第19話 分かれ道の先で

 どこで、道を間違えたのだろう。

 何事もなく一日が始まった。何事もなく仕事をした。何事もなく夕餉を掻き込み、何事もなく寝床に着いた。

 そんな当たり前の一日にとんでもない落し穴を開けたのは、狂ったように掻き鳴らされる、半鐘の音だった。

 寸の間、何が起きたのかわからなかった。心地よい眠りを邪魔されて、ただ不快だった。それからすぐに、顔から血の気が引いた。この音は、よくない。きっとこの火事はすぐ側で発生したに違いない。

 こんな夜中に火事だなんて、きっと夜鷹そばの振売が火元だ。うちの店のすぐそばにも、振売がたむろしているのを、何度か見たことがある。だからあれほど追い払うべきだと主張したのに!

 綿入れを着込む暇さえなく、部屋から飛び出した。裏戸から逃げ出すと、辺りは既に逃げ惑う人々でいっぱいだった。泣き叫ぶ者、ひたすらに走る者、火を消そうと躍起になる者、火事場泥棒を働く者……。サダもすぐに大通りへ向かい、父の店の表へと急いだ。

(なんてことだ……。もう火が、こんなにも)

 父の店に、火が燃え移っていた。父の店は小さな紙問屋だった。店の品物は紙で、つまりとてもとても燃えやすい。

 逃げることさえできずに、燃える店の前で立ちすくんでいると、同じく顔を青ざめさせた両親に行き合った。

「おとっつぁん、おっかさん!」

「サダ! よかった、無事だったか。さあ、逃げよう」

「でも、お店が」

「それは私がなんとかする。お前はおっかさんと逃げなさい」

 父はサダに母を押し付けると、ぱっと踵を返し、店の中に駆け戻った。

「おとっつぁんっ」

 叫ぶも、父は振り返ることなく、火の海に飲み込まれていった。

 父の気持ちはよくわかる。大店を抱えた大商人とは違って、己らのような小さな店しか持てない者は、蔵をいくつに分けて持っているわけでもない。火事に備えて庭に穴を開けてあるが、そこに商品を落として土を被せるだけの時もなかった。

 店も品物も大黒帳も失っては、たとえここで生き延びられても、明日からどう生きればいいのかもわからない。

 サダも父の後を追おうとして、母に止められた。

「だめだ、サダ。私たちは、お寺へ向かうよ」

「でも、おっかさん。おとっつぁん一人では、手が足らないよ」

「だめだ。さあ、行くよ」

 そのときサダは、初めて母の顔をまともに見た。火事の明かりでようやく見えた母の顔は、ひどい火傷でただれていた。

「おっかさん! その怪我は……」

「サダ、何度も言わせないでおくれ。おとっつぁんは大丈夫だ。だから私たちは逃げるよ。いいね」

「……わかったよ」

 深手を負った母を一人にするわけにはいかない。サダは後ろ髪を引かれながらも、近くの寺へと足を向けた。



 それから数日の記憶が、サダにはあまり残っていない。ただ、母が死んだことと、父が戻ってこなかったことは理解している。しかしそれらも記憶というよりは、知識として残っているような、おぼろげなものであった。

 寺には、焼け出された人々が山と押しかけていた。風向きが悪かったのだろう、火消しの奮闘も虚しく、多くの人が家を、店を失った。

 しばらくすると、サダは寺を追い出された。出て行けと直接言われたわけではなかったが、多くの老人や子供、怪我人を抱えた寺に、若く健康な少年をいつまでも抱えている余裕などない。サダはまだ十四だった。大人ではないが、もう子供でもない。実際この年なら、ほとんどの人は立派に働いている。サダに接する大人たちの態度は、さっさと出て行って職を探せと、そう言っていた。

 サダは虚ろな眼差しで、仕事を探しに行った。しかし大火で職を求める人の数は多く、どこも人手は足りていた。あちこちの口入れ屋をたらい回しにされ、それでも仕事は見つからない。

