第21話 或る正義の話 後編
そして『アカギ』は目を覚ました。久方ぶりの肉の感触。痛くて、鋭くて、この上なく愛おしい。五感で感じる全ての刺激が今の『アカギ』には強すぎて、薄い雲の向こうから零れ落ちる満月の明かりさえ眩しく感じられた。
「ああ。長かった。これまでおよそ十四年。だが、ようやく手に入れた」
あとは、本分をなすだけだ。『アカギ』は懐に手を伸ばす。すると先程まではなかったはずの黒い丸薬が一つ、その手に握られていた。
『アカギ』は迷うことなく敷地を進む。夢の中にしかいられなかったから、井戸がどこにあるのかなど知る由もなかったが、体に蓄積された習慣が、井戸に向かいたいと思うだけで勝手に反応する。
それほどの時もかからずに、『アカギ』は井戸の側にいた。
「ふふ……」
自然と、笑みがこぼれた。あとは、これを落とすだけだ。
ぽちゃん。小さな音を立て、石見銀山の毒薬は、井水に混ざった。
「あはははははっ!」
笑いが止まらない。これで明日、このお店に勤めている人間は、みんな死ぬ。セイジも両親も乳母やも番頭も手代も小僧も女中も皆みんなみんなみんな!
「兄さん?」
声をかけられて、『アカギ』は弾かれたように振り返った。厠にでも行ってきたのだろうか、そこには夜着のままのセイジが立っていた。
「ダメじゃないか、こんな夜中に起きだして。また咳でも出たらどうするの」
これは面白いことになった。そう思った『アカギ』は少しの間だけ、アカギの意識を呼び起こしてやることにした。アカギは唐突に視界がひらけたせいか、二、三度瞬きして、それからセイジを見て目を見開いた。
「セイジ? どうしてこんなところに」
「それはこっちの台詞だよ。さあ兄さん、部屋に戻ろう。また体調崩すよ」
セイジはアカギの腕を取って部屋に戻そうとする。でもアカギは動かない。先程まで『アカギ』が身体中に満たしていた憎しみと殺意が、今もなおアカギを蝕んでいるせいだ。
「どうしたの、兄さん」
力強いアカギの抵抗に、セイジは目を見張った。アカギは弱々しく、いつもなら健康なセイジに逆らうなどできるはずがなかった。
「もういいよ、セイジ」
「え?」
「もういいんだよ!」
アカギはセイジの腕を振り払った。
「いいじゃないか。放っておいてくれよ。私なんて、何の役にも立たないんだから。私は金ばっかり浪費して、お前に苦労ばっかりかけて、お前だって……私がいない方がいいだろう」
「な、何を言って」
「誤魔化さなくていいよ。私だって、自分に価値がないことくらい理解しているんだから」
「兄さん……。歯、食いしばって」
「えっ」
セイジは大きく振りかぶった。状況を理解できないうちに、セイジが振りかぶった拳をアカギに向けて突き出した。嘘みたいに綺麗な弧を描き、アカギは地面に転がった。左頬がジンジンと痛んで、それから己が殴られたのだと理解した。
「そんな馬鹿なこと考えてたの、兄さん」
「せ、セイジ?」
アカギはもうずっと、喧嘩なんかしていなかった。たった五つの頃から床に伏しっぱなしなのだ。当然殴られるのも初めてか、そうでなくとも十数年振りのことだ。
初めての経験に、頭がついてこない。セイジは頬を抑えてうずくまるアカギに手を差し出した。
「私が、そんなくだらない理由で、兄さんを邪魔者扱いすると、本当に思ったの? だとしたら悲しいよ。私は、兄さんにちっとも信頼されてなかったんだね」
まるで本当に悲しむかのように、セイジの手は小刻みに揺れていた。
「信頼? できないよ。できるわけない。だって、お前は……私を疎んでいるんだろう? 祝言に、私を招きたくないと思うくらいには」
その言葉を聞いて、セイジの目が大きく開かれた。
「なんだ、聞いてたの。もしかして兄さん、それで拗ねちゃったの?」
それからセイジは大げさに笑った。目の端に涙をにじませ、存分に笑ってからこう言った。
「違うよ、兄さん。たしかに私は、兄さんに席は必要ないと、おとっつぁんに言ったよ。でもね、それは祝言が夜だから、兄さんには、起きてるのは辛いだろうと思ったからなんだ。
ああもう、内緒にしたかったんだけどなあ。
……乳母やに聞いてごらんよ。翌日の昼に、兄さんの部屋でもう一度、小さな祝言を挙げる準備を、しているはずだよ」
二度、三度。瞬きをしてセイジの言葉を咀嚼する。
「え? じゃあ、えっと、それじゃあ。えっ?」
「私の祝言に、兄さんがいなくてどうするのさ」
「セイジ……」
ぽかんと口を開け、弟を見る。それから安堵と情けなさに肩を落とし、セイジの手を握ろうとしたその時。
「兄さんっ」
アカギの体が糸を失った操り人形のように崩れ落ちた。それから不自然な関節の動かし方で、ゆっくりと起き上がる『アカギ』。
「ああもう、何だよ。せっかく面白いものが見れるかと思ったのに、めでたしめでたしってことかい?」
「お前……誰だ?」
その言葉に、『アカギ』は微笑んでみせた。
「誰って、兄さんじゃないか。お前の兄さんだよ、セイジ」
「違う! お前は兄さんじゃない!」
「違わない。あたしは『アカギ』さ。少なくともこの体は、間違いなくお前の兄さんのものさ」
「妖が……兄さんに、取り憑いたのか」
その言葉を否定せず、『アカギ』はニヤッと笑った。
「妖、なんて一緒くたにしないでほしいね。あたしは夢魔。実体のある軟弱な妖とは一線を画す存在さ。
さあどいておくれ、セイジ。あたしはもう疲れたから眠るよ。それとも何だい、お前は大事な兄さんの体を傷つけるのかい? 確かに今、アカギの体が死んでしまえば、あたしも一緒に逝っちまうだろうね。けど、その時はアカギも一緒さ」
*****
何てことをしてくれたんだ!
