第27話 ワダツミの愛娘

 助けて。

 そう叫んでも、誰にも聞こえない。涙が溢れて止まらない。誰もナギに目を合わせてくれない。誰も彼もが自分の幸せばかりを見つめている。

 踏み台にされるナギには目もくれない。

 申し訳なさそうな顔の大人が一人、ナギのところへやってきた。そして言う。

「ごめんな」

 そして男はナギの手足に石を結びつけた。精一杯暴れたが、十二になったばかりの女の力などたかが知れている。

 ごめんと言うなら、助けてよ。申し訳ないと、本当に思っているのなら。

 口にかまされた猿轡から、むーむーと言う音だけが漏れる。

 男は最後にもう一度だけナギを見て、ごめんと繰り返した。

 そしてナギは海に突き落とされた。

 砕け散る白いしぶきが見えた。

 荒れ狂う黒い水面が見えた。

 とぐろを巻く暗雲が見えた。

 幼いナギを突き落とした無情な手が見えた。

「神よ、娘を捧げます。どうか怒りを鎮めたまえ」

 どぼんと音を立てて、ナギの体は真っ黒な海の中に引き摺り込まれていった。





 ふと気づくと、ナギは不思議な場所にいた。

 海、であることに間違いはないのだろう。しかし体にまとわりつく水は軽く、ナギの体の自由を全く抑制しない。

 腕を動かす。抵抗なく動く。

 足を動かす。抵抗なく動く。

 くるりと回転してみる。体の軽やかな動きにやや遅れて、長い髪が波打った。

 ナギが動くたび、美しく透き通った海水は七色に光り輝く。

「すごい」

 声に出して、それからとても驚いた。

 声が出る。口から泡は出ない。

 ふわりと全身から力を抜く。ナギの体は波に揺られ、まるで海の一部となったかのように光る水に馴染んだ。

 水底から、光る魚の群れがナギの方へ向かってやってきた。魚はナギに挨拶するように、ナギの肌を撫でていく。それがくすぐったくて、ナギは声を出して笑った。

 光る海は、ナギを優しく抱きとめてくれた。海から伝わるこの感情を、ナギは知っている。

 これは、愛だ。

 まだ両親が生きていた頃、彼らが与えてくれた愛情によく似ている。海は、ナギを愛してくれている。

 それからナギは長いこと、本当に本当に長いこと、ただこの海を漂っていた。





 海を漂って、どれほどか時が経った。

 退屈することはなかった。海は常に表情を変える。泳いでいる魚の種類も変わる。ただ揺られているだけでナギは幸せだった。

 この海には多くの客が来る。その全てが海洋生物で、例外なくきらきらと輝いていた。少し前に来た大型の魚の群れなどは、一緒に遊ぶと特に楽しかった。人懐っこくこちらを突いてくる彼らは、ナギが遊び疲れて眠るまで側にいた。

 だからこの日、現れた影にナギは目を丸くした。

 それは人の形をしていたのだ。

「こんにちは」

 それは優しげな顔立ちの男だった。光ってこそいないが、ゆらゆら揺れる藍染の着物が美しい。しかしナギはその人を見て、さっとすぐ側にいた魚の群れに体を隠した。

「どうしたの?」

 男の問いに、ナギは首を振る。

「……どっかへ行って」

 やっとの事で絞り出した声は、震えていた。

 男は少し悲しそうに肩をすくめると、その場に座り込んだ。何もない海の中に座るというのは意味がわからないが、彼の尻の下には光る波が座布団のように渦巻いている。

 ナギに寄り添っていた魚たちは、ふらりとナギの元を離れて男のところに行く。男は慣れた様子で魚の頭を撫でた。

「怖がらなくていい。私はお前さんを害したりしないよ。絶対にね」

「信じられないわ」

 男の言葉になど、ナギは取り合わなかった。

「人は信用できない」

「ワダツミは信用できる、と?」

「……ワダツミ?」

「この光る海のことさ」

「わだつみとは、海の神様のことではないの?」

「まあ、一般的にはね」

 と、男は曖昧に頷いた。じっ、と睨みつけるように男を見やると、男は困ったように頰を掻いた。数呼吸の間そうしていると、男はちらちらとナギを見て、やがてため息とともに言葉を吐き出した。