 空を仰ぐ。日が暮れてきた。冷たい風が吹く中、職はおろか今夜の寝所さえ決まっていない。一瞬祖父に頼ろうかとの考えがよぎるが、母方の祖父は既に他界しており、父と祖父は喧嘩別れをしている。しかも祖父が住んでいるのは上方だから、すぐには連絡を取ることさえ不可能だ。

 サダはその日、一晩中を歩いてやり過ごした。足を止めると、寒さに凍えてしまいそうだった。翌日も、疲れた体に鞭打って、必死に仕事を探した。それでも成果は得られなかった。ああ、己はこのまま死ぬのだろうか。それなら、両親と一緒に暖かい炎の中で果てればよかった。そんな思いさえ頭に浮かんだ。

 結局二日目も、何も得られぬまま夜を迎えた。雪がちらつくのが目の端に映る。道理で寒いはずだ。手先が冷たく、もはや感覚がない。

 凍え死なないように、足だけは動かす。しかし二日連続で物を食わず、夜通し歩き続けた体は限界を迎えていた。足がもつれ、転んでしまう。

「…………」

 もはや呻き声さえ上げられずに、地面にうずくまった。そんな己の耳に、元気に声を張り上げる男の声が聞こえてきた。

 夜鷹蕎麦の振売だ。

 サダは夜鷹蕎麦を食べたことがなかった。小さいとはいえお店を抱えていた家の一人息子なのだ。そんな物を食べるなど、考えたこともなかった。だが今は、温かな蕎麦が、うまそうな匂いが、どうしようもなくサダを惹きつける。

 幽鬼のような足取りで、匂いのする方へ向かった。通りの向こう、一人の振売が夜鷹の女たちに蕎麦を売っている。

「はいよ、十文だよ」

 十文……。手が無意識の内に懐を探った。普段であれば紙入れが入っていた懐に手を伸ばす。しかし当然そこに紙入れなどなく、手はただ空を掴むだけ。たった十文。それすら己は持っていない。

 振売が肩に担いだ屋台を下ろし、手際よく蕎麦を温め始める。女が列をなして、蕎麦を求めていた。よほど人気の店なのだろうか。誰も彼もが蕎麦に夢中になり、誰もサダに気づいていない。

 その時、女が蕎麦売りに声をかけた。

「ねえあんた。ずっとこの辺りで働いてるのかい?」

「へえ、その通りですが」

「この前の大火。あれ、あんたの仕業じゃあないだろうね」

 疑わしげな女の言葉に、振売の手が寸の間止まった。

「まさか」

「本当かい? ……まあ、ならいいんだけどね」

 女はそれほど気にしてないのだろう、すぐに蕎麦を受け取って美味そうにすすった。

 ここは、火事が多い。大勢が住む人口密集地だというのに、家屋は燃えやすい木でできていて、大火となればたくさんの人が焼けだされるのだ。そうだ、だから確か、火元になりやすい夜鷹蕎麦は、お上から禁止されていたはずだ。

 己の顔が、硬く強張るのを感じた。

 火元になりかねないとわかっていて、違法だとわかっていて、それでもこいつはお足のために蕎麦を売っているのか。

 まさか、先日の火事も、こいつらが原因なのか?

 こいつらのせいで、父も母も死んだのか? こいつらのせいで、己は今こんなにひもじいのか? 本当なら今頃、己は父と母と、小さな店の温かい部屋で、静かに眠っていたはずなのに。

 唇を噛みしめ、必死に泣くまいとした。泣いてしまえば、己が負け組になってしまったような、そんな気がする。

 蕎麦屋は惨めなサダになど目もくれず、客の女と喋っている。

(くそっ。くそ、くそっ)

 なんでなんでなんで、己ばっかりこんな目に!

