第22話 或る正義の裏側で 後編

「はあっ、はあっ」

 ヤシロは運動が苦手ではない。普段であれば息も乱さずに走れるはずの短い距離を、足をもつらせ息も絶え絶えに走る。気づけば、慣れ親しんだ店の中まで来てしまっていた。この刻限だ、当然誰もいない。

 並んだ商品の中に、昔アカギ様と一緒に袋に詰めたことのある、懐かしい薬を見つけた。他に比べて安価なこれは、新人の練習用に使われることが多い。小僧とはいえそれなりに年季の入ったヤシロは、もうすっかりこれを作る機会は減ったのだ。その薬を一つ掴み取って握り潰すと、そのままそれを力任せに投げた。

 ヤシロはふらふら二歩、三歩と足を進め、そのままそこでしゃがみこんだ。今は何も並んでいない、小さな机に握りこぶしを叩きつけた。端からはみ出た木のささくれが、小指に赤い筋を残す。

(アカギ様……どうして)

 頭を抱えてうずくまる。アカギ様は、店を疎んでいたのか? 奉公人たちを皆殺しにしてしまおうと思うくらい?

(あの笑顔の裏側で、ずっとあたしたちを憎んでいたのかな。部屋からまともに出られないあの方は、外で働くあたしたちを、羨んでいたのかな)

 ヤシロはアカギ様が好きだった。だから、旦那様や若旦那に頼み込んで、菓子や薬をアカギ様のところに運び、雑談をさせてもらうことも多々あった。もしかしたらあの行為さえ、アカギ様を苦しめていたのだろうか。

 どれくらいそうしていただろうか。ふと腫れぼったい目を上げると、そこに男が立っているのが見えた。驚いて危うく声をあげそうになると、男は口元に人差し指を当て、「しー」と言った。

「まだ早いからね。奉公人たちを叩き起こしては、可哀想だろう」

「あ、あなたは、たしか」

 最近よくうちに来ている、旅の薬師ではなかったか。男は静かに微笑むと、「運が悪かったね」と、実に気の毒そうにそう言った。

「でも大丈夫。これは夢だ。君が見ている、ただの夢だよ。目が覚めれば元どおり。いつもの日常さ。さあ、だから安心してお休み」

 夢……? そんなばかな。これほど現実味を帯びた夢などあるものか。しかし男の声はヤシロの胸の内にずかずかと入り込み、横柄な態度で居座った。それから抗いがたいほどの強烈な睡魔が襲ってきて……。

 目を覚ますと、ヤシロは己の蒲団で横になっていた。まだ少し早いのか、相部屋の小僧はまだ夢の中だ。

(夢、だったのか?)

 だとしたらなんと罪深いこと。あのアカギ様が奉公人たちを殺そうとする夢を見るなど、失礼にもほどがある。両の手で頭を抱え込もうとして、右手に小さな痛みが走った。小さく舌打ちして痛んだ右の小指を見る。すると。

「えっ」

 そこには、木のささくれで引っかいたような、ミミズ腫れのような傷跡が残っていた。

 さあっと、血の気が引いていく。まさか。まさかまさかまさかまさか!

「夢じゃ、ない……?」

 まだ明け六つの鐘は鳴っていない。今ならまだ間に合うかもしれない。ヤシロは蒲団を跳ね除け飛び起きると、急ぎ店表へと向かった。

 誰もいない店の中、ヤシロは畳の上に這いつくばって、視線を地面すれすれの場所へ持っていった。

(確かこの辺りに……)

 もしあれが夢じゃないのなら、昨日放り投げた薬が落ちているはずだ。しばらくそうして探していると、やがて文机の下、わずかな隙間に落ちた薬の袋を見つけた。

 だから、つまり、これは……夢ではなかったのだ。

 ヤシロは猫のように飛び上がり、駆け出した。

(アカギ様……!)

 あの方はどれほどか苦しんだのだろう。どれほどか悩んだのだろう。精神を病んでしまうほどの苦しみがあったに違いない。ああ、どうしてあたしはそれに気づいてあげられなかったのか!

 アカギ様にはたくさんのものをもらった。返しきれない恩がある。そのお方が今、あまりの苦しみから道を踏み外そうとしている。

(させない。あたしが、アカギ様を罪人になど、絶対にさせない!)

 今ならまだ間に合う。誰も飲まなければいいのだ。井水に毒が紛れ込んでいると、伝えればいい。

 ヤシロが井戸のそばまでやってくると、ちょうど女中が井戸の水を汲んでいるところだった。よかった、ギリギリで間に合った!

