第17話 夢見の蝶

 気が付けば、光る蝶の群れの中にいた。己の足元で草が揺れると、そこから逃げるように、蝶が舞い踊る。タイチは両の手を前に出した。七色に輝く蝶がタイチの手のひらに止まった。

「きれい」

 タイチが言葉とともに、手のひらを己の顔に引き寄せる。蝶は輝く軌跡を残し、タイチの手から離れた。

 現のこととは思えない光景に、タイチは夢中になった。それはこれまでに見たどんな華美な根付よりも、粋な花瓶よりも、強烈にタイチの心を揺さぶった。

 小さな手足を精一杯に振り回し、光の中を駆け回る。色とりどりの光が、ゆらゆら、ふらふらと飛び回った。

「わぶっ」

 あまりにも夢中になっていたから、タイチは足をもつれさせ、顔から転んでしまった。鼻の頭を摩りながら起き上がると、目の前にすらりとした手が差し出された。反射的にその手をとると、藍染のきれいな着物を纏った男の人が、にこりと笑ってタイチを立たせてくれた。

「あ、ありがとう」

「どういたしまして」

 男はとてもきれいな顔立ちをしていた。先月見た歌舞伎役者でも、ここまで神秘的ではなかったと思う。光る蝶という怪異と合わさってなお、男の立ち姿は浮くことなどなく、それは一枚の絵のように完成された景色となった。

 タイチはぼうっとその光景を眺めていた。そんな己の様子に気づいたのか、男がこちらを見た。それからにこっと微笑む。

「お前さん、名前は?」

「タイチ」

 タイチが名を聞き返すと、男は人差し指の先に蝶を止まらせながら、「私の名はミツキだよ。よろしくね」と返した。慣れた様子で蝶に触れるミツキ。彼はこの蝶のことをよく知っているのだろうか。

「ねえ、この蝶は、何?」

「夢見の蝶さ」案の定、ミツキは悩むそぶりもなく、あっさりと答えた。「夢見の蝶はね、人の夢を食らう妖なんだよ。美しい夢を見てくれる人の子がいれば、蝶は増える。……その逆もね」