 サダはパッと駆け出すと、一杯の蕎麦を奪って逃げた。蕎麦屋が慌ててこちらを振り向くのが気配で分かったが、この暗さだ。己の顔までは見えていまい。

 追ってくるかな。そうかもしれない。捕まったら、どうなるのかな。鞭打ちかな。痛そうだな。でも、まあ、いいか。

しかしサダの心配は杞憂に終わった。蕎麦売りは十文と安物のどんぶりの損失よりも、これから売れるたくさんの蕎麦を優先したに違いない。それに今屋台を離れたら、残りの蕎麦も売り上げも、女たちに奪われてしまうかもしれない。

 精一杯、走って逃げた。追手のいない逃走劇は、滑稽であったのかもしれないが、逃げてる当人は至って真剣だった。汁が飛んで指先に火傷を負った。一杯の蕎麦は半分になった。そこでようやく立ち止まり、肩で息をしながら、追手がいないことを再度確認する。

 それからようよう、サダは二日ぶりに食い物を腹に入れた。箸などないから、飲み物のように細長い蕎麦をすする。

 夜鷹蕎麦みたいに不衛生で、違法な物を食べるなんて。それも、他所様から盗むなんて。わずかに残った良心がサダを咎める。けれどその声も、温かな蕎麦の魅力には敵わなかった。

「……うめえ」

 小さな呻きは、誰に聞き咎められることなく、夜の暗がりに転がった。



 サダは昨日よりも確実に良い顔色で、町を歩いていた。今日こそ奉公先を見つけなければならない。

 ここは己の店のあった場所から、わずか通り二つを挟んだだけの場所。よく父と一緒に甘味処へ行ったっけ。団子が美味しかったのを覚えている。つい数日前にも顔を出したはずなのに、まるで遥か昔の出来事ようだ。

 物陰からこっそりと甘味処を伺う。落ちぶれた己を見られたくなかった。

 甘味処は火事などなかったかのように、以前と変わらない繁盛を見せている。

 羨ましく思う己の心を叱咤し、サダは立ち去ろうとした。ここにいても、かつての己を思い出して虚しくなるだけだ。

 そのとき、看板娘の声が聞こえた。サダの二つ年下の、可愛らしい娘。にこにこと愛想よく茶を運んでくれたっけ。

「おまたせしました。お団子です」

「やあ、ありがとう」

 うまそうな三色団子を受け取ったのは、己ではなく、藍染の着物の男だった。かなりの金持ちなのだろう、身に付けているもの全てが、サダでもわかるくらいの高級品だ。男はよほど腹が減っているのか、それとも甘いものに目がないのか、同じ団子を三本も求めていた。羨ましい。素直にそう思った。

 一度法を犯すと、かえって開き直ってしまうものなのだろうか。一度も二度も変わらないと、そう思ってしまうのだろうか。

 空腹ではあったが、我慢できないほどではない。昨晩の蕎麦は、まだサダに生きる力を与えてくれている。だのにサダの手は、ゆっくりと団子に伸びていく。

 男は看板娘と話していて、その目はこちらを向いていない。娘も男前の客と話すのに夢中で、団子は男のすぐ隣に、無防備に置かれたままだ。

 さっと、団子を一本掴んだ。誰もこっちを見ていない。

 サダはすぐに踵を返し、走って逃げた。人でごった返す通りで、己を追うことは困難だろう。焦って、風呂敷を持つ女にぶつかった。恨み言を言われた気がするが、立ち止まってやる余裕などない。

 右手には盗んだ団子。それを必死に振りながら、橋の下に逃げ込んだ。

 ほとんどためらわず、それにかぶりつく。この店の味は知っていた。上品な甘さが自慢の菓子だったはずだ。だが。

「うえっ。うええっ」

 ひどい味がした。上品な甘さ? とんでもない! どんな味かと聞かれても困るが、とにかく己の覚えている菓子の味ではなかった。それでもせっかくの食い物だ。吐き出したくなるのを堪え、無理やり胃の腑に流し込む。

 膝を抱え、うずくまった。

 盗んでしまった。昨日も今日も。盗んでしまった。

 橋の下の暗がりに隠れるように体を縮めて、お天道様を見上げる。己はもう二度と、陽の光の下など歩けないのではないか、そう思った。そのとき、橋の下の闇が蠢くのが目に入った。そこにはおぞましい顔の小鬼が数多いて、ニタニタ笑いながらサダに手を振っている。

