第21話 或る正義の話 前編
*****
「正義は、強くなくてはならない。だからお前も、強くおなり」
どうして? と聞くと、老婆はふんわりと微笑んだ。
「それはね、強大な悪に立ち向かうためさ」
勝てっこないよ。
どれほど体や精神を鍛え強くなれたとて、アカギの心の臓は、か細い鼓動しか刻まない。なまじ腕力があったとしても、振るうだけの呼吸がない。
そう言って頰を膨らませるアカギの頭を、老婆は優しく撫でた。
「だから、いいんじゃないか。お前は誰より、人の痛みを知っている」
優しくありなさい。そして力をつけなさい、アカギ。いつかきっと、お前の正義を振るう時が来る。その時に後悔しないように、お前はきっと、強くなりなさい。
*****
「また寝付いたの?」
夢の外から降って沸いた声に、アカギの意識は引きずり上げられた。途端、息が苦しくなる。
夢の内では、アカギは健康な子供だった。皆と同じように遊び、外を走り回る。現実では冷水に触れただけで、風邪を拾ってしまう己だが、夢の中では泳ぐことだってできた。夢の海を求め、釣り上げられた魚のように、己の喉から血を吐くばかりの咳が出る。
これには声をかけた本人もたいそう驚いて、「大丈夫? ごめんね」と声をかけつつ、背中をさすってくれた。
大丈夫だよ。大丈夫だから、そんな顔をしないでおくれ。そう言ってやりたいが、言葉を発しようとすると、また空咳が止まらなくなる。仕方なしに手を振って、身振りでそれを伝えようとする。
「辛いの? 苦しいのね? 待ってて、すぐに誰かを呼んでくるから」
アカギの身振りを誤って解釈し、女が必死にアカギを分厚い蒲団の中へ押しやった。
女の名は、カナという。向かいの通りの大店、菓子司赤坂屋の娘で、少しばかりおきゃんなところもあるが、気の優しい可愛らしい娘である。
年は十四。日がな一日寝付いてばかりの己より、ずいぶんとしっかりしているのに、アカギより五つも年下だった。
ぐっと険しい顔を作って、腰を浮かしかけたカナは、しかしすぐに表情を緩めた。心なしか、声にうっとりと逆上せたような調子が混じる。
「ああ、セイジさん。いいところに」
目だけをそちらに向けると、そこにはアカギの二つ年下の弟が、薬湯を抱えて立っていた。
セイジはアカギの発作にも慣れたもので、取り乱す様子さえなく、病弱な兄を助け起こした。
「兄さん、ほら、飲んで。苦くて飲みにくいだろうけれど、頑張って」
セイジの言葉通り、薬湯は吐き出したくなるほど苦かった。けれど、アカギは懸命に薬湯を飲み込んだ。セイジはおとっつぁんのお店の手伝いで忙しいのに、わざわざ己のために薬湯を拵え、小僧に任せるでもなく、己の手で持ってきてくれている。それを思うと、飲まないわけにはいかなかった。
せっせと飲んで、ようやっと飲み終えて、ぷはっと息を吐き出して、それからべえと舌を出した。
「無理を承知で聞くが……、もう少し飲みやすくは作れないのかい?」
「喋れないほど咳き込み続けてもいいのなら、薄くするよ。それとも、倍に薄めた薬湯を、今の倍量飲むかい?」
「どちらもぞっとしないね」
口を尖らせ、蒲団の中に逃げ込むと、セイジは豪快に笑った。
「それも嫌なら、早く床上げしておくれよ、兄さん」
己だって、好きで寝付いているわけではないのだ。できるものなら、とっくにしている。けれど弟の言葉に悪意はないから、そう憎まれ口ばかりを叩くわけにもいかない。病弱な家族を持って辟易しているのは、きっと誰よりもセイジなのだから。
