第15話 燃える屋敷
大きな町から離れた、険しい山を縫うようにして広がる村。そんな便の悪い地域に、やたら栄えた一角があった。藍染の着物を着た旅人ミツキは、久方ぶりに訪れる町の様子の変化に、小さく首をかしげた。
どうやら物見遊山の客が多いらしい。道行く人は頭に菅笠をかぶり、足には脚絆を履いていた。険しい道を歩いてきただろうに、よほど面白い見世物がここにあるのか、旅人たちの顔は一様に明るい。
皆が指差し、笑いあう方向に目をやると、「なんと、まあ」ミツキの口から、小さな呟きが漏れた。
ミツキの視線の先には、山の中腹にある、燃え盛る屋敷が聳え立っていた。
*
久しく色を映していなかった視界は、鮮やかな赤一色に染まっていた。
あちこちで悲鳴が不協和音を奏でている。出口を探して逃げ惑う人の群が、いつもの柔和な被り物を脱ぎ捨て、我先にと他人を蹴落とし、進んでいく。そんな汚れた人の心を浄化するように、炎がすべてを包み込んでいく。
胸のすく光景だった。
「あはっ。あははははははっ!」
かつてない歓喜に、マグラは己の喉から、震える声が漏れ出るのを聞いた。
そのとき、うっかり煙を吸い込んでしまい、大きく咳き込む。死ぬことのない己の体であるが、煙が有害であることだけは、変わらないらしい。
少し移動しよう。そう思って足を動かすと、足元で転がったままの死体がそれを邪魔した。腹立たしげに、首から血を流して事切れた、かつての主人を蹴り上げる。
その反動で、主人の顔がこちらを向いた。虚ろな目が己を射抜いても、マグラは苛立ちしか感じなかった。
「こんなにあっさりと、こんなに簡単に死にやがって」
本当は、もっと苦しめてやるつもりだった。生まれてきてごめんなさいと、これまでの行いすべてを懺悔させるつもりだった。だのに彼は、首を切っただけで死んでしまった。
「このやろう、俺の首は何十回と切ったくせに」
マグラはこれまで、主人に何度も殺された。新しい刀が手に入ったから。気に入らない相手が出世したから。花見に行ったのに桜が満開ではなかったから。そんな理由で主人はマグラの首を、胸を、腹を切り刻んだ。
マグラは何度切られても死ななかった。傷を負えば痛いが、それだけだ。主人はそんなマグラを好んでそばに置いた。マグラは主人の癇癪の捌け口として、人とは思えない扱いを受けていた。
「ずるいよなあ。俺は死ねないのに、このクズはあっさり死ねるなんて」
だがそれも今日までだ。マグラは秘密裏に、鬼神を呼び出す術を手に入れていた。必要だった道具は、主人に斬り殺されることで手に入る金子で購った。必要な贄の血は、憎い主人とその家族から搾り取った。
屋敷に火も放ち、鬼神を呼ぶ準備は、すべて整っていた。あとは当の鬼神に、己を殺してくれと頼むだけだ。
炎の中、おぞましい人の世から己を解放してくれるはずの鬼神の姿を、必死に探した。その途中で何度か死んだ。けれど彼の体は瞬く間に再生し、何事もなかったかのように桃色の皮膚が生えてくる。想像を絶する痛みであるが、幸か不幸か、主人の虐待のせいで、痛みには慣れっこになっていた。
やがて、炎の中にあって、いやに落ち着いた足音に気付いた。きっと鬼神だ。己を殺してくれる鬼神が、現れたのだ。
はやる心のまま、足音を出迎えに走る。
「わっ」
目の前で、炎に包まれた障子が、乾いた音を立てて爆ぜた。思わず腕で顔をかばう。頰に凄まじい熱を感じた。そしてその向こう、遮るものがなくなった視界に、人影が映った。
足音の主は、マグラの姿を認めると、驚いた様子で一歩足を引いた。男は一見して鬼神のようには見えない、実に涼やかな顔立ちの優男であった。着ている衣は高直そうではあったが、炎の中にあってはそれは定かではない。
