第26話 伊達男

「おうい、ヨウスケ! ヨウスケ、いないのか」

 名の知れた大店の奥で、店の主人が声を張り上げていた。しかし主人が呼んでいるというのに、その声に応える者はいない。ひとしきり店の中を捜して回り、その姿が店のどこにも、そして店の奥にもないことを確認し、主人は深くため息をついた。

「あの馬鹿息子が、また勝手に出かけおったな」

 仕方なしに、主人はもう一人の息子を呼んだ。

「オト、いるかい?」

「はい、おとっつぁん」

 オトは店面で番頭と一緒に算盤を弾いていた。勤勉な次男を見て相好を崩すと、長男に言いつけるはずだった用事を次男に言い渡す。オトは嫌な顔一つせずに、あい分かったと承知した。

「いつもすまんね」

「いいよ。でも、兄さんの放蕩癖には困ったものだね」

「全くだ」

 また一つため息が増えた。するとそのとき、ちょうどヨウスケが帰ってきた。ヨウスケは店表に集まった家族と番頭を見付けると、すぐに事情を理解したらしい。ギクリと表情を固めると、踵を返して逃げようとした。

「これ、待ちなさい」

 主人がヨウスケの襟元を掴み引き止めた。ヨウスケは不満げに父親を見上げると頬を膨らませる。

「離してくれよ、おとっつぁん」

「離したら、また逃げるだろう」

「じゃあ、絶対逃げないから離しておくれ」

 主人は息子の体をこちらに向けて、襟元を解放した。ヨウスケは苦しかったと抗議するように、これ見よがしに着物を直している。

「ヨウスケ、お前なあ、もう少し真面目に働いたらどうなんだ」

 ヨウスケは答えない。

「お前はまだ十三だが、もう十三なんだ。店の後を継ぐことを考えれば、勉強する時間なんていくらあっても足りないんだぞ」

「……おれは、店なんか継ぎたくない」

「ヨウスケ!」

 主人が怖い顔で叱咤する。自慢ではないが、このお店はとても裕福で、これほどの大店の若旦那になるなど、普通の感覚で言えば、この上なく幸運なことであるはずだ。だが倅はその有り難さを理解していない。

「お前なあ、いつまでもそんなだと、本当にオトの方に店を継いでもらうことになるよ。いいのかい」

「だから、それでいいっていつも言ってるだろ」

「ヨウスケ……」

「この店はオトにやるよ。だからオトも、おとっつぁんも、もうおれの邪魔をしないでくれ」

 そう言い放つと、ヨウスケは主人の制止も待たずに駆け出した。



 ヨウスケには夢があった。焦がれて焦がれて、仕方ない夢が。

 歌舞伎役者である。

 幼い頃、父に連れられて歌舞伎を見た。伊達男のソウエモン。一目見て惚れ込んだ。あんな風になりたい。そう思った。

 歌舞伎役者が必ずしも恵まれているわけではないことは知っている。本来、ヨウスケがなれるようなものではないことも。しかし、それでも諦めきれない。

 ヨウスケは父に言われた店の手伝いなどうっちゃって、歌舞伎役者になるため、独学で技を磨いた。着物にもこだわった。ソウエモンに会うことさえできれば。あるいはソウエモンでなくても、歌舞伎の関係者に会うことさえできれば、きっと己の才能を見出して、弟子にしてくれるはずだと信じていた。そう思うことが恥ずかしくないだけの努力はしたつもりだ。

 ただいかんせん、機会がなかった。ソウエモンをはじめとする歌舞伎役者たち。彼らに会うことなど一度もなかった。

「おれはここにいるのに。早く見つけてくれよ……」

 ゆるりと流れる川を見つめながら、ポツリと呟く。すると。

「おや、お前さん。迷い子なのかい?」

 独り言のつもりだったのに、誰ぞに聞かれていたらしい。そんな声が降ってきた。

 声の主は、女形と見まごうばかりの美しい顔立ちの男だった。高直そうな藍染の着物がよく似合っている。一瞬、ようやく降ってきた機会かと思ったが、歌舞伎役者には詳しい己であっても見覚えがない。