「ワダツミは神ではあるけれど、普通の神とは違うんだよ」

 どう違うのか、と問う。

「ワダツミはね、個人の意思を持たない神なんだよ」

 だから通常は、生贄がワダツミの元へたどり着くことなどできないのだという。人の世にある暗い海で溺れてしまえば、神の領域までは届かない。

「前例がないことだから、お前さんをどうするか、随分と長く話し合ったらしいよ」

「誰と誰が話し合ったの?」

 聞いたが、男はそれには答えなかった。

「お前さんをそのままにしておけば、お前さんは人ではなくなってしまう」

 人として生を遂げさせるのなら、なるべく早く、できることなら今すぐにでも、人の世に返さねばならない。

 だが、それができるのはワダツミだけだ。

「お前さんがそれを望めば、ワダツミは従うだろう。意思のない神だからこそ、他者の意思には同調しやすいんだ」

「嫌よ。私は帰らない」

「帰らなければ、お前さんはそう遠くないうちに、光になって消えてしまうよ」

「それでもいいわ。ずっとここにいられるなら」

 男は心底不思議そうに首を傾げた。

「どうしてここにいたいの? 確かに景色は美しいけど、ここには何もないのに」

「何もない? いいえ、違うわ。ここにはワダツミがいる」

「そりゃ、そうだけど……。ワダツミは意思さえない存在だ」

「いいえ、それは違うわ。ワダツミは私を愛してくれている。長いこと、誰もくれなかったものを、たくさん私にくれている」

「気の毒だけれど……それは気のせいだよ。ワダツミには誰かを愛するような、繊細な情緒なんかない」

 その言葉を聞いて、かちんときた。

「ひどいこと言わないで!」

 途端、光る波が逆巻いて、ナギと男の間に激流を作った。

「どっかへ行って。どっかへ行ってよ!」

 渦がその勢いを増す。常人であれば怯むであろう激流を前に、しかし男は慌てた様子など微塵もなく、のんびりと佇んでいた。

「もう、ここまで同調が進んでいるのか……」

 男のそばを泳いでいた魚が、激流を乗り越えてナギの所に帰ってきた。愛おしそうに、ナギに頬ずりをする。

「今日のところは、帰るよ。傷つけるようなことを言って悪かったね。

 でも、考えておいてほしい。お前さんにはもう、あまり時間はないみたいだ」

 やがて光る渦が消える。その頃にはもう、男の姿はどこにもなかった。





 これは夢だ。

 ナギにはすぐそれが分かった。夢など見たのは久しぶりだ。ここに、ワダツミの海に来て、それから一度でも夢を見たことがあっただろうか。

 もしかしたら、あの失礼な男のせいだろうか。あの異物がワダツミに入り込んだせいで、こんな夢を見ているのだろうか。

 夢の中で、ナギは波打ち際を歩いていた。足元には冷たくて優しい海水が浸っている。ナギはそれを蹴飛ばし、白い波を立てながら歩いていた。

 右手に、温かい熱を感じて顔を上げた。そこにいたのは父だった。

 記憶にある父と母は、いつも笑顔だった。ナギが生贄になるよりずっと前、流行病で死んでしまうその直前まで、ナギを安心させるように笑っていた。隣を歩く父も、今笑顔を浮かべているのだと、なんとなく分かった。

