第14話 使命 下

「やった!」


 途端。


「……えっ?」


 ぶわっと、風のような何かが吹いた。けれどそれはコウタの髪や衣を乱すことなく、もちろん色も何もなく、ただ不気味は気配だけが、コウタの体をすり抜けていった。

 喉が焼ける感じがした。胸と口の間に、とんでもない異物が入り込んだようだった。コウタは咳き込んで、それを吐き出そうとする。


「ごほっ! げほっ!!」


 手を口元に当てて、懸命に吐き出した。息が苦しくて、涙が滲んでくる。そうしてようよう、何かを吐き出した。


 それは血の塊だった。

 両の手を真っ赤に染めて、呆然と立ち尽くすコウタに、和尚が追いついた。コウタは口の端から血を流し、どうやら鼻からも出血があるようだった。貧血のせいか、それとも熱でもあるのか、体がぐらりと傾いだ。


 己の体に起きた異変に夢中になっていたコウタを、和尚が抱きとめる。痛ましげな眼差しの和尚は、いつか見た慈愛と初めて見る憤怒で、なんだかよく分からない表情をしていた。


「ミツキ、コウタを頼む」

「頼むって……私にどうしろと?」


 不満げに口を尖らせながらも、ミツキは和尚からぐったりしたコウタを受け取った。


「お前には貸しがあったろう。今返せ」

「……治せって?」

「できるだろう」

「そりゃあ、できるけど……。いいのかい? 私への貸しを、こんなところで使ってしまって」

「構わん。コウタが助かるなら」


 迷いのない和尚の言葉を聞いて、またしてもミツキは笑ったようだった。こんな状況で笑っていられる神経が分からない。


「冗談だよ。私たちの諍いに、人の子を巻き込んで死なせてしまうなんて、良くないからね。貸しはまた今度、別の時に使うといい」


 ミツキの手がコウタの目の上に降りてきた。反射的に目を瞑ったコウタの瞼に、ひんやりとしたミツキの指先が触れる。そこからじんわりと、暖かくて気持ちのいい何かが、身体中に広がった。

 唐突に、頭痛や吐き気、諸々の痛みが消え去った。がばっと体を起こすと、コウタを抱きかかえていたミツキの顎に、己の頭がぶつかってしまった。「いたた……」とミツキが情けなさそうな表情で顎を抑えている。


「あ、ごめん……なさい」

「あまり動かない方がいい。治ったとはいえ、直接疫病に触れたんだ。体には相当な負荷がかかっているはずだよ」

「疫病……」


 熱に浮かされたように呟くコウタの言葉に、ミツキはあっけなく反応した。綺麗に整った指先を、正面へと向ける。


「ああ、ほら。あそこで和尚が戦っているよ」


 コウタたちから十数歩ほど離れた場所で、和尚は険しい顔を向けて、丸い玉を睨んでいた。丸い玉は宙に浮いていて、周りに先ほど感じた風のようなものを纏っている。


「あれ、何?」

「だから、疫病さ」


 和尚が数珠を鳴らし、何か唱えている。玉はそれを厭うようにゆっくり揺れると、速度を上げて和尚に向けて突撃した。和尚は難なくそれを躱す。玉もそれは想定内だったのか、周囲の木にぶつかって軌道を変え、再度和尚を狙った。


「お前さん、和尚の知り人なんだってね? もしかして、和尚の持っている巻物を、見たことはあるかい?」

「ある」


 コウタは短く答えた。和尚たちの戦いに集中したいのに、ミツキがのんびりと会話を続けようとするのが、ひどくもどかしい。ミツキにとって和尚は味方ではないのか。和尚が必死に戦っているのに、ミツキに加勢する様子はない。


 コウタはというと、どうするべきか悩んでいた。和尚は妖だ。父の仇だ。憎むべき敵だ。しかし今まで、和尚はコウタにあまりにも優しく、そしてつい先ほどもコウタの命を救うべく、ミツキを説得していたではないか。


「おや、あるのか。これは驚いた。じゃあそこに、鬼の絵が描いてあったのは知っているね?」

「ああ」

「あれはね、正しくは疫病の絵だ」


 ばちんと音を立てて、玉が和尚にぶつかった。見ていたコウタはぎょっとして身をすくめるが、玉は和尚の数珠にぶつかっただけのようで、和尚に異変はない。

 ミツキは舞い踊る邪悪な玉を、まるで花見でもしているかのように眺めている。


「あの鬼は、疫病を撒き散らす悪鬼でね。

 彼の息は草木を枯らし、彼の声は水をも穢し、彼の姿は見る者全てを死に至らしめる……だったかな。ふふっ。少し大袈裟だよね。さすがの悪鬼も、姿を見せるだけでは虫一匹殺せないよ」