老婆に向かってアカギは叫んだ。このままでは、このまま朝を迎えてしまえば、大事な店の者が皆死ぬ。しかし当の老婆は面倒臭そうにこちらを一瞥したきり、つまらなさそうに頬杖をついた。
「今度の宿主はハズレだったね。前の男は良かったよ。あいつはあたしが死をばらまくのを、面白がってくれたのに。
アカギ、どうしてわからないんだい? 気に入らない人間が死ぬんだ。スカッとするだろう?」
気に入らない人間? 私はこの店の人間を気に入らないなどと、思ったことはない!
「くだらない嘘をつくね」
老婆はにやにやといやらしい笑みを浮かべた。
「もし本当にそう思っているのなら、あたしがお前の体を奪うことなどできなかったはずだよ。あたしが主導権を握った時点で、お前は少なくとも誰かを強く恨んだんだ。自分に嘘をつくのは辛いだろう。認めてしまいなよ」
そんな、私は……。
*****
くいと服の裾を引かれ、『アカギ』は立ち止まった。肩越しに振り返ると、セイジがうつむいている。
「まだ何か? 体の弱い兄さんに、あまり夜更かしさせないでおくれよ」
セイジが拳を突き出した。一瞬警戒して体がこわばる。まだ『アカギ』は体とうまく馴染んでいない。殴り合いではセイジに勝てない。
しかしセイジは殴ろうとしたわけではなかった。その手の中には小さな粉薬が握られている。
「これを、届けに来たんだ。前に話したろう? 腕のいい旅の薬師から、色々と教わってるって。その人に相談して私が調合した薬なんだ。兄さんの体調が良くなるように。
夜中だったけど、兄さんは日中に寝込んでいるせいで夜は起きてることも多いから、早く兄さんに飲んで欲しくて」
「……飲めって?」
セイジは無言で頷いた。どうやらこの男は何か勘違いをしているらしい。アカギの体調がずっと悪かったのは、『アカギ』がそう仕向けていたからだ。だがまあ、セイジが兄に毒など飲ませるはずもない。毒にも薬にもならないのなら、このくらい飲んでやっても構わないだろう。
紙に包まれた粉を、さらさらと喉に流し込む。水がないから飲みにくくて仕方ないが、井水を飲むわけにもいかない。何度か咳き込みながら、しかし薬にはたいそう縁のある十余年だったため、なんとか薬は喉を通った。
そして喉を通った途端、胸のあたりが焼けた火箸でつつかれたように苦しくなった。
「セイジっ、貴様、何を飲ませた!?」
息も絶え絶えに叫ぶ。胸をかきむしる。苦しさは募るばかりで、全身から力が抜けていく。とうとう立っていられなくなって、地面に崩れ落ちた。胃の中のものを吐き出そうとするが、もともと少食のアカギは胃の中さえ空っぽで、出てくるのは唾液ばかりだ。
「さっき言ったでしょ。薬だよ」
「薬……? そんなバカな話があるか! ただの人の薬で、あたしをここまで苦しめられるはずがない。いったいどこで手に入れた」
「私が作り方を教えたんだよ」
いつの間にか声が一つ増えていた。声の主を仰ぐと、そこにはまだ若い男が立っていた。その姿はアカギの記憶にはない。店の者ではなかろう。話から察するに、旅の薬師とはこの男か。
満月の下、男が微笑んだ。整った顔が優しげに歪むが、それはあまりに冷徹な笑みであった。男の細い腕が藍染の着物の懐を探り、人の子ではおよそ手に入らないであろう貴重な生薬を探り出す。
「材料も私が提供した。その様子を見るに、よく効いたようだね」
男はにこにこと笑いながら、『アカギ』の側にしゃがみこんだ。両手で頬杖をつくその様は、この年の男のする仕草ではないと思ったが、美しい容姿のせいか違和感がない。
しかし『アカギ』は確かに見た。男が目を細める直前、その双眸が剣呑に輝いたのを。
「ずいぶんとまあ、好き勝手したみたいじゃないか。おまけに人の子の夢の内に隠れるものだから、探しにくくて仕方なかったよ。私が直接近づけば、お前さんは警戒するだろうしねえ」
「ひっ」
男の目を見て、その正体に気付いた。勝ち目がない。なんとしても逃げなくては。
しかし『アカギ』が体を動かそうとしても、なぜだかピクリとも動けない。
「私は必ずしも人の子の味方をするわけじゃあないけれど、お前さんは少しやりすぎたね。からかう相手は選んだほうがいいよ。
まあ私も命まで取ろうとは思わないからさ。ちょっと反省しなさい」
男はそれからアカギを見た。
「ねえ、お前さん。お前さんはこの先、どうしたい? 夢魔がお前さんから離れた後のことさ。セイジさんから、お前さんが健康になりたいと望んでいることは聞いているがね。
辛いと思うよ。夢魔がお前さんから離れて健康になったとしても、さすがに長男だからと言って、今更後継を変えることは、この店の主人もしないだろう。
この店はセイジさんが継ぐ。お前さんはもしかしたら今まで以上に、この店では居場所を失うかもしれないね。だから選ぶといい。病弱なまま店に残るか、健康になって新しい人生を歩むか。
一応言っておくけれど、後者は決して楽な道ではないよ。お前さんはこれまで、病と闘うばかりで、商いについて明るいとはとても言えないんだから」
それでもお前さんは、健康になりたいと思うかい?