己の病弱っぷりは、筋金入りだ。己の生まれた家が薬種問屋でなければ。あるいは名の知れた大店でなければ、とてものこと生き延びることなど出来なかっただろう。
アカギの現状を見ると、いっそ生まれてこられたのが不思議なほどだったが、実はアカギが病がちになってしまったのは、五つの頃だ。一度大きな病を拾って、それ以来、蒲団から離れられなくなってしまった。
この時代、早々に死んでしまう赤子は後を絶たない。アカギがもう駄目かもしれないと思われた頃、セイジが健康なまま安心できる年頃を迎えて、両親や奉公人たちは本当に安心した様子だった。まあそれと同時に、遠い親戚連中は、己らの息子を養子として送り出す計画に失敗し、失望を隠しきることはできていなかったが。
当然のように、この店の後継はセイジに決まった。それに文句を言うつもりなどない。むしろ己が率先して、弟を後継にと父に頼んだのだ。役立たずの己より、その方が余程のこと良い。というより、正直その時は、この歳になるまで己が生きているとは思っていなかった。
一時でも外に出ていれば、間違いなく体調を崩す己であったから、体力の方もからっきしだ。セイジに渡された濃くて苦い大量の薬湯を飲み切るだけで、なんだか疲れきってしまった。
せっかくカナが遊びに来ているのだ。もっと話したかった。もっとその姿を見たかった。幼いころは毎日のように顔を突き合わせていたのだが、十四の娘がそう易々と男に会いに来るわけにもいかない。だから会うのは随分と久しぶりなのだ。だのに、まぶたが重くて重くて仕方ない。
くすりと笑い声が聞こえた。セイジの声だ。
「店のことは大丈夫だから、兄さんは体を第一に考えなよ。
実はね、最近とても腕の良い旅の薬師の方が、うちによくお見えなんだ。大した対価も取らずに、薬について教えてくれているんだよ。きっと兄さんの体も、もっと良くなる。
だから安心して休んでね、兄さん」
*****
「まあまあまあ、もう戻ってきたの?」
仕方ないじゃあないか。己だって、好きで寝込んでいるわけでもないのに。頰を膨らましてそっぽを向く。老婆は聞かん坊を宥めるように、アカギの頭を撫でる。
「でも、今日はあの娘が来ていたんでしょう? もっと話さなくて良かったの?」
話したかったけれど、出来なかったのだから、仕方がないではないか。それにカナは、セイジに会うためにわざわざ店に訪れたのだから、己が邪魔をするのは無粋というものだろう。
「あら? どうして?」
老婆は首をかしげる。アカギは苦笑した。
だって、カナはセイジの妻になるお人だから。
「あら! 弟さんに縁談があったの? まあ、知らなかったよ」
そりゃあ、そうだろう。夢の中の老婆は、アカギの話でしか現世を知らない。アカギはセイジの縁談について、老婆に話したことなどなかった。もう諦めたことだが……やはり、口に出すのは辛いものがあるから。
老婆はゆっくりとアカギを抱きしめた。
「よしよし、お前は本当に優しい子だね。お前はずぅっと、カナのことを好いていたというのに」
老婆の声に、己の頰が熱くなるのを感じた。口に出されると、少々恥ずかしい。人並みにできることなど何もないのに、一丁前にカナだけは嫁に欲しいなどと、どの口が言えよう。