「待ってください!」

 ヤシロが叫ぶと、驚いた様子で女中がこちらを振り返った。

「えっ、ヤシロさん?」

 戸惑い顔の女中の手から、桶を弾き飛ばす。「きゃっ」と悲鳴が響いた。訳も分からず怯えた目を向ける女中に心の中で謝りながら、ヤシロは声を張り上げた。

「飲まないでください! これは毒です!」

「ど、毒? え?」

 しかし女中は事もあろうに笑みを浮かべ、こう続けた。

「何を馬鹿なことを言ってるんですか、ヤシロさん。寝ぼけてるんですか?」

「ち、違うんです。寝てなんかいませんよ!」

「きっと疲れてるんですよ。少しお休みをもらったらどうですか?」

「どうして信じてくれないんです? あたしは見たんだ。この目で!」

「毒を入れる人を?」

「そ、それはっ。……そう、です。暗くてよく見えなかったですけど、誰かが井戸に何かを落とし入れるのを」

 女中は幼子をしつけるような、仕方のない相手を見るような眼差しをこちらに向けてくる。

「それを毒だと? それは早計ですよ。それに、この井戸に毒など絶対に入っていません」

「なんでそこまで」

「その証拠に、私、この水もう飲んじゃったんです」

「えっ」

 目を丸くするヤシロに、女中はぺろりと舌を出した。

「変な味はしませんでしたよ。そしてこの通り、私はピンピンしています」

「そんなばかな……」

「ほら、この水は大丈夫なんです。わかったら、どいてくださいね。早く朝餉の支度をしてしまわないと」

 呆然と立ったままのヤシロを押しのけ、女中は井戸の水を汲み直した。ヤシロの目がその動きを追う。そして女中が汲み上げた井水を、再び奪い取り、今度は己の喉に流し込んだ。

「ヤシロさんっ」

 冷たい水が喉を通り胃の腑に流れ込む。変な味はしない。毒薬がどれ程経ってから効果が出るのかはわからないが、なるほど確かに、女中が毒などないと断言しても仕方ない味だ。

「お願いがあります!」

 ヤシロは水をこれでもかと飲み込んで、それから女中に頭を下げた。乱暴に空にした桶から水が飛び散り、ヤシロの着物を濡らした。

「もう少し……せめて昼まで待ってください。あたしがそれまで生きていたら、その先はもう何も言いません。だから、昼までは、手間だとは思いますが、向こうの井戸を使ってください。お願いします。お願いします」

 ヤシロのその勢いに、顔を引きつらせた女中は気圧されたように頷いてくれた。


 まずヤシロは、遺書を書いた。己が死んだ後、アカギ様が再び非行に走らないとは限らない。それに、己が毒と知りつつ飲んだことを記しておかないと、アカギ様が罪に問われてしまうかもしれない。

(あの女中は、大丈夫だろうか)

 もしも彼女が死んでしまったら。彼女はヤシロとは違う。完全なる被害者だ。気づけばヤシロは、アカギ様の為に女中の無事を祈っていた。己の無情さに辟易する。

 筆を置き、水で大きく膨れた腹に手を当てる。水の飲みすぎで気持ち悪くはあるが、今のところ体調に変化はない。

(……苦しいかな)

 死ぬ前には、店から離れていた方がいいだろう。少なくともこの部屋か、可能であるなら店の外に出ていたい。人死にが出た薬種問屋など、縁起が悪くて仕方ない。

 本音を言えば、死ぬ前に、もう一度アカギ様に直接会いたかった。でも先日からアカギ様はずっと床に伏していて、小僧のヤシロは近づけない。それが唯一、心残りといえば心残りだ。

 外を見る。空が青くて綺麗だった。天気が良くて、暖かくて……。そう、死ぬにはいい日だ。

(後悔はない。そりゃあ、もう少し生きていたかったけど、でも)

 不思議なくらい、気分がすっきりしていた。

 それからヤシロはいつものように、仲間の小僧達と仕事に励んだ。この日はたくさん客が来た。店が繁盛するのはいいことだが、奉公人からしてみれば、忙しくてかなわない。

 ヤシロも時間に追われるようにして、業務に励んだ。そして気づけば……昼になっていた。

 昼を告げる鐘が鳴って、ヤシロは初めてそのことに気がついた。客がぐちゃぐちゃにしていった安物の薬の棚から顔を上げ、はっと胸を抑える。

(おかしいな……なんともない)

 朝餉を食べ損ねたせいで腹が減っているが、それだけだ。視線を感じて振り返ると、「ほらごらん」と言わんばかりに、女中が鼻を鳴らした。

 井水を飲んでから、かなり時間が経っている。時間的には、とうに毒は効いていなくてはならない。なのに何もない。量が少なかったということもないだろう。それを防ぐ為、腹がくちくなるまで水を飲んだのだ。

 とすれば、もはや考えられる可能性は一つしか残らないではないか。

(あたしは、本当に、夢を見ていたのか?)