 父は、ナギよりも深い海の中を歩いていた。沈みゆく夕日が逆光になって、顔は見えない。心なしか、記憶にある父よりも、背が高いような気がする。

 一瞬、違和感を感じた。これは私の知る父ではないと。でも同時に、その掌からは確かな父の愛を感じる。

「ナギ」

 名を呼ばれ、ナギは顔を上げた。そこにいたのは知らない人だった。見たことのない人。でも、己を呼ぶその言葉には、確かな親愛がこもっていた。

 ナギはパッと顔をほころばせると、父の手を振り切ってその人のところへ走った。冷たい水に浸っていた足が砂浜を捉え、濡れた足に砂が張り付いた。

 その人と笑いあって、それからナギは父を振り返った。父さんも早く来てと、そう言おうとしたのだ。

 しかし。

 振り返った赤い海、そこに父の姿はなかった。

 ただ、広大な海がそこにあるだけだった。





 ふと気づくと、ナギは砂浜に倒れていた。

「大丈夫?」

 誰かが、ナギの顔を覗き込んでいた。

「あ……」

 喋ろうとして、喉が痛くて咳き込んだ。優しい手がナギの背中をさする。

「いいの、無理に喋らないで」

 そこにいたのは、年の頃四十は迎えようかという女だった。見慣れぬ着物に、見慣れぬ髪型。異国にでも迷い込んでしまったのだろうか。

 女が、ナギに水を差し出してくれた。ナギは夢中になって水を飲む。一口飲んで初めて、とても喉が乾いていたのだと気づいた。何年も飲み物を口にしていなかったのではないか、と思うくらいに。

 ナギが落ち着くのを待って、女は再び質問を口にした。

「お名前は?」

「ナギ」

「どこから来たの?」

「私は……あれ?」

 答えようとして、何も思い出せないことに気づく。分かるはずだった。当然のこと。でもその当たり前が、どうしても思い出せない。

「わ、私、は……。え? あれ? えっ?」

「ああ、いいのよ。いいの。大丈夫よ」

 女は混乱するナギを抱きとめ、ゆっくりとそう言い聞かせた。その腕から確かな優しさを感じて、ナギは次第に落ち着いてきた。

 それから女と二人、他愛のない話をした。女の声は穏やかで、その言葉はナギを傷つけることなどなかった。やがて、ナギが女の冗談に笑えるようになった頃、女はこう切り出した。

「ナギちゃん、あなたさえ良ければ、記憶が戻るまで私の家に来ない?」

「で、でも、迷惑をかけるわけには」

「迷惑じゃないの。本当よ。

 実はね、私には子供がいないの。だから、あなたみたいな可愛い子が家に来てくれたら、とても楽しい。主人も、反対はしないでしょう」

 どうかしら、と屈託なく女は笑った。

 ナギは迷ったが、この人についていかなくては、今夜の寝床さえも確保できない。

「お願い、します」

「まあ嬉しい。歓迎するわ」

 女が差し出した手を握り、ナギは立ち上がった。ふらっと体がぐらつく。

「まあ、大丈夫?」

「は、はい」

 足にうまく力が入らない。まるで歩き方を忘れてしまったみたいだ。

 どうしてだろう。もしナギが海で溺れて流されたのだとしても、何十年も何百年も、海の中にいたわけでもあるまいに。

「じゃあ、行きましょう」

 女に手を引かれ、足の裏に感じていた冷たい水が、砂に変わる。途端に、ナギの足が止まった。

「どうかしたの?」

 女が問う。

 ナギは振り返り、海を見ていた。規則正しい波の音が響いている。

「ナギちゃん?」

 再び、女が問う。

 どうしてかはわからない。けれど、ナギの目はひたすら海に注がれる。この感情を何と呼ぶのか、ナギにはわからなかった。ただ一雫の涙が、音もなく零れ落ちた。

「いえ、なんでもありません」

 さっと涙を拭って、ナギはそう答えた。理由もわからない感情で、親切にしてくれた人に迷惑はかけたくなかった。

「海が好きなのね」

「はい」

 女の言葉に、今度はためらいなく頷いていた。他の何も覚えていないというのに、どうしてか、確信を持って言えた。

 最後にもう一度だけ、ナギは海を見た。

 寄せては返す波の飛沫が、太陽の光に照らされて、七色に輝いていた。

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