第22話 或る正義の裏側で 前編

 ヤシロが奉公する薬種問屋の若旦那、セイジ様には兄がいる。それだけを聞くと勘違いする者が多いのだが、セイジ様の兄、アカギ様は、決して放蕩息子だとか、出来が悪いだとかの理由で後継から外されたわけではない。

 ただ、ひどく病弱であった。

 小僧のヤシロが庭を掃いていると、お店の奥、主人の家族が暮らす空間の離れから、長く辛そうな咳が聞こえてくることがままある。

 この薬種問屋はそれなりに大きな構えの立派な店だが、だからといって奉公人たちが無駄にできる時など多くはない。アカギ様に時間を取られれば取られるだけ、仕事の進みが遅くなる。店の主人夫婦もセイジ様も、そのことは承知しているようで、アカギ様の世話を奉公人に任せることはほとんどなかった。だから当然、家の奥の離れに引きこもるアカギ様に会う機会など滅多にない。

 そもそもただの小僧が、店の主人家族が暮らす奥に入り込むことが稀だ。

 つい先日、入ったばかりの後輩が道に迷って、アカギ様の離れの側まで行ってしまったことがあった。その時でさえ、アカギ様は部屋の障子を固く閉ざし、日中だというのに蒲団に伏していたそうだ。

(アカギ様も、お可哀想に)

 もう何年もお店に勤めているヤシロは、何度かアカギ様を見かけたことがある。アカギ様はお身体が弱いにも関わらず、下っ端がやるような雑事や水仕事までやろうとして、手代や番頭に叱られていた。

「だって、私には技術がないんだから、このくらいしかできないんだよ?」と言って頬を膨らませる様子は、年上の男であるにも関わらず、ヤシロから見ても愛嬌があった。

 もしも健康であったなら。こんなこと、たかが小僧に言われるまでもないだろうが、ヤシロはそう思うことがあった。セイジ様に不満があるわけではないが、アカギ様の言葉の端々に感じる聡明さは、このお店にとって宝となったであろうに。

 アカギ様も、それからもちろんセイジ様も、涼やかな見目、お優しい心根、優れた教養と、ヤシロから見れば全てを持ったお人だった。しかしどれほど優れた人物でも、病を持っているかどうか、ただそれだけの差で、こうも人生が変わってしまう。それが無性に悲しかった。

 アカギ様は小僧にも優しかった。失敗をしても笑って許してくださる。もちろん責任は取らねばならないが、「大丈夫だよ」と言って頭を撫でてくれたアカギ様の笑顔は今でも忘れられない。


 ヤシロを拾ってくれたのは、アカギ様だった。

 ここは栄えた町だが、だからといって誰もかれもが安寧に暮らせるほど甘い場所ではない。ヤシロが送った幼少期は、まさにこの町の暗い部分を体現したようなものだったらしい。

 らしい、というのは他でもない。幼い頃、どこでどうしていたのか、実はもう覚えていないのだ。己の記憶の最も古い部分は、ズキズキと痛む頭、ぬるっとした液体に覆われた頭部。それに、果てしない眠気。

 息をすることさえ億劫で、眠らせてくれない誰かの声がうっとおしかった。もう眠らせてくれ。そう言おうとして目をうっすら開けると、そこには己よりも少しばかり年上の男の子がいた。彼はヤシロが目を開けたのに気づくと、目を皿のように見開いた。

「おとっつぁん! 生き返った!」

 男の子の声が遠ざかる。それを見届けると、ああ、ようやく静かになったと安堵して、ヤシロは再び目を瞑った。

 そして次に目を覚ました時、今度はひどい頭痛と吐き気に叫び声をあげそうになった。つい先刻まで感じていたはずの眠気はもうない。というか、眠ることなど到底できそうにないくらい、全身が痛い。

「あ、目が覚めた?」

 頭上から降ってきた声に、苦労して目を向けると、男の子がニコニコしながら手を振っているのが見えた。

「だ、れ」

 やっとの事でそれだけ言うと、男の子はまたしても微笑んだ。

「私はアカギ。拾った時はもうダメかと思ったけど、生き返ったね。本当に良かった。大丈夫、辛かったね。さあ、もう一眠りしなよ。それともご飯にするかい?」

 眠ることはできそうになかったが、物を口に入れても、吐き出してしまいそうなくらい気分が悪かった。たどたどしい口調でそれを告げると、アカギと名乗った男の子は、実に気の毒そうに肩をすくめた。

「そっか、ごめんよ。たしかにそうだね。気が利かなかった」

 幼き日のアカギ様は、ヤシロの頭を撫でようと手を伸ばしかけ、その手を止めた。きっとヤシロの頭に晒しが巻かれていたからだろう。

 ヤシロはその時初めて、アカギ様の様子をまじまじと見た。そして着ているものから、彼が商人の家の子で、そしてたいそうな金持ちであると知った。

「あたし、は……金子を、もってない。だから、あたしを助けても、一文にも、ならない」

 それを言わねばならなかった。彼が商人なら、助けた相手から礼の金子くらい要求するだろう。しかしヤシロは金などまったく持っていなかった。薬代と言うのは総じて高い。もしヤシロの怪我の手当てに使った薬代を要求されたら、体を売ったとしても足りないだろう。