 目眩がした。ぐらりと体が揺らぐ。

(あたしはたとえ夢の中でも、アカギ様を悪党に仕立て上げたのか?)

 挙げ句の果てにそれを信じ込んで、こんな茶番劇を披露したのだろうか。

(でも、待て。じゃああたしの小指の怪我は? それに落ちていた薬の袋は?)

 偶然だろうか? まさかそんな。でも、ヤシロが今生きていることが、あれが現ではなかったことの証明だ。小指の怪我も落ちていた袋も、とても低い可能性ではあるが、偶然起こり得る事象だ。

「……ロ、ヤシロ!」

 すっかり己の世界に入り浸っていたヤシロは、肩に強い刺激を感じて、ようやく旦那様がヤシロの目の前にいることに気がついた。

「ヤシロ、どうしたんだ? 具合でも悪いのかい?」

「あ、いえ、そういうわけでは……」

「だが、顔色が悪い。そういえば朝餉の時間にも出てこなかったそうじゃないか。大ごとになる前に、きちんと休みなさい」

 ああ、この親にしてこの子ありとはこのことか。なんと慈しみ深い。それなのに、己ときたら!

「旦那様……。その、あたし、あたしは……」

 声が震えた。申し訳なくて死にたくなった。そんなヤシロを気遣って、旦那様はヤシロを伴い店の奥に引っ込んだ。

 奉公人が滅多に入り込むことのない客間。そんな小綺麗な部屋に連れられ、しかしヤシロは断罪を待つ盗人の心地であった。唇を噛み締め、畳の目ばかりを睨みつけるヤシロに、旦那様が自ら茶を振舞ってくれた。

「っ! 旦那様、そんなことは、あたしがやりますから」

「おや、やっとこっちを見てくれたね」旦那様はヤシロの目を覗き込んだ。「何があったんだい。話してくれるね」

 旦那様の口調は優しかったが、その言葉には有無を言わさぬ力強さがあった。その上ヤシロにとって旦那様は、雇い主であると同時に命の恩人だ。思う以上にその言葉には抗いがたい。

 やがてヤシロは、ぽつぽつと己の見た夢を話した。恥ずかしくて申し訳なくて消え入りたかったが、旦那様はヤシロを批判することなくただ頷いて聞いていた。やがてヤシロが全てを話し終えると、旦那様はそっとヤシロの頭を撫でた。

「それは、辛かったね。一人でアカギを救おうとしてくれたんだろう、ありがとう。父として、これほど嬉しいことはないよ」

「……旦那様。どうかあたしに、暇をくれませんか」

 ヤシロの頭の上でゆっくりと動いていた手が止まった。

「どうして?」

「申し訳なくて……もうアカギ様に顔向けできません」

「悪いけど、それはダメだ」

「なぜですか」

「君ほどの人材を手放すなんて、そんなバカなことはしないさ。これでも私は、この店の主人だからね」

「…………」

「今日はもう、ゆっくり休みなさい。その代わり、明日からしっかり働いてもらうよ。いいね」

「……はい」

 たかが奉公人のヤシロには、そう答えるしかなかった。


 ふらふらとした足取りで、大店の立ち並ぶ大通りを歩く。どこに向かうでもない。ただ、店に居づらく、他に行く当てもなかった。そのうちに腹が減っていたことを思い出して、蕎麦の振売を呼び止めた。

 不思議なことに味がしない蕎麦をすすり、それから空を見上げた。時の鐘が時刻を告げる。こんな時間に外をふらふらするなど、いつ以来だったか。

「この先、どうしようかな」

「蕎麦を食べたのだから、次は甘味でもどうかな」

 驚いて振り返ると、そこにはなんと、アカギ様がいた。

「えっ、なんっ、どうして? だめじゃないですか、寝てないと!」

 慌てふためくヤシロに爽やかな笑顔を向けて、「大丈夫大丈夫」とアカギ様が安請け合いをする。

「見つかったら大目玉ですよ!」

「セイジには話してあるから、平気だってば」

「セイジ様が許可したんですか!?」

 にわかには信じがたい。けど、アカギ様が嘘を吐くところなど見たことがなかった。

 アカギ様は頬杖をついて、ヤシロの顔を覗き込む。

「私が、井戸に毒を投げ込む夢を見たんだって?」

「そっ、それは!」

 もうアカギ様の耳に入っていたのか! ヤシロが手をついて謝ろうとすると、予想外の言葉が降ってきて、その動きがピタリと止まった。

「まさか誰ぞに見られていたとは。私たちも、詰めが甘いねえ。そのせいで、お前には随分苦労をかけたみたいだ。本当にごめんよ」

 代わりにアカギ様が頭を下げた。

「あ、アカギ様? それは一体、どういう?」

 それではまるで、アカギ様が本当に毒を投げ込んだみたいだ。戸惑うヤシロに、アカギ様は頭を下げたまま、「言葉通りの意味さ。私はあの夜、井戸に毒を投げ込んだ」と言った。