「奉公先はどっちだい? 店の名前は分かるかな? 送って行ってあげようか」

 男は整った顔をにこりと笑みの形に変えた。どうやら己を奉公人と勘違いしているらしい。

 ヨウスケはぷいっとそっぽを向いた。

「おれは小僧なんかじゃない。だって、歌舞伎役者になるんだから」

「歌舞伎?」

「そうだ」

「でもお前さんのその格好。商人ではないの?」

「そう、だけどっ」

 ヨウスケはそれ以上は言わなかった。見ず知らずの人間に全て話してしまえるほど、己は厚顔ではない。しかし何も語らずとも、態度や口ぶりで男は全てを察したらしい。余裕たっぷりの癪にさわる表情で腕を組み、うんうんと頷いた。

「ああ、なるほどね。大体わかったよ。

 生まれた場所で人生が決まってしまうというのは、辛いことでもあるからねえ。それを変えようというお前さんの意気込みは、嫌いじゃあないよ」

「別にあんたがどう思っても、関係ない」

 頬を膨らまして、ふんと男から顔を背けた。

「おや、冷たいねえ。ここを通りがかったのも何かの縁だから、助けてあげようかと思ったのに」

「何だって?」

 助けてあげる、そう言ったか? まさかこの男、本当に歌舞伎役者なのだろうか。少なくともその関係者? もしかして血縁か? そう思って男の方を見やる。すると。

「えっ」

 男が笑みを浮かべたまま、己の体を突き飛ばしていた。子供ゆえに体重の軽いヨウスケはあっさりと宙に飛び、すぐそこの川の流れに落ちた。

 ヨウスケは水練が苦手ではない。苦手ではないのに、この時ばかりはどういうわけか泳げない。いつものように泳ごうとすると、川がそれを拒むかのように流れを速くする。

 死に物狂いで水面に顔を出して、己を突き落とした男に手を伸ばす。すると男は薄情にもひらひらと手を振った。

「ここから先は、お前さん次第だよ」

 頑張れ。その言葉とともに、川の流れがヨウスケを巻き込んで逆巻いた。天地が逆さになり、川の水をしこたま飲んだ。息が苦しくなる。そして、そして……。


「おいっ、おいっ、生きてるか!」

 何者かが己の頬を叩いていた。体がだるい。衣が水を吸って重い。

 しかしうっすら開いた目に飛び込んできた光景に、ヨウスケは飛び起きた。

「おお、良かった。生き返ったねえ」

「な、な、な、なんっ、どうしてっ」

「?」

 己で見たものが信じられなかった。だって己の頬を叩いていたのは、夢にまで見た伊達男。

「そ、ソウエモン……」

「おや、あたしを知ってるのかい」

 ソウエモンは意外そうに、片方の眉をひょいと持ち上げた。その些細な表情の変化さえも格好いい。

 ヨウスケはこの機会を逃してなるものかと、跪いて頭を下げた。

「助けてくれて、ありがとうございました。不躾ながら、ひとつお願いがございまして」

「んん? お願い? あたしにかい?」

 ヨウスケは頷いて、歌舞伎役者になりたいと、告げた。あなたにどれほどか憧れたのだと。そのための努力をしたのだと。

「おれには才能があります! 歌舞伎役者になったら、絶対に一番の伊達男になってみせます! だからどうか、見てください」

 何度も見たソウエモンが主役を張っている演目。それを本人の前で演じてみせた。自信があった。緊張もしたが、会心の出来だった。これならばきっと、ソウエモンも喜んで己を迎え入れてくれるに違いなかった。

 演技を終え、ヨウスケは期待に満ちた目でソウエモンを振り返る。ああ、やっとだ。やっと己の努力が報われる!

 しかし。

「だめだ」

 ソウエモンはそう言った。

「ど、どうして」

「歌舞伎役者を目指すには、見目も技も、てんで足りない。努力したことは認めるけどね。

 でもそれ以上に、お前さんには足りないものがある」

「足りない、もの」

 ソウエモンは頷いた。

「誠意だよ。お前さんには誠意が足りない。だってお前、世話になっているお店に仇しか返していないじゃあないか。おや、父の店だからって関係ないさ。

 己に課せられた仕事を放って、だけどもその恩恵だけはもらって、それで役者になりたいなど、無責任だと思わないのかい? 伊達男には程遠い。

 そんな男を、歌舞伎役者にするわけにゃあいかないね」

 泣き出しそうになるヨウスケの頭を撫で、最後にソウエモンはこう言った。

「まずは己の本分を果たすんだね。その後でなら、また話を聞いてあげるよ」

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