 こちら側に来い、と。

 その方が楽になれるかもしれない。どの道サダはもう犯罪者だ。サダの体が動きかけた時、頭上から声が降ってきた。

「気は済んだかい?」

 弾かれたように振り返る。日の光の下、明るい場所に男が立っている。

「あんたは……?」

「おや、ひどいねえ。私から団子を盗んだんじゃぁないか。顔くらい覚えておいておくれよ」

 そうだ、あの客だ。涼やかな目元には確かに見覚えがある。

「おれを、追ってきたのか」

「うん」

 男がにこやかに頷いて、こちらに一歩踏み出した。サダは反射的に逃げ出して、橋の下の闇の中へ飛び込んだ。


 藍染の着物の男から逃げ出して、どれほどの時が経ったか。サダはすっかり盗人になっていた。振売から、店先から、道行く人の懐から、気付かれずに掠め取る術を磨いた。

 サダが表通りを歩くのは、もはや盗みを働く時だけだった。日の光に照らされると、己の罪まで浮き彫りになってしまうのではないか。そう思うと怖かった。たまに十手持ちを見かけることがあった。さらに稀に、同心を見ることも。そんな時は決まって体が強張り、路傍の石になりたい、死者になりたい、と願うのだ。

 道行く全ての人が、サダを蔑み、哀れみ、見下しているのを感じた。サダの身なりはお世辞にも綺麗とは言えない。着物はそう簡単に盗めるものではないし、金子を盗んで買うにしても、あまりに高価すぎる。

 夜になると、サダはようやく人心地ついたように、肩を下ろす。人気のない橋の下が、サダの寝床だった。ボロ切れのような着物を脱ぎ捨て、刺すような冷たさの川に飛び込む。寒さに凍え死にそうになるが、そろそろ溜った垢を落とさなくてはならない。

 雲の隙間からわずかに溢れる月明かりさえ、今の己には眩しい。目を細くして、パシャパシャと音を立てて顔を洗う。

 水面に、己の顔が写っていた。

 ひどい顔だった。頬はこけ、瘦せおとろえ、目ばかりがギラギラ光っている。髪も随分薄くなった。もう幾つになったんだっけ? 四十は超えていないはずだが、己の顔はどう見ても老人のそれだった。

 不意に怖くなった。

 あと何年、こんな生活を送るのだろうか。人に怯え、光に怯え、消えて無くなりたいと願いながらも、死ぬ勇気さえ持てず、ただただ悪行を重ねて生き続ける人生。いつか死んで、閻魔様に裁かれるのを待つだけの人生。地獄の業火に焼かれる日を、ただ待つだけの人生。