その言葉は『アカギ』に向けられたものではなかった。
今この体は『アカギ』のものだ。そのはずなのに、『アカギ』の意識の外で、口が動いた。
「……思うよ。辛くても苦しくても、それは私が必死に生きた証だから」
「そうかい」
男はそう言って、逃げることのできない『アカギ』へと手を伸ばした。
「なんだか兄さんがてきぱき動いていると、違和感があるね」
「ひどいな」
口ではそう言ったが、己でもそうだと思う。アカギがあまりに元気に動き回るものだから、両親や番頭が目を丸くしていた。そしてとうとう乳母やから、「無理はしないでくださいまし」と、部屋に押し込まれてしまったのだ。
今アカギは、慣れ親しんだ蒲団に潜っているのも辛くって、縁側に腰掛けのんびりと茶をすすっているのである。
「婚礼の支度は、いいの? こんなところで油を売っていて大丈夫?」
「平気だよ。本番は大忙しなんだから、少しくらいさぼっていたってバチは当たらないよ」
主役の一人であるセイジは平然とそう言ってのけ、己の分の茶を淹れた。
「できれば、ミツキさんにも出て欲しかったんだけどなあ」
「旅立つお人を引き止めるわけにもいかないだろう」
「でも、あと一日くらいさ。……びっくりするくらい、お世話になったのだし」
「それは、まあね」
あの後ミツキと名乗った旅の薬師は、アカギの中から夢魔を取り出した。それからアカギの内に巣食っていた病魔も、きれいさっぱり取り払い、さらには井水の毒すら浄化してみせた。
本人は「お前さんの病は夢魔のせいだから、癒すのはそう難しいことじゃないよ。井水の方も、今ならまだ毒が溶けきっていないし」と言っていたが、彼とは難しいの概念が違うのだと思うより他なかった。
「ねえセイジ。ミツキさんって、いったい何者なんだい?」
「旅の薬師としか聞いていなかったけれど……」
セイジは困ったように顔を曇らせ、それからぽんと手を打った。
「もしかして、お狐様の御使いかな」
「え?」
「いやね、私実は、兄さんを助けてくださいって、近くのお稲荷様によく行っていたんだよ」
アカギは目を丸くした。そんなこと、ちっとも知らなかった。
「まさか、御百度参り? セイジ、お前わざわざそんなことまで」
「だって兄さんは自分では行けないじゃないか。だから弟の私が代わりをしたまでだよ。だからもしかしたら、あのお人は神様が遣わしてくださったのかもしれないね」
「だとしたら、セイジは私の命の恩人だね」
大げさだなあと頬を掻くセイジ。その時店表の方から、「若旦那ぁっ」と情けない声が響いてきた。
「おや、お呼びのようだよ、セイジ。いったい何があったのかな」
なんとなく聞くと、セイジは困ったように肩を落とした。
「小僧が一人ね、頭がおかしくなったとか何とか……」
「何だい、それ?」
「さあ、よくわからない」
何でも夢と現がわからなくなったとか、おかしなことを口走っているとか……。セイジもしっかり把握しているわけではないようだ。まあ彼は今日とても忙しいから無理もないだろう。
「よし、じゃあそっちは私が引き受けよう」
アカギはぬるくなった茶を一気に飲み干すと、すっくと立ち上がった。
「いいの?」
「小僧たちは、来たのが私では不安かもしれないけどね。そう言って逃げていては、せっかく健康になれたのに意味がないじゃないか」
「そっか。そうだね。……兄さんは強いね」
強い? 強い、か。
「そう言ってくれるのはセイジくらいだよ」
己がもっと強ければ、夢魔に魅入られることなどなかったろうに。でも、だからこそ。
「そう言ってくれるセイジのためにも、私はもっと、強くならなくてはね」
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