
「前例がないことだから、お前さんをどうするか、随分と長く話し合ったらしいよ」
「誰と誰が話し合ったの?」
聞いたが、男はそれには答えなかった。
「お前さんをそのままにしておけば、お前さんは人ではなくなってしまう」
人として生を遂げさせるのなら、なるべく早く、できることなら今すぐにでも、人の世に返さねばならない。
だが、それができるのはワダツミだけだ。
「お前さんがそれを望めば、ワダツミは従うだろう。意思のない神だからこそ、他者の意思には同調しやすいんだ」
「嫌よ。私は帰らない」
「帰らなければ、お前さんはそう遠くないうちに、光になって消えてしまうよ」
「それでもいいわ。ずっとここにいられるなら」
男は心底不思議そうに首を傾げた。
「どうしてここにいたいの? 確かに景色は美しいけど、ここには何もないのに」
「何もない? いいえ、違うわ。ここにはワダツミがいる」
「そりゃ、そうだけど……。ワダツミは意思さえない存在だ」
「いいえ、それは違うわ。ワダツミは私を愛してくれている。長いこと、誰もくれなかったものを、たくさん私にくれている」
「気の毒だけれど……それは気のせいだよ。ワダツミには誰かを愛するような、繊細な情緒なんかない」
その言葉を聞いて、かちんときた。
「ひどいこと言わないで!」
途端、光る波が逆巻いて、ナギと男の間に激流を作った。
「どっかへ行って。どっかへ行ってよ!」
渦がその勢いを増す。常人であれば怯むであろう激流を前に、しかし男は慌てた様子など微塵もなく、のんびりと佇んでいた。
「もう、ここまで同調が進んでいるのか……」
男のそばを泳いでいた魚が、激流を乗り越えてナギの所に帰ってきた。愛おしそうに、ナギに頬ずりをする。
「今日のところは、帰るよ。傷つけるようなことを言って悪かったね。
でも、考えておいてほしい。お前さんにはもう、あまり時間はないみたいだ」
やがて光る渦が消える。その頃にはもう、男の姿はどこにもなかった。
*
これは夢だ。
ナギにはすぐそれが分かった。夢など見たのは久しぶりだ。ここに、ワダツミの海に来て、それから一度でも夢を見たことがあっただろうか。
もしかしたら、あの失礼な男のせいだろうか。あの異物がワダツミに入り込んだせいで、こんな夢を見ているのだろうか。
夢の中で、ナギは波打ち際を歩いていた。足元には冷たくて優しい海水が浸っている。ナギはそれを蹴飛ばし、白い波を立てながら歩いていた。
右手に、温かい熱を感じて顔を上げた。そこにいたのは父だった。
記憶にある父と母は、いつも笑顔だった。ナギが生贄になるよりずっと前、流行病で死んでしまうその直前まで、ナギを安心させるように笑っていた。隣を歩く父も、今笑顔を浮かべているのだと、なんとなく分かった。
父は、ナギよりも深い海の中を歩いていた。沈みゆく夕日が逆光になって、顔は見えない。心なしか、記憶にある父よりも、背が高いような気がする。
一瞬、違和感を感じた。これは私の知る父ではないと。でも同時に、その掌からは確かな父の愛を感じる。
「ナギ」
名を呼ばれ、ナギは顔を上げた。そこにいたのは知らない人だった。見たことのない人。でも、己を呼ぶその言葉には、確かな親愛がこもっていた。
ナギはパッと顔をほころばせると、父の手を振り切ってその人のところへ走った。冷たい水に浸っていた足が砂浜を捉え、濡れた足に砂が張り付いた。
その人と笑いあって、それからナギは父を振り返った。父さんも早く来てと、そう言おうとしたのだ。
しかし。
振り返った赤い海、そこに父の姿はなかった。
ただ、広大な海がそこにあるだけだった。
*
ふと気づくと、ナギは砂浜に倒れていた。
「大丈夫?」
誰かが、ナギの顔を覗き込んでいた。
「あ……」
喋ろうとして、喉が痛くて咳き込んだ。優しい手がナギの背中をさする。
「いいの、無理に喋らないで」
そこにいたのは、年の頃四十は迎えようかという女だった。見慣れぬ着物に、見慣れぬ髪型。異国にでも迷い込んでしまったのだろうか。
女が、ナギに水を差し出してくれた。ナギは夢中になって水を飲む。一口飲んで初めて、とても喉が乾いていたのだと気づいた。何年も飲み物を口にしていなかったのではないか、と思うくらいに。
ナギが落ち着くのを待って、女は再び質問を口にした。
「お名前は?」
「ナギ」
「どこから来たの?」
「私は……あれ?」
答えようとして、何も思い出せないことに気づく。分かるはずだった。当然のこと。でもその当たり前が、どうしても思い出せない。
「わ、私、は……。え? あれ? えっ?」
「ああ、いいのよ。いいの。大丈夫よ」
女は混乱するナギを抱きとめ、ゆっくりとそう言い聞かせた。その腕から確かな優しさを感じて、ナギは次第に落ち着いてきた。
それから女と二人、他愛のない話をした。女の声は穏やかで、その言葉はナギを傷つけることなどなかった。やがて、ナギが女の冗談に笑えるようになった頃、女はこう切り出した。
「ナギちゃん、あなたさえ良ければ、記憶が戻るまで私の家に来ない?」
「で、でも、迷惑をかけるわけには」
「迷惑じゃないの。本当よ。
実はね、私には子供がいないの。だから、あなたみたいな可愛い子が家に来てくれたら、とても楽しい。主人も、反対はしないでしょう」
どうかしら、と屈託なく女は笑った。
ナギは迷ったが、この人についていかなくては、今夜の寝床さえも確保できない。
「お願い、します」
「まあ嬉しい。歓迎するわ」
女が差し出した手を握り、ナギは立ち上がった。ふらっと体がぐらつく。
「まあ、大丈夫?」
「は、はい」
足にうまく力が入らない。まるで歩き方を忘れてしまったみたいだ。
どうしてだろう。もしナギが海で溺れて流されたのだとしても、何十年も何百年も、海の中にいたわけでもあるまいに。
「じゃあ、行きましょう」
女に手を引かれ、足の裏に感じていた冷たい水が、砂に変わる。途端に、ナギの足が止まった。
「どうかしたの?」
女が問う。
ナギは振り返り、海を見ていた。規則正しい波の音が響いている。
「ナギちゃん?」
再び、女が問う。
どうしてかはわからない。けれど、ナギの目はひたすら海に注がれる。この感情を何と呼ぶのか、ナギにはわからなかった。ただ一雫の涙が、音もなく零れ落ちた。
「いえ、なんでもありません」
さっと涙を拭って、ナギはそう答えた。理由もわからない感情で、親切にしてくれた人に迷惑はかけたくなかった。
「海が好きなのね」
「はい」
女の言葉に、今度はためらいなく頷いていた。他の何も覚えていないというのに、どうしてか、確信を持って言えた。
最後にもう一度だけ、ナギは海を見た。
寄せては返す波の飛沫が、太陽の光に照らされて、七色に輝いていた。
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