第23話 金と青
足元がぬかるんでいた。一歩足を踏み出すたびに、湿った土が着物の裾を汚す。また乳母やに怒られてしまうな、と思いながらも、リオは薄く微笑みを浮かべた。この土は、堪え難い血の匂いと共に、セリナを連れて来てくれる。
「セリナ」
声をかけ、手を振る。川の流れのすぐそばで牛の皮を剥いでいた女が、はっとして振り返った。
「リオ! どうして、また来たの?」
「ひどいな、わざわざ君に会いに来たのに」
セリナは口では不平を言いながらも、その実目尻が嬉しそうに下がった。それを見てリオは一人満足する。
「切りがいいなら、休憩しないか? 握り飯、持ってきた」
セリナの目に迷いが生じる。都合が悪い時は、彼女ははっきり断るから、どうやら仕事の切りが悪いとかではないようだ。ならばとリオは遠慮なく彼女の手を握り、血の匂いの薄い風上へ引っ張っていく。
リオとセリナは、河原に並んで座り込んだ。二つ持ってきた握り飯のうちの片方をセリナに押しやると、セリナは少しの間迷っていたが、やがて躊躇いがちに手を伸ばした。
「……平気なの?」
「何が?」
リオは、本当は彼女が何を聞いているのか、わかっていた。わかっていたが、あえてそう聞いた。案の定、セリナは怒ったような目を向けた。
「私なんかに会っていて、ご両親は怒ってるでしょ!」
「別にそんなの、怒らせておけばいいよ」
「そうはいかないわ。だって、私は、私は……!」
リオはセリナを睨んだ。セリナはリオが怒っているのに気づくと、ギクリと肩を震わせ、黙る。すかさずリオが表情を笑顔に変えて、言葉を継いだ。
「君は、牛皮の細工職人。とても素晴らしい才能を持った、芸術家だ」
あっけらかんと笑うリオを見て、セリナの毒気は抜かれたらしい。肩を落として、彼女は力なく笑った。
「あなたくらいよ。そんな風に言ってくれるの」
「本当のことなのに」
「そう、ね」
それから二人はしばらくの間黙った。二人して、ただ飯を齧るだけ。やがて思い出したように、リオが「そういえばね」と口にする。袖の中にしまい込んだ、小さな布の人形を彼女に見せた。
「リオ! これ……」
セリナは口元に手を当て、それきり言葉を失った。代わりにリオが口を開く。
「すごいだろ? まだ、色々と歪ではあるけど」
「でも、だって、これじゃあ」
「ほら、綺麗な金の髪。君と同じだ」
リオはセリナの流れる金髪を撫でた。青の瞳が涙に滲んでいる。
「今は無理だけど、いつか瞳にはね、びいどろを使いたいと思ってるんだよ」
空のような青い瞳は、きっと美しく光るに違いない。確信を持ってリオは言った。
「ああ、そうだ。できれば君の作った牛皮もどこかに使いたいな。おれの作った人形を見た誰かが、この美しい革細工は誰の作品だろう、と思ってもらえるように」
「……それなら、まずあなたが、人形細工の職人として、大成しなきゃいけないわ」
「するさ。必ず」
リオは未完成の、拙い縫い糸だらけの人形を空に掲げた。
「見ててよ、セレナ。おれは人形で君を作るよ。とても美しい人形を。それを見た人が、もう二度と君の金の髪を、青い瞳を馬鹿にしないように」
ふわりと、風が吹いた。結い上げることさえできていないセレナの金の髪が、サラサラ揺れる。その美しさに束の間見惚れ、それから人形の金の髪を眺めた。
まだまだ修行が必要だな、と思った。セリナの美しさに追いつくには、今の技量では全く足元にも及ばないらしい。
*
暑い時分だった。藍染の着物を着た旅人が、通りかかった小さな流れに足を浸して涼を得ていると、流れの先で、黒い煙が上がるのを見た。旅人はしばしそれを見つめ、それから煙の方へと歩を進めた。
黒い煙の正体は火事ではなく、どうやら何か家を燃やしているらしかった。この日は風が吹いていたから、火の勢いは凄まじく、気を付けないと火の粉がこちらまで飛んでくる。しかし旅人は火の粉には頓着せず、家のすぐそばまで近づき、そこに落ちていた人形を拾い上げた。