「う、あ……。あああああっ」

 もう一度、やり直せるならば。だが失った時は戻ってこない。

 慟哭が夜の帳を引き裂いた。輝く月に助けを求めるように。しかし救われるだけの幸運もまた、サダは持ち合わせてはいなかった。



「気は済んだかい?」

 弾かれたように振り返る。日の光の下、明るい場所に男が立っている。

「あんたは……?」

「おや、ひどいねえ。私から団子を盗んだんじゃぁないか。顔くらい覚えておいておくれよ」

 問われて、サダは眉をひそめた。団子を盗んだ? いつのことだ? 心当たりがありすぎてわからない。記憶の糸をたぐろうと、頭に手をやる。

「え?」

 サダの頭には、たくさんの髪が生えていた。そう、まるで十四の頃のように。

 あわてて水面に顔を移す。そこに写った顔は、紛れもなく己のもの。ただし、皺もなければ痩せこけてもいない。

 それから藍染の着物の男に目を移す。そうだ、彼は、己が団子を盗んだ客だ。

「どうかした? まるで何十年も旅をした後のようだよ」

 笑いを含んだ男の声。そこにサダを責めるような色はない。

 大慌てで男のところに走った。膝をついて、地面に擦り付けるようにして頭を下げる。

「ごめんなさい! 腹が減ってたんです。ごめんなさい!」

 男はその場にしゃがみこんだ。頬杖をついて、にこりと微笑む。

「……苦労したみたいだね」

「はい」

「でも、それが言い訳にしかならないことは、理解しているね?」

「……はい。これから、番屋に行きます」

「ああ、うん、それはちょいと待ちなよ」

 怪訝に思って顔を上げると、男はサダに立ち上がるようにと身振りで示した。

「私はお前さんを訴えようとは思っていない。もし団子屋の主人の許しも貰えたら、番屋に行く必要はないだろう」

「でも、おれ、夜鷹蕎麦も……」

「おや。じゃあそちらにも、早いうちに謝りに行かなくてはね」

 何てことないとでも言うように、あっさりと男はそう言った。それから男はサダを伴って、団子屋へと戻った。顔から火が出るほど恥ずかしかったが、それ以上に己が情けなかった。

 団子屋の主人は、サダが頭を下げると、困ったように頰を掻いた。

「いや、そりゃあ、盗むなんて良くないことだが……。でもなあ、お客さんが許してるんだろ? ならそれは、お前とお客さんの問題だ。お客さんが許してるのに、おれがどうこう言う問題じゃぁないわな」

「あ、ありがとうございます」

「でもお前、これからどうするんだ」

 盗人と聞いて、初めは怖い顔をしていた主人だが、サダの事情を聞いてから、その態度はかなり優しくなった。

「なんとか……職を探してみます」

 日の光の下を、堂々と歩けるように。

「ねえ、おとっつぁん」

 横から口を挟んできたのは、団子屋の看板娘だ。

「うちで、雇ってあげたら? だってこの人、うちの常連さんよ。ちょうど人を雇おうとしていたじゃない。なら、うちの味を好んでくれている人の方がいいわ」

「お、覚えてくれてたんですか?」

 目を丸くするサダに、娘は微笑んだ。

「もちろんです。お客様は神様ですからね。神様のお顔くらい、しっかり覚えていますとも」

 娘の提案に、主人はしばし悩んだ様子だったが、やがて「よし」と手を打った。

「お前、名前は?」

「サダです」

「よし、サダ。お前、明日からうちで働け。こき使ってやるから覚悟しとけよ」

「……あ、ありがとうございます!」

 ただし。そう言って、主人は寸の間怖い顔を作った。

「昨晩盗んだっていう、夜鷹蕎麦。そこにきっちり謝って、弁償して、すっきりしてからだ。そこに払う金子は、貸してやる。働いて返せ」

 感謝に震え、サダは言葉も出なかった。ボロボロと涙をこぼしながら、団子屋の主人の手を握り、「ありがとう、ございます」と、ひたすら礼を言った。



 夕刻。そろそろ夜鷹蕎麦が出回る時間。

 サダは主人に借りた百文を手に、道を歩んでいた。客の男にも、団子屋の主人にも娘にも、本当に世話になった。感謝してもしきれない。

 サダが薄暗い通りを進んでいくと、物陰ですすり泣く男の声が聞こえた。ふとそちらに視線をやると、うずくまる男と目があった。

(……あっ)

 そこにいたのは、己だった。ボロ切れをまとい、この世を憂い、全てを恨み、恐怖に怯える男の姿。あの客に出会わなければ、そうなっていたであろう己の姿。

 男はすがるような眼差しをこちらに向け、ゆっくりとこちらに手を伸ばす。こっちに来いと言われたようだった。

「悪いけど、おれはもう二度と、そっちには行かない」

 サダは先へと進む。うずくまる男に背を向けて。

 この日は月が明るかった。濃くなる影の中に取り残された男は、恨めしげな声をサダに投げかける。サダの耳にはそれがはっきりと聞こえていた。

 きっと生涯、忘れてはいけない叫びだ。

 サダは二度と振り返らなかった。しかし今日のこの光景を、決して忘れまいと誓った。

 不思議とどこかから、藍染の着物の男の笑い声が、聞こえたような気がした。

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