 あまりの告白にヤシロが言葉を返せないでいると、アカギ様はおもむろに立ち上がって、「場所を変えようか」と言った。会話の内容を考えれば、人の往来の多いこんな通りでするべきではない。

 アカギ様はヤシロを伴って、慣れ親しんだ通りを迷いなく進んだ。やがてヤシロは、アカギ様が向かう場所がどこだか、気が付いた。

(お稲荷様に向かってるのか)

 そこはヤシロがアカギ様に出会った、あのお稲荷様だ。

 案の定、アカギ様はお稲荷様に向かい、小さなお社にむけて手を合わせた。ヤシロもアカギ様に倣って手を合わせた。

「実はね、私には、妖が憑いていたらしいんだよ」

 やがてアカギ様がそう切り出した。

「私はずっと、夢のうちの出来事だとばかり思ってたんだけど、その妖は、私の夢の中に住み着いて、体を奪い取る機会を伺っていたらしくてさ」

 己の弱さに付け込まれ、とうとうあの夜、体を奪われてしまったのだという。

「その妖は、ほら、旅の薬師様がいただろう? 彼が祓ってくれたんだけどね」

 井戸に投げ込まれた毒も、その男が取り除いてくれたそうだ。

「か、彼は一体何者なんですか?」

「さあ?」

 アカギ様はお稲荷様に背を向け、再びヤシロに頭を下げた。

「私とセイジの独断で、このことは内密にすることになった。うちは薬種問屋だ。どんな小さな事件も、店にとって致命的な悪評に繋がりかねない。そのせいで、まさかお前に迷惑をかけることになるとは思わなかったけど、それでも私たちの判断がお前を苦しめたことに違いはない」

 そしてそれを知ってなお、アカギ様もセイジ様も、真実を明るみにすることはできないのだという。

「私にとっての正義は、店を守ることだ。だから全てを話して、お前を救ってやることができない。ごめんね。本当にごめん。私たちの正義のために、お前を犠牲にしてしまった。

 お前は何も間違ってない。夢も現も、区別がついていなかったのは私の方なんだ。

 だから、どうか、店を出るというのは、考え直してくれないかな」

 なんだ、そうか。そうだったのか。ああ、良かった。あたしはアカギ様を悪党にしたんじゃなかった。アカギ様は悪党なんかじゃなかった!

「頭を上げてください、アカギ様。

 アカギ様がそう仰ってくれるなら、あたしは、アカギ様のいるこの店で、精一杯努めさせてもらいますから」

 ヤシロがそう言うと、アカギ様はなぜか目をパチパチと瞬かせた。

「信じてくれるの?」

「アカギ様が、嘘をつくとは思えませんから」

 妖に憑かれたなぞ、普通に考えれば一笑に付されて終いだろうが、アカギ様が奉公人を殺そうとしたと考えるよりは、幾分現実味がある気がした。

「ああ……。私は本当に、すばらしい奉公人に恵まれていたんだね。

 でもね、ヤシロ。悪いけど私は、お前の側にいることはできない。なるべく早くに店を出るつもりなんだよ」

「えっ。な、なぜですか」

「そりゃあ、私は皆にあれだけ迷惑をかけたんだから。お咎めなしってわけには、いかないだろう?」

「でも、それは妖のせいで」

「それにね」多分意図的にヤシロの言葉を遮って、アカギ様は続けた。「あの店はセイジのものだ。兄の私がいつまでも居座っては、よくない。だからおとっつぁんに、どこか他の店に奉公に出してもらうか、修行させてもらえないか頼もうかと思ってね」

 まあそれも、己がもう健康であると証明した後になるが。そう言ってアカギ様は頭を掻いた。

「それは、難儀しそうですね」

 ヤシロは苦笑した。アカギ様がどう考えようと、これだけの大店の長男がよその店へ行くとなれば、かなり大ごとになる。話を聞いていると、下っ端として働きに出ようとしているみたいだが、おそらくどこぞの家付き娘との縁談を持ってくるのが、最もありそうな話だ。

「アカギ様、あたしに、ほんの少しでも申し訳ないと思ってくれているのなら、一つお願いがございます」

「……何かな」

 小狡い頼み方だったと思う。アカギ様の表情に、ほんの少しの警戒が浮かんだ。

「アカギ様がどこかよその店に行く時、そのときはあたしも、お供させてください」

 警戒にこわばったアカギ様の目が、まん丸くなった。

「それは……とても苦労するよ?」

「問題ありません。あたしの正義は、アカギ様を支えることです。アカギ様は店を守る。あたしはそのアカギ様を守る」

 己の正義のために生きられるのならば、苦労など何てことはないだろう。

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