「祝ってあげなさい、アカギ。カナとセイジのことを。心から。
分かるよ。辛いことだね。たしかにセイジはお前から沢山のものを奪っていった。でもね、それはセイジのせいじゃぁ、決してないんだ」
分かっているよ。
「家も、期待も、健康も、妻も。全てさ。カナの両親は、この店に嫁入りさせたいだけであって、セイジに嫁入りさせたかったわけではないだろ? 本来それは、お前の役割だったのに」
でも、赤坂屋のだんな様たちは、とても娘には甘い方だから、もしカナが嫌がったなら、無理に話を進めようとはしなかったろう。それにセイジはとても優しいよ。その上勤勉で、一途だ。そんな男だから、カナもきっと惚れたんだろう。
アカギが心からそう言うと、老婆は少し黙った。
「……そうだね」
*****
弟の縁談は滞りなく進んだ。新しい家族が増える。それが幼い頃庭に出入りしていた娘であったため、奉公人たちにとっても、幼かった娘がようやっと綺麗になって嫁入りするような、そんな心地であったようだ。店をあげて歓迎されたカナは、照れ臭そうにしながらも、とても幸せそうに微笑んでいた。
アカギはというと、いつもに増してせっせと寝込み、体を休めていた。だって、もうすぐ可愛い弟とカナの祝言なのだ。どうしてもその日は、一日起きていたい。
暖かい蒲団にくるまって、でもアカギは眠れなかった。まだ日も高い。いくら己が病弱とて、熱もない時に眠り続けていられるような性分ではない。
「あれ、なんでここ、障子が閉まってるんだ?」
日の眩しさを遮るために閉めておいた障子の向こうで、声がした。誰の声かは分からない。きっと店表の小僧だろう。満足に蒲団から出ていることもできないアカギは、店の奉公人さえ、きちんと把握できていなかった。
「しーっ! アカギ様がお休みなんだよ」
「えっ! 昼間だぞ!」
「ご病気なんだと。若だんながおっしゃってただろ」
若だんなとは、セイジのことだ。
まさか障子一枚隔てた向こう側で、当のアカギが聞き耳を立てているとは思いもよらないのだろう。小僧の噂話は遠慮がなかった。
「そんなに病弱なのか、アカギ様って。
……なあ、アカギ様って、セイジ様の兄なんだろ? うひゃあ、良かったなあ、後継ぎがセイジ様で。もし若だんながアカギ様だったら、おれ、奉公してなかったかも」
「まあなあ。もしセイジ様が他所に婿入りされたら、跡継ぎはアカギ様だけだろ? 正直、いつお亡くなりになるかとヒヤヒヤして暮らすのは、嫌だよなあ」
……もしそうなったら、遠い親戚筋の誰かが、後を継ぐから大丈夫だよ。
胸の内で小さく毒づいて、アカギは蒲団を頭からかぶった。小僧たちの噂話は、分厚い蒲団に遮られ、何と言っているのか分からなくなった。
*****
縁側で何やら作業をしていた老婆に、アカギは飛びついた。
「あれ、まあ。どうしたんだい、アカギ?」
なんでもない。そう言いながらも、アカギは老婆の背に抱きついたまま離れない。老婆は嫌がるそぶりも見せず、アカギの頭を撫でた。
「まあ、まあ。大きな赤ん坊だこと」
老婆は手に持っていた柄杓を側に置いた。アカギは老婆がかき混ぜていた鍋の中身を覗き込む。
それ、なに? 首をかしげて鍋に手を伸ばすと、老婆がアカギの手を叩いた。
「これっ! 危ないから触るんじゃあないよ」
……危ない?
「ああ、そうとも。これはね、毒だよ。砒素だ」
毒? ねずみでも取るの?
