第16話 歌姫

 歌が、大気に溶けていた。それは女の声だった。高くて透き通っていて、とてもとても繊細な、びいどろの細工品のような歌声。

 ――綺麗だね。

 不意にそう聞こえた気がして、女は歌うのを一時やめた。声がした方を振り返る。しかしそちらに人影などなく、波が崖に当たって砕け散る音がするのみだった。


 女は少々肩を落として落胆したが、すぐに気を取り直して歌い直した。

 女の歌は恐ろしいほど遠くまで、風に乗って飛んでいく。女はそれを知っていた。知っていてなお、歌い続けていた。

 死魔の声だと噂された。それが全くの嘘ではないと、知っていた。


 知っていてなお、歌い続けていた。





 海魔の歌声は人を殺す。

 妖にとって一般常識であるそれを知る人間は、意外と少ない。まず歌と人の死をまとめて考えるほど、人間の脳は柔軟ではなかったし、そもそもこの時代、海魔の歌などなくても、人は簡単に死ぬ。


 海魔が海の沖の方で暮らしているから、人との関わりが少ないのも、その原因の一つだろう。さらに海魔は穏やかな気性の妖だから、人との争いを拒み、人里に近づかない。


 海魔センは、歌が好きだった。命を奪う呪われた歌だと言われても、歌うことが好きだった。仲間たちはそんなセンを異常者だと言っていた。仲間内で歌う分には誰も害することがないというのに、海魔のむらで歌うセンを、仲間たちは好戦的だと解釈する。

 だからセンは、誰もいない夜の海で、一人こっそり歌うことが多かった。誰にも聞かれなければ、誰にも文句など言われない。次第に仲間たちも、センを仲間外れにすることがなくなり、むらの居心地も良くなった。


 それでもセンは、歌うことをやめられない。ただただ歌うことが好きだった。空と、海と、己の声が一体になったような感覚が好きだった。


 そんなある日、むらに旅人が訪れた。

 むらは一時騒然となった。むらは簡単に訪れることができるような場所ではない。何しろむらは、海の上の浮島にあるのだ。海流に流され何処へでも行ってしまうむら。それがセンのむらだった。


 しかし何をどう言い訳しようと、むらに旅人がいるという事実を覆すことはできない。むら長からは、旅人を刺激するなと釘を刺されていたが、センは好奇心に勝てず、こっそりと家を出て、旅人を見に行った。旅人は人間のような装いをしていたが、溢れ出る何かが、それは違うと告げていた。己のような弱い妖など歯牙にもかけぬ圧倒的な存在。それが旅人だった。


「普段は、人の子の村を旅して回っているんだけどね。別に行くなと言われたわけじゃなし、たまには妖のむらも行ってみようかと思ったのさ。

 だから、そんなに固くならないでおくれ。誰かを罰しに来たんじゃないよ」


 旅人は優しげにそう言ったが、むら長の緊張の糸が緩まることはなかった。旅人は少々肩を落として頬を掻くと、説得は諦めたのか、むら自慢の海藻料理に舌鼓を打った。

 変わった旅人ではあったが、むら長に叱られてまで見ていたいほど、面白い物でもなかった。それきりセンは興味をなくし、音もなくその場から立ち去った。


 センはその夜も、こっそりとむらを抜け出し、誰もいない一角で歌を歌った。聴衆のいない哀れな歌は、しかし喜びに満ちていた。月明かりだけがセンの歌を聞いている。

 センの歌が終わる。長く、細く伸びた声が次第に収束し、センは大きく息を吐いた。


「綺麗だね」


 かけられるはずのない声を聞いて、センは飛び上がった。藍染の着物が月明かりに照らされてキラキラ光っている。予想外の相手の登場に、センは己でも驚くほど慌てふためいた。


「た、た、旅人さん! 聞いていたのですか? 体調は? どこも悪くないですか?」


 旅人はそんなセンを見て、くすくす笑った。大丈夫だから、落ち着いておくれ。旅人がその言葉を繰り返した。三度目になってようやく、センは落ち着きを取り戻した。


「その歌は人を殺すというね。でも私は人ではないから、大丈夫だよ」


 旅人はそう言ったが、海魔の歌声が奪う命は、人間に限らない。だが確かに旅人はぴんぴんしているし、害があった様子もない。なるほど、己程度の矮小な妖の技が、目の前の旅人に効くはずもないと言われれば、その通りかとも思う。