 ミツキが小さく俯いて、足元の花に止まった蝶をすくい上げる。その蝶は羽が折れ、弱々しい光が明滅するのみだった。

「……その子は?」

 タイチが問う。ミツキは悲しそうに瞳を曇らせ、蝶を撫でた。

「きっと、タチの悪い夢に捕まってしまったんだね。この子は、もう飛べないんだよ。

 夢見の蝶は、羽が折れると夢の中へ飛べなくなる。可哀相だけれど、死んでしまうんだよ」

「どうにか、できないの?」

「夢見の蝶は、治癒能力を持たない。だからこの子には、これから一生、人の子の協力が必要だ」

 どうしたらいいの? そう聞き返すと、ミツキはその場にしゃがみ込み、タイチの視線に合わせた。その言葉を待っていたかのようだった。

「人の子が、この子に夢を与えればいい。眠る前に、枕元にこの子を置く。そして眠りにつく前に、必ずこの子を見るんだ。できるかい?」

「できるとも」

 ほんの少しの躊躇いもなく、タイチは頷いた。ミツキは満足げに微笑んで、すっと手のひらを上に向けた。すると、びいどろの虫かごが現れ、怪我をした夢見の蝶を囲った。

 タイチはミツキの手から虫かごを受け取った。その途端、世界がぐにゃりと曲がった。空が地面になって、地面が空になった。それから……。

 それから、タイチは目を覚ました。部屋の外では乳母やや小僧たちがパタパタと足音を立てて走り回っている。

「……夢」

 当然だ。あんな不思議な場所が、現実であるはずがない。分かりきったことであったが、やはりどうにも残念で、タイチは小さく肩を落とした。

「えっ」

 しかしその直後、枕元に見慣れぬ虫かごが置いてあることに気がついた。それは決してびいどろで作られてなどいないし、中の蝶も、ごく普通の黄色い蝶で、光ってなどいない。

 羽の折れた黄色い蝶が、何かを訴えかけるように、羽を動かした。

「夢見の、蝶?」

 かごを目の高さまで持ち上げて、問いかける。だが当然蝶が答えてくれるはずもない。答えの代わりに、蝶はぱたぱたと、不器用に羽を動かした。


 ミツキと名乗った不思議な男の言った通り、それからどれだけ月日が流れても、夢見の蝶の羽は折れたまま、治癒することはなかった。乳母やや女中たちは、夏が来ても秋になっても死なない蝶を気味悪く思っていたようだったが、タイチがあまりにも蝶を可愛がるから、なかなかそれを口に出せないでいる。タイチはまだ子供だったが、それに気付かぬほど愚かではない。

「この子は、僕が面倒を見るから、ぜったいに触らないでよ」

 タイチがそう言い張ると、乳母やたちはしぶしぶ頷いた。

 一番厄介だったのは、八つ年上の姉だ。姉は蝶が好きで、度々タイチの夢見の蝶を見にやってきた。そしてその度、タイチに言うのだ。

「どうして籠に入れてるの。かわいそうじゃない。逃がしてあげましょうよ」

 蝶は空を自由に飛ぶ。それが良いのだ。彼女はそう主張した。

「だめだよ、この子は籠にいないと死んじゃうんだ」

「タイチのうそつき。そんな話、あるわけないわ」

 いつか見た美しい夢の話をしても、毎日見る夢見の蝶の夢を話しても、姉はちっとも信じてはくれない。自分勝手な分からず屋。そう言って、目を三角にしてタイチを睨むばっかりだ。


 秋の終わり、姉が嫁に行った。お気に入りの蝶のかんざしを頭に差した姉は、ほんのりと頬を赤く染め、幸せそうに微笑んでいた。この日ばかりは、姉の小言も聞こえてこない。お化粧をした姉は、まるで別の人みたいだった。

 姉のいない家は、初めのうちこそ広々と落ち着かなく感じたが、冬が終わり春が来る頃には、すっかり慣れっこになっていた。久方ぶりに実家に遊びにきた姉に、むしろ違和感を感じる。

 しかしこの頃タイチには、姉のことにかまっている余裕はなかった。最近、夢見の蝶の元気がないのだ。

 毎日きちんと、夢を与えている。夢のうちで、夢見の蝶は飛ぶことはやはりできないけれど、驚くことに、現世においては夢見の蝶の羽は治った。もしかしたら、もっと時間をかければ、いつか夢の中でも飛べるようになるのかもしれない。だのに夢見の蝶は、なんだか落ち着きが無く、どこかしゅんとしているではないか。

「なあ、どうしたんだよ」

 虫かごの中の蝶に問いかけるが、羽を揺らすばかりで答えてはくれない。夢の中においても同じことだ。

 タイチは肩を落とし、とりあえず蝶の籠を綺麗に掃除しようと考えた。掃除程度で蝶の機嫌がよくなるとは思えないけれど、何もしないよりはいいだろう。

 乳母やから桶を借りて、それを逆さにして夢見の蝶を入れておく。それから籠をばらばらにして、汲んできた水で洗った。

 やがて水が汚れてきたので、新しい水に変えようと、水桶を持って井戸の方へ走った。


「あら?」

 結い上げた髪に蝶のかんざしをさした女が、タイチの部屋の前を通りかかった。女は逆さに置かれた桶を不思議そうに眺め、それを拾い上げる。すると中から、一話の蝶がふわりと空に舞い上がった。

「あら、まあ」

 女は口元に手を当て、微笑んだ。

「あの子ったら、また蝶を捕まえて、籠に入れていたのね。それはかわいそうだと、何度言ったらわかってもらえるのかしら。

 ああ、やはり蝶は自由に飛べなくては、かわいそうだわ。大空に飛び立って、あんなにも生き生きと輝いているもの」

 蝶は青空に向かって、迷いなく飛んでいく。女はその様子を、実に満足げに見送った。

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