しかし燃え盛る屋敷にいるというのに、男の着物は焦げ目ひとつなく、男自身も、苦しそうな様子などまったく見せていない。この男こそ、探していた鬼神だ。マグラは確信した。
マグラが話しかけるより早く、男が口を開いた。
「これは、お前さんがやったのかい?」
男は天気の話でもするかのように、あっさりと聞いた。
「ああ、そうだ」
「どうして、こんなことを?」
「あんたを、呼ぶためだ」
「……私を?」
男は訳が分からないというように、眉をひそめた。
「ああ、そうだ。あんたは俺を殺しに来たんだろう? 魂を地獄に引き摺り下ろしに来たんだろう?」
「……はあ?」
狂喜にむせび泣くマグラに、男は思い切り顔をしかめた。そうか、呼び出された鬼神は、なぜ呼ばれたかを知らないのか。確かに普通なら、鬼神を呼び出して頼むことといえば、誰か気に入らない奴を殺してくれとか、その類の願いに違いない。
しかし不死であるマグラが望むのは、その逆だ。
「願いが叶った。俺はこれで、ようやく死ねる」
憑き物が落ちたような、すっきりとした顔を男に向ける。しかしこれだけ説明してもまだ、男は険しい表情を崩していなかった。
「……お前さんは、何か、勘違いしているようだね」
そして男は静かに告げた。己は鬼神などではなく、従ってマグラの願いを聞き入れる義務もない。だからマグラを死なせるつもりもないと。
「ちょ、ちょっと待て」
それは困る。せっかくここまでしたのだ。だのに召喚したのは鬼神ではなかったというのか。
「別に私は、召喚されたわけではないんだけれど」
男が不満げにそうこぼしているのが聞こえた。
マグラは大きく首を振る。この際だ、男が鬼神でなくても構わない。
「だがあんたは、普通の人じゃないだろう。こんな炎の中平然としているんだ。ただの人のはずがない。
だったら、鬼神でなくてもいい。頼むよ。俺を死なせてくれないか」
男は何も答えない。すぐそばで、大黒柱と思しき太い柱が焼け崩れた。あたりに火の粉が散らばる。
「お、俺は極悪人だ。たくさんの人の命を奪った。生かしてはおけないだろう?」
男はしばらく黙ったまま、マグラを眺めていた。それから長く息を吐くと、やれやれと言わんばかりに首を振った。
「……私はね、閻魔の使いというわけでもないんだよ。悪人だからといって、殺さねばならない理由にはならないし、そもそも私は、死にたがりを素直に死なせてやるほど、親切でもない」
マグラの顔が絶望に染まった。男はちらりと横目でこちらを見る。
「だがまあ、そこまで言うのなら、願いを叶えてやってもいい」
「本当か!」
「ああ」
男は足音の一つも立てずにマグラの前までやってくると、人差し指をマグラの額に向けた。マグラは生唾を飲み込み、その様子を見守った。しかし特に何か変化があったわけでもないというのに、男は「はい、おしまい」と言って、こちらにくるりと背を向けた。
「お、おい、これで終わりか?」
男はマグラからかなりの距離を取ってから、振り返った。マグラは男を追いかけようと駆けるが、なぜだか男に一向に近づけない。男の足は止まっているのにも関わらずだ。
「いいことを教えてあげるよ」
これだけ離れているというのに、男の声は側で爆ぜる炎の音を飛び越えて、マグラのすぐ耳元で聞こえた。
「お前さんは自分のことを不死だと言っていたけどね、それは違う。お前さんは普通の人間より、少しだけ多く、命を持っているだけだ。
だから、死に続ければいつかちゃんと死ぬ。それが明日なのか五年後なのか百年後なのかは……知らない方が面白いだろう?
