第20話 努力家

 毎朝、明六つの鐘が鳴る前に起き出して、朝餉を作るのがリョウの日課だった。

 眠くないわけではない。だが起きねばならない。寝ぼけ眼をこすりながら、まだ眠っていたいと駄々をこねる体に鞭打って、冷たい井水を汲みにいく。

 手の込んだ朝餉を作る余裕などない。ほとんど熱しただけの薄い汁を掻き込んだら、己に与えられた畑へ向かった。

 桑を担ぎ、重い足を引きずるように歩く。なんとも不幸なことに、己の家と畑は、かなり遠い。歩いて半刻。全く不便で仕方ない。

 歩いているうちに、日が昇り始めた。眩しさに思わず眼を細める。そしてその瞳に、青々と茂る畑が映った。

 そこには可愛らしい茄子や胡瓜の赤子がたくさん生えていた。畑の端には、たくさんの朝顔の株。しかもただの朝顔ではない。変化朝顔だ。あれは腹を満たすのにはなんの役にも立たないが、金持ちの好事家がこぞって大枚を叩くような代物だった。

 だが、それは己の畑ではない。

 リョウは肥沃な土地に背を向け、それとは比べ物にならない、痩せた土地へと足を運んだ。

 禿げかかった土地にわずかに見える緑は、黄色がかっていた。土地の広さは変わらぬはずなのに、隣の土地に比べ、実りは半分に満たない。

 実はリョウも、隣の畑を見習って、変化朝顔にも手を出していた。とりあえずは様子見で、一株だけ。それなりの金子を払って手に入れた変化朝顔の種は、偽物だったらしく、なんの変哲も無い朝顔しか生まなかった。これでは一文にもなりはしない。

(何故だ。何故おれはこれほど苦労してなお、何も得られぬのだ……)

 隣の畑と、そう距離があるわけでもないと言うのに、何がそんなに違うのだろう。

 こぼしそうになるため息をググッと飲み込んで、日課である畑の手入れを行う。中腰姿勢を続けたせいだろうが、腰が痛む。腰に手を当て、伸びをした。

「おはようございます」

 不意に声をかけられた。そちらに眼をやると、隣の肥沃な土地の農夫がにこやかに手を振っていた。彼はリョウとそう年が離れているわけではなかったはずだが、すっきりとした笑顔を浮かべているせいか、ずっと若く見えた。

「おはようございます」

 リョウもまた、笑顔を返す。それからすぐに視線を大地に落とすと、己の作業に戻った。

 リョウは隣の農夫が嫌いだった。いや、正確に言うなら、隣の農夫を嫌ってしまう、器の小さい己が嫌いだった。

 隣の農夫は、いつもすっきりした顔をしている。まるで苦労など知らないみたいだ。その証拠に、彼はリョウよりも早く畑へ来た試しがない。それなのに、実りは彼のほうが多いのだ。

 羨ましい。どこかに、そう思ってしまう己がいた。

 羨むことが醜いと、理解していた。だから誰にも言えなかった。だけど、ああ。羨ましくて仕方ない。


 暁七つの鐘が鳴る。太陽が昇るよりも遥か前。夜と読んでも差し支え無い刻限だった。

 夜の闇の中を、灯りもつけずに旅人が歩いていた。旅人の足取りは軽く、どこか機嫌が良さそうだ。

 旅人は空を仰いだ。薄暗いが、今は夏だ。わずかに、空に紫が混ざり始めている。

「……あれ?」

 旅人の視線の先に、一人の男がいた。男は今しがた起きだして、家から出てきたらしい。月と星に向かって大きく伸びをしている。

「こんばんは」

 旅人が男に話しかけた。すると男は驚いたように振り返り、それからにこりと笑った。

「こんばんは。こんな時間に人に会うとは、思ってませんでしたよ。旅人さん……ですよね。ずいぶん早い出立ですね」

 旅人は照れたように頭を掻いた。

「あなたも、ずいぶんと早い。これから畑の手入れかい? 苦労しているんだね」

 旅人の言葉を、男は屈託のない笑顔で否定した。

「いやいや、好きでやってることです。苦労なんかしていません。私はこれが、楽しいのです」

 男は愛おしそうに変化朝顔の葉に触れた。よくよく見ると、男の家の周りには、たくさんの普通の朝顔と、一握りの変化朝顔が植わっている。

「これはすごい。これだけの朝顔を集めるのは、大変だったんじゃないかい?」

「そうですね、一株だけ育てようと思って、できるものでもないですから。変化朝顔はいくばくかの知識と種を得るための人脈は必要ですが、後は運です」

「たしか、変化朝顔は種をつけないんだったっけ」

「変化の度合いによりますけど、そうですね。だから変化朝顔の親株から、種を買うんですよ。実際にどんな花が咲くかは、夏になってのお楽しみです。大半は、普通の朝顔になっちゃいますけどね」

「ひゃあ、博打だねえ」

 大げさな旅人の言葉を聞いて、男は可笑しそうに吹き出した。

「だから、面白いんですよ。じゃあ、私はこれから畑の手入れがありますので」

「へえ、朝顔以外もやってるのかい?」

「ええ。朝顔だけだと食べていけなくなる可能性もありますし、野菜を栽培するのもまた、楽しいものですよ」

「そうか、それはいいね。

 それじゃあ。良い朝顔が育つといいね」

「ええ、ありがとうございます」

 旅人は手を振ってその場を後にした。男が楽しそうに畑へ向かうその頃、明六つの鐘が鳴り響いた。

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