「盗み聞きをするつもりではなかったんだけど、とても楽しそうに歌っていたから、声がかけられなかったんだ。

 それに、あんまりにも素敵な歌声だったからね、邪魔するのは無粋だろう。私は、ずいぶん長く旅をしているけれど、これほど美しい歌を聴くのはは初めてだよ」


 センが驚いて声を出せないでいると、旅人は一方的にセンの歌を褒め、それから踵を返した。


「あまり夜更かしをしては、喉にもよくない。ほどほどにね」






 センは家に戻って寝床に潜り込んだが、全く眠れなかった。「綺麗だね」と言ってくれた旅人の声が、顔が、頭から離れない。何度も寝返りを打つ。旅人はいつまでむらにいるのだろうか。また今夜も、歌を聞いてくれるだろうか。


(今度は、旅人さんの好きな歌を歌ってあげよう)


 センの歌に関する知識は深い。こっそりと人里へ行って、人の子の歌も学んだ。きっと旅人が好む歌も知っているはずだ。


(そういえば、名前も聞いていなかったわ)


 そもそも旅人は何者なのだろう。どこへ向かって旅をしているのだろう。ずっと一人で旅をして、寂しくないのだろうか。

 聞いてみたいことが次から次へと頭に浮かぶ。

 明日の夜、聞いてみよう。センはそう決め込んで、ようやく微睡み始めた。







「えっ! 旅人さんは、もう出てしまったの?」

 センの言葉の勢いに、むら長はぎょっとしていた。

「ああ。なんだ、お前何か用があったのか」

「用ってわけではないのだけれど……」

「けれど?」


 ただ、もう一度歌を聞いて欲しかった。己の歌を聞いても死なない、あの人に。綺麗だねと言って微笑んでくれる、あの人に。


「……なんでもないわ」

 そう言ったセンだったが、彼女が慣れ親しんだむらを出るのに、さしたる時は必要としなかった。








 むらを出て、季節が三度巡った。

 旅人はまだ見つからない。それでも長命の海魔であるセンは、希望を捨ててはいなかった。


(どうしてかしら。たった一度、歌を褒めてくれた。ただそれだけなのに……)


 交わした言葉は十に満たない。瞳を覗いたのは一時に満たない。もしかしたら旅人は、センの顔などとうに忘れてしまっているのかもしれない。それでも。


(ただ、もう一度、あの人に会いたい)


 己の顔を忘れていても、己の声なら、美しいと褒めてくれたこの歌声なら、覚えているのはないか。いや、仮に忘れていても、再び声をかけてくれるのではないか。

 だからセンは歌う。歌うことが好きだから。あの人が褒めてくれたから。


「もし」


 後ろから声をかけられた。センは期待を込めて振り返る。しかしそこにいたのは、旅人とは似ても似つかぬ、擦り切れた脚絆を履いた二人の男だった。片方の男の方が、明らかに身なりがいい。きっとお店の主人と従者だろう。内心の落胆はおくびにも出さず、センは微笑んだ。


「何でしょう」

「この辺りに、村はないだろうか」

「村……ですか。この先、一時ほど歩けば、小さな村がありますが」


 それを聞いて、男たちは肩を落とした。


「一時……。そんなに遠いのか」


 どうかしたのですか。問われて、男たちは苦痛に顔を歪めた。


「それが……箱根の方まで行く途中だったのだが、なぜだか突然、揃って具合が悪くなってしまったのだ。もしかしたら、昨晩の飯にでも当たったのかもしれん」

「まあ、それはお気の毒ですこと。何か私にできる事があればよかったのですが、あいにく、薬も持ち合わせておりませんの」


 その言葉に、男たちは慌てて首を振った。

「いや、いや。村の方向を教えてくれただけで、十分だ。それに薬なら、一応持ち合わせている。まあ、効きそうにないのだが……」


 片方の男が、腰に下げた印籠を振る。からんと中のものが動く音がした。

 それから二人の男は、互いの体を支えながら、ゆっくりと村を目指して歩いてゆく。その歩みはおぼつかなく、今にも倒れてしまいそうであった。

 センはその後ろ姿を眺める。おそらく彼らは、村に辿り着く前に事切れるだろう。


 ……ごめんなさい。

 そのつぶやきは、歌声とは違って大気には溶けず、センのすぐ目の前で地に落ちた。

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