第25話 無実の男
粗末な橋の上に人影があった。彼はたいそう美しい着物を着ており、齢は五十を超えているだろう。橋の欄干に腕を預け、深く深く、ため息をつく。
「どうかなさいましたか?」
不意に声をかけられて、男は顔を上げた。先ほどまでは誰もいなかったはずの寂れた橋の上。そこに見知らぬ男が立っていた。
その男はまだ若く、そして美しい顔立ちをしていた。豪華ではないが高直そうな藍染の着物は下ろし立てのようで、くたびれた様子など全くない。
若い男はミツキと名乗った。
「何やら悩んでいるように見えましたので、つい」
ミツキははにかみながら、男の隣で頬を掻いた。人の良さそうなその表情を見て、男の瞳が揺らいだ。男は、己の悩みを人に話すことの危うさを理解していたが、同時に胸の内に押さえ込むにはあまりに重すぎて、誰ぞに話してしまいたいとも思っていた。親にも妻にも子にも、誰にも話せなかった秘密を。
それになぜだか、ミツキは人を安心させるような、ともすれば油断させるような、不可思議な空気を纏っていた。
「他言は無用のことと、心得てくれますかな?」
「もちろんですとも」
ミツキはニコリと微笑んだ。
男は、名前や場所は伏せたが、とあるお店の主人であると言った。その店は、元は振売であった己が一代で築き上げた自慢の店なのだと。
「振売から一代で! それは、すごいですね」
「ありがとう。でも、それは私だけの力ではないよ」
「奥方のお力ですか?」
「それもある。でも、それだけではないのだ」
「では、お子さんですか?」
「あはは。その頃、倅はまだ生まれてないよ」
ミツキは、では何の力を借りたのかと問うた。すると男は声を潜めてこう言った。
「影だよ」
「……影?」
ミツキが首を傾げた。男は仰々しく頷いた。
「私の影は、私の意思とは無関係に動くのだよ」
男の言葉に、ミツキが視線を地面に落とす。しかし影は動く気配がない。
「昼日中には、動かないのだ」
しかし夜になると、影は男の足元を離れ、好き勝手に動くのだという。
「私の影が夜な夜ないなくなることに気付いたのは、小さくとも、己で店を持てるようになってからでね。長屋の夜は何しろ暗い。灯りがなければ影はできないからね」
「影は、あなたの足元を離れて何をしているのですか?」
何気ないミツキの問いに、男の表情が明らかに曇った。眉を下げ、視線を己の影に落とす。
「たくさんのことを」
やがて男はそう言った。
影は生まれてずっと、男と共に生きてきた。影と男は、文字通りの一心同体であった。影は男の利になることを、してくれるという。
「それは例えば、人殺しだ」
商売の仇となる者を。
「あるいは、窃盗だ」
商売の助けとなる物を。
「昔から疑問に思ってはいたのだ。私の周りではよく事件が起きた。それも私の有利となる事件ばかり。十手持ちに疑われたこともあったよ。でも私は、私自身は無実だった。それを証明するたくさんの人がいた。だから私はすぐに疑いの目から外れた」
影は人とは違って、容赦がない。人の命というのがどういうものなのか、理解できないのだろう。
「……申し訳なくてなあ」
男は目頭を押さえながらそう言った。
初めて影が人を殺したのがいつなのか、今となってはもうわからない。でももしかしたら、とんでもなく昔から、童の頃からそうだったのではないか。己の人生は、この幸福の全ては、名も知らぬどこぞの誰かの、命を踏み潰して手に入れたものなのではないか。
だがしかし、証拠がない。
結局男は何もできずに、ただこうして、血塗られた幸福を噛みしめている。
「なるほど、それが悩みですか」
話を聞いたミツキが呟いた。そしてこう続けた。
「良ければ、その影、動かないようにしましょうか?」
「何だって?」
「影が動いてしまうのは、妖が憑いているからです。今は見当たりませんが……まあ、近くのどこぞにいるのでしょう」
「妖を祓えば、私の影はもう動かなくなるのか?」
「ええ」
「するとその妖は、どうなるのだ?」
「そうですね、消してしまうのは可哀想なので……どこか遠くにやるくらいが、妥当でしょうか」
それを聞いて、男は目を丸くした。そして言った。
「それは困る」
「……というと?」
男には、ミツキがなぜそんなわかりきったことを聞くのか、理解できなかった。
「私の店はまだまだ小さい。これからも大きくしたい」
己が死んだ後で、息子たちが食うに困ってはいけない。だから己の代で、できるだけ大きく立派な店にして、財産を蓄えねばならないのだ。
男は心底不思議そうに首を傾げ、逆にミツキに問うた。
「影が、妖がいなくなったら、私はこれからどうやって、邪魔な奴を殺したらいいんだい?」
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