アカギはますます首をかしげた。だって、この夢のうちで、ねずみなど見たこともない。しかしそう思った矢先、ちゅうという鳴き声とともに、アカギの手のひらほどの小さな獣が部屋の隅を駆けるのが見えた。
老婆はすっと鍋に手をかざし、そのまま手を握った。再び手を開いたときには、老婆の手の中には、黒い丸薬が一つ、握られていた。
「これが、その毒薬さ。気をつけるんだよ。もしこれを水に落としたら、あっという間に毒水の出来上がり。人間なんか、あっさりと逝っちまうんだからね」
*****
セイジの祝言まで、あと一日。
アカギは己の部屋の蒲団の中で、満足げに微笑んでいた。もう夕刻で、空が赤らんでいる。この時分になっても、すこぶる体調が良い。このままならば、明日の祝言には出られるだろう。
(ああ、よかった。だって、セイジとカナの晴れの日だ。兄の私が祝ってあげないで、どうするんだ)
しかしそうなると、近頃あまりに起き上がっていなかったのが、今度は不安になってくる。ただでさえも貧弱な己の体だ。明日一日、きちんと座っていなくてはならないのだが、それすら不安になってくる。
アカギは蒲団から起き出した。久方ぶりに、店表に出てみようと思ったのだ。この刻限なら、そろそろお客もいないだろう。仮に疲れて座り込んでしまっても、お客がいなければ、どうにかなる。
ずっと眠ってばかりだったから、起き上がるだけで少し目眩がした。ああ、やはり起き上がっておいて、よかった。上機嫌で店に向かう。
アカギの部屋は、他所から風邪をもらわぬよう、家の奥に用意されていた。だから店表に向かうのには、おとっつぁんやおっかさんの部屋の前を通り過ぎることになる。
その部屋の前を通り過ぎようとして、アカギはふと足を止めた。そしてちょいと首をかしげる。
いつもであれば静かなはずのその部屋から、この日に限って大声が漏れていた。
「絶対にだめだ」
「でもね、セイジ」
「いいえ、だめです。これはいくらおとっつぁんでも譲れません」
本来この刻限ならば、店表で精を出しているはずの父と弟が、言い争いをしていた。
アカギは盗み聞きしても良いものかと寸の間悩み、足早にそこを立ち去ろうとした。しかし次に聞こえてきた言葉に己の名が混じっていたため、ピタリと立ち止まってしまった。
「お前の言うことも、わかるよ。けれど、これはアカギの望みなんだ。あの子はあんなに病弱なのに、お前の婚礼に行くために頑張っているんだ。席を設けなくては、可哀想ではないか」
セイジの婚礼の、席? アカギは耳をそばだてた。セイジの冷たい声が降ってくる。
「おとっつぁんは、兄さんのことをわかってないんですよ。だからそんなことが言えるんだ。
いいですか、とにかく、明日のカナの輿入れ、そこに兄さんの席は必要ありません」
「セイジ……」
疲れたような声色から、父が頭を抱えている様子が目に浮かんだ。でも、弟が目を吊り上げて兄を非難する様子は、どうしても思い浮かべることができなかった。
この薄い障子一枚の向こうで、弟は兄への嫌悪感を顔に貼り付けているというのに。
アカギは眩暈がしてその場でしゃがみ込んだ。両の手で頭を抱え、泣くまいと表情に力を込める。
(……まいったなぁ)
よくよく考えてみれば、当然のことなのだ。セイジはアカギのせいで、とても苦労している。己を恨んでいても、おかしくはない。それにもう一つ、アカギには心当たりがあった。
(たぶん、セイジは私の気持ちに気付いてる。私が……カナに、ずっと惚れていたことを)
己の妻となる女に岡惚れしている男が、婚礼の場にいるなど、嫌に決まっているではないか。
アカギはくるりと踵を返し、己の部屋へと戻った。ほんの少し歩いただけで、ここまで疲れてしまうとは思ってもいなかった。心なしか寒気がする。敷きっぱなしの蒲団に再び潜り込んだ。団子になった蒲団の中で手足を縮める。「明日の輿入れ、そこに兄さんの席は必要ありません」冷静な弟の声がアカギの耳にこだましていた。
*****
「ああ、かわいそうに。なんてかわいそうなアカギなんだ」
老婆がアカギを抱きしめる。
「誰よりも誠実で、誰よりも勤勉なのはお前の方だよ。なのに何だい、お前の弟は。お前からたくさんのものを奪っておいて、なんて酷い仕打ちなんだ」
そんなことないよ。セイジは何も悪くないよ。
「ああ、優しいアカギ。でも、お前には強さが足りない。だから、ほら。あたしが貸してあげよう。助けてあげよう。
お前が、お前こそが、幸せになるべきなんだよ」
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