ああ、そうそう。お前さんがつけ火をしたこの屋敷だけどね、いつかお前さんが死ねたら、この炎は消えるよ。そういう呪いをかけたから」
願いが叶ってよかったね。男はそう言って姿を消した。
「待てっ」
マグラは男を追いかけた。話が違う。もう苦しみたくなかったから死ぬことを選んだというのに、この屋敷で延々苦しんで死ねと、男はそう言うのだろうか。
それからどこをどう探しても、男は見つからなかった。もう屋敷を出てしまったのだろうか。マグラは諦めて、己も屋敷を出て行こうと思った。苦しんで死にたいわけではないのだから、この屋敷に留まる理由はなかった。
しかし。
「なんで……この廊下、端がないんだ!」
十余年を過ごした屋敷だ。間取りを間違うはずもない。燃え盛る屋敷はマグラに何の違和感も与えず、しかしそのまま無限廊下となっていた。行けども行けども襖が続く。玄関にも、縁側にも出られない。
そんなはずがない。そんなはずあるものか。マグラは一方行に向けて、ひたすらに走った。こうしていればいつか必ず、出口に着くはずだ!
「……はあ、はあ。げほっ」
己の喉から、死人のような空咳が飛び出す。マグラは歩き疲れ、その場に倒れこんだ。喉が渇いて死にそうだ。いや、既に三回死んだ。腹が減って死にそうだ。いや、既に一度死んだ。炎に焼かれて死にそうだ。それはもう、数えきれぬほど死んだ。
それでも屋敷からは出られない。
マグラは己の目から、貴重な雫が零れ落ちるのを感じた。それを押し留めるだけの力ももはや残ってはいない。
外へ出ようとすることをやめると、不思議と向こうに空が見えた。久方ぶりに見る赤以外の色彩。しかしマグラが空へ向かって手を伸ばすと、陽炎のように美しい空は掻き消えた。
「くそっ!」
そういう呪いをかけたから。男の言葉が蘇る。マグラは度重なる死を迎えながら、無情な男を呪った。
「呪ってやる。俺が生きている限り、ここで、この屋敷で、炎の中で! あんたを、いや、この世の全てを呪ってやるぞ!」
男の呪いとは違って、マグラの呪詛に、力はない。今は、まだ。だがいつかきっと、この呪いが男を殺すと信じて、マグラは喉が裂けて死ぬまで、叫び続けた。
*
「お客さんも、あのお屋敷を見に来たんですか?」
柔和な顔の団子屋の主人が、ミツキに微笑みかけた。ミツキは燃え盛る屋敷に向けていた意識をぐいっと引き戻し、主人から茶と団子を受け取る。腰の曲がった老主人であったが、団子を持つ手だけは震えていない。
「いえ、たまたまです」
「では驚いたでしょう。こんな田舎に、こんなに人がいるんだから」
ミツキは素直に頷いた。
「みなさん、あれを目当てに来るんですか?」
「ええ、そうですよ」
主人はミツキから視線を外すと、有り難や、と言って燃える屋敷に手を合わせた。
「本当に、助かっとりますよ。あたしの父の話ではね、もともとここには、なぁんにもなかったそうですよ。ええ、なかったんです。
なんであのお屋敷が燃えてんのか知りませんけどね。お陰で物見遊山の客が、ひっきりなしにやってくる。あたしたちは毎朝目を覚ますとね、まずお山を見るんですわ。そしてまだ燃えているお屋敷を確認して、ほっと手を合わせて一日を始めるんです。
あのお屋敷の中には、きっと、それはそれは徳の高い神様がおわすんでしょうね」
「……そうですか」
主人の表情に、疑いの色など微塵も感じられなかった。問いかけているのではなく、己の考えを述べているだけだろう。
ミツキはそれには答えなかった。黙ったまま、燃える屋敷を眺める。その勢いは凄まじく、この後しばらくは、火が消えそうになかった。
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