それは変わった人形だった。黒いはずの頭部には金糸が使われており、どうやったのか、それがゆるやかな曲線を描いている。瞳には澄んだ空色のとんぼ玉が使われており、無造作に放置されたこの人形が、かなり高直な代物であろうことがうかがえる。
旅人は首を傾げた。人形の出来が悪いわけでもない。きちんと修行を積んだ、一人前の人形師の作品のはずだ。売れば相当な金になるであろうそれが、無造作に火に巻かれていることが信じられなかった。
「あ! あんた」
女の声が旅人に向けられた。そちらを向くと、恰幅の良い三十路ほどの女が目を釣り上げてこちらを睨んでいた。
「それをどうするつもり? まさか売ろうとか考えてるんじゃないでしょうね!」
女はそう言って人形を旅人の手から奪い取った。
「いや、そんなつもりでは」
「ふうん、そう? まあ、確かに、金に困ってるようには見えないね」
女は無遠慮に旅人をジロジロ見て、やがて納得した様子で腕を組んだ。
「悪かったね、いきなり怒鳴って」
「それは構わないけれど、それじゃあ、お詫びに少し教えてくれませんか? これ、何です? 今みなさんは、何をしているんですか?」
女は人形に目を落とし、それから小さく首を振った。
「この人形を見て、どう思う?」
「……とても綺麗な人形だと」
「そうだね、綺麗だ。この人形は、この辺りでも有名な人形師の作品なのさ」
「なぜ、それを焼いてるんです?」
女は悔しそうに握りこぶしを震わせた。声も同じく震えている。
「あいつは、差別主義の男だったのさ」
「差別?」
鸚鵡返しに問う旅人に、女は「ああそうさ」と頷いた。何でもこの辺りには、昔異人が流れ着いたことがあり、稀に、あの人形のように髪や目の色がおかしな人間が生まれるらしい。
そして異なる色をもって生まれた人間は、普通に村で暮らすことを許されない。河原者として蔑まれ、牛の皮を剥いで暮らすことを強制されるのだという。
「あの髪や目の色はとても目立つ。たしかにね、昔は神様がそれを厭って天罰が下るとか言われていたけれど、別に神様の天罰は、黒目黒髪にだって起こりうる。異人に限った話じゃない。
哀れじゃないか。髪や目の色が違っただけで、差別されるなんて」
だから女は、そうした者たちに、頭をすっぽりと覆えるような着物を拵えて、贈ったりしたそうだ。奇異な見目を隠せるように。
やがて女は村長の息子と結婚し、村の中で地位を得た。そして少しずつ少しずつ、村人たちに異人の差別をやめるよう、説得を続けたという。
「それは素晴らしいね」
旅人の合いの手に、女は初めて表情を綻ばせた。
「ありがとう。あんたは、柔軟な考え方ができるんだね。
あの男も、その一人だと思っていたのに」
人形師のその男は、異人の娘と仲が良かったそうだ。彼らへの差別の撤廃にも、身を粉にして働いてくれた。女にとっては大事な友人であり、同志であったという。
「そいつがね、先日病で死んだんだ」
遺品の整理のため、彼の作業場に足を踏み入れると、そこには目を疑う光景が広がっていたそうだ。
「それが、これさ」女は手の中の人形を握り潰した。「見てごらんよ。この髪と目の色。あいつは差別撤廃を叫んでおきながら、こんなものを作っていたんだ。あいつは腹の内で、異人を馬鹿にしていたんだ!」
そう吐き捨てると、女は握っていた人形を思い切り振りかぶり、燃え盛る火の中に投げ捨てた。あっという間に人形は炎に包まれ、黒く焦げていく。
「だから燃やしたのさ。あいつの作業場ごとね」
女はそれだけ言うと、旅人に背を向けて歩き始めた。
「どこへ?」
旅人の問いに、女はにこっと笑顔を見せた。
「ここにいても仕方ないし、家に戻るよ。そして、セレナに異人用の着物を作ってあげるんだ。きっと似合うに違いないよ。
あの子は髪と目さえ隠せば、器量好しの美人だからね」
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