 しかしアカギ様はあっさりと笑った。

「何言ってるの。うちは薬種問屋だよ。薬には困ってないから、大丈夫。それにその状態の君を見て、金を持っていると思うほど、馬鹿でもないよ」

 己はそんなに見窄らしい格好だっただろうか。恥ずかしくて、顔が火照るのを感じた。

「君、名前は?」

 問われて、答えようとして、ヤシロは言葉に詰まった。

「どうしたの?」

「あたし……、あたしは」

 名前が、わからない。

 そればかりではない。己がどこで生まれて、どこで育って、どうしてこんな怪我を負ったのかも、思い出せない。両親は? いるはずだ。己は人間であるのだから、誰かから生まれたはずなのだ。でもその顔も、その存在さえも、思い出せない。

 戸惑うヤシロに、アカギ様は明るい声を向けた。

「じゃあ、ひとまず君のことはヤシロと呼ぼう。お稲荷様のお社の前で倒れていたからだよ。君はきっと神仏のご加護で助かったに違いないよ。きっとそうだ。だからその縁起の良い名で呼んでいれば、そのうちあっさりと、全て思い出すはずさ」

 不思議と、不安で仕方なかったはずの心に、温かいさざ波が立つのを感じた。アカギ様がそう言うのなら、なんとなく、本当に大丈夫なのではないかと思えたのだ。


 それからヤシロはアカギ様の看病のおかげで、すっかり良くなった。アカギ様の見立てのように、記憶があっさり戻るということはなかったが、それでも構わないと思っていた。両親なんかいらない。アカギ様がいてくれればそれでよかった。はじめのうちは、何度も生意気なことを言った。それでもアカギ様は、聞かん坊をなだめるように、優しく微笑んでくれたのだ。

 数年が経つと、ヤシロはアカギ様の父の店に、奉公させてもらえることになった。その頃になると、アカギ様とヤシロは立場が逆転していた。寝付くアカギ様に食べやすい甘味を運ぶのがヤシロの役目だった。薬は流石に高価だから、たかが小僧のヤシロには触らせてもらえず、弟のセイジ様が運んでいたのだ。

「なんだか懐かしいね。もっとも、あの時とは逆だけどさ。

 ……ああ、私も早く良くなりたいよ。ねえ、ヤシロ。私もお稲荷様にお参りに行こうかな。きっとご利益があるよね。なんたって、君を救ってくれたお稲荷様なんだもの」

 そう言って寂しそうに蒲団を被るアカギ様を見るのは、辛くて仕方なかった。

 ヤシロはセイジ様と一緒に、何度もお稲荷様に足を運んだ。病がちで外に出られないアカギ様の代わりだ。

 しかし憎たらしい神様は、待てども待てどもアカギ様に救いの手を差し伸べてはくれなかった。そしてとうとう、アカギ様は十九になった。ヤシロもそろそろ、小僧から手代に出世できるだろう。

 それでもまだ、アカギ様の病は治る気配がなかった。


 ある晩のこと。ヤシロは尿意に目を覚ました。寝ぼけ眼をこすりながら起き上がり、相部屋の友人を起こさぬよう、そっと部屋を出た。その帰り、井戸のそばに男が佇んでいるのを見た。

(あれは……アカギ様?)

 珍しいこともあるものだ。アカギ様は基本的に日がな一日寝込んでいて、間違っても夜気の冷たいこんな刻限に起き出すことなどしない。弟であるセイジ様に見つかったら大目玉だ。

 しかしアカギ様の足取りは、不自然なほど力強かった。まるで病になど縁がないかのようなその様子に、ヤシロは一人首を傾げた。

 ヤシロは身を低くして、こっそりアカギの後をつけた。そして耳をそばだてると、低い声でアカギ様が笑うのを聞いた。まるで悪鬼のような、おぞましい笑い声だった。

「ああ。長かった。これまでおよそ十二年。だが、ようやく手に入れた」

 アカギ様はそう言って懐に手を伸ばす。その袖の中には、何やら黒い玉が入っていた。

 ヤシロはアカギ様に見つからないように、そっと物陰から黒っぽい玉を覗いた。

(あれは……なんだ?)

 遠くてよくわからない。月明かりでは色で諸々を判断することも難しい。

(うちで使ってるネズミ捕り薬に似ている気もするけど、そんなもの、アカギ様が持っていたところで使い道がないしなあ)

 そう思った矢先のことだった。アカギ様が黒い玉を井戸の中に落として、抑えきれないといった様子で哄笑を上げた。

「これで明日、このお店に勤めている人間は、みんな死ぬ。セイジも両親も乳母やも番頭も手代も小僧も女中も皆みんなみんなみんな!」

 耳を疑った。まさか本当に、毒?

 信じられず、己で己の頰をつねった。痛みを感じる。目を覚まさない。再び悪辣な笑い声をあげるアカギ様を見た。演技には見えなかった。

 ヤシロはその後、逃げるようにその場を後にした。

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