 和尚の数珠は、執拗な玉の攻撃を確実に防いでいた。もう何合めか、数珠と玉が打ち鳴らされる。


「あれは、ずいぶん昔に、京の都を苦しめていたそうだ。それを捕らえて巻物に封じ込めたのが、和尚なのさ」ミツキはそこで少し眉を曇らせ、和尚を見た。「でも、当時は和尚も若かったんだね。完全に封じることはできなかった」


 疫病は、封じ込められる直前に、己の体の一部を取り外し、放ったのだという。


「凄まじく強い疫病だったんだよ。それらは一部だけでも、疫病を撒き散らす能力を有したままだった。その後長い時間をかけて、和尚は欠けた疫病の部分を探し集め、巻物に封じ込めた。そうしてようやく、あと一つ、右目だけ封じれば、疫病は完全に封印される」

「それが……あの玉なの?」

「そうだよ」

「でも……」コウタはかぶりを振った。「じゃあどうして、和尚が通った道道で、疫病が流行ったんだよ」

「……ああ、なるほどね。それでお前さん、あんなに動揺していたのか」


 得心がいった。そう言ってミツキはぽんと手を打った。


「逆だよ」

「逆?」

「和尚はね、長いこと疫病を追っていたから、気配であいつらを追うことができるようになっていた。だから和尚は疫病を追いかけて、疫病が通った付近の村に、疫病を緩和する結界を張っていたのさ」


 その結界は、紫水晶の数珠を媒介して張ることができる。その効果は、結界内の疫病の弱体化と、疫病を閉じ込める能力だ。

 平時の倍の大きさに目を見開いたコウタを見て、ミツキが微笑む。


「疫病もなかなか賢くてね。和尚の気配に気付くと、逃げてしまう。逃げられたり、結界を食い破られたり、そうやってもう何十年も、和尚は疫病と戦っているのさ。

 ……でも今回は、期待できるかもしれない」


 度重なる戦いに、疫病は明らかに疲弊していた。

 そもそも結界内に疫病を閉じ込めることに成功するのは稀だそうだが、実は和尚は先月も一度、それに成功している。これほど短い期間に、二度も弱体化の術を叩き込まれ、和尚の術と戦うことになるのは、疫病にとって致命的とも呼べる失態であった。


「それになんだか、今日の和尚は気合が入っているように見えるからねぇ」


 己の膝小僧に肘を乗せ、ミツキは頬杖をついていた。視線の先では、和尚が傷だらけになりながらも、疫病に数珠を向け、叫び、戦っている。


「それ……本当?」


 己の声が掠れていた。


「うん?」

「本当に和尚は、おれたちを助けようとしてくれてたの?」

「だから、そう言ってるじゃないか」


 それでも迷いを見せるコウタに、ミツキはため息を漏らした。


「まあ、信じる信じないは任せるけどね。

 自分で判断してごらんよ。お前さんが知っている和尚は、どんなお人なのかな」


 コウタはぎゅっと拳を握りしめた。

 コウタが知っている和尚は……のんびり屋で、坊主なのに不摂生で、たぬきみたいな出っ張ったお腹で……そして誰よりも、優しかった。


(和尚……和尚……。ごめん……!)


 目から涙がにじんでいた。コウタは和尚に、こんなにもひどいことをしたのに、和尚はコウタたちの方に疫病が行かないように、コウタに背を向け戦っている。その背は大きく、たくましく、とてもとても、格好良かった。

 勘違いだった。早とちりだった。己がきちんと和尚の話を聞いていれば、こんなことにはならなかったのに。


 謝らなくては。今度こそ許してもらえないかもしれないが、誠心誠意、謝らなくては。でも今ここで、和尚に言うべき言葉は別にある。


「和尚、頑張れ!」


 力の限り、叫んだ。和尚がぎょっとして、こちらを振り返る。頑張れと叫ぶコウタを視界に捉えると、和尚は束の間心底安心したような、柔らかい表情をした。


「和尚! 前、前!」


 そんな和尚に、今が好機と、玉が迫った。すると和尚は、やはり坊主らしからぬにやにや笑いを浮かべると、懐に手を伸ばした。

 ばっと巻物を広げ、呪を唱える。

 巻物が光った。そのあまりの眩しさに、コウタは目を閉じてしまった。瞼の裏まで灼くような真っ白な光は次第に収束し、消えていった。


 恐る恐る目を開けると、和尚が満足げに巻物を眺めていた。気付けばミツキが隣に並び、二人揃って巻物に目を落としている。慌ててコウタも駆け出して、巻物を見せてもらった。

 そこには、いつか見た、恐ろしく強そうな鬼が描かれていた。しかしその表情は、どこか悔しげである。


「あっ」


 そして鬼には、きちんと両目が揃っていた。

 和尚とミツキは互いに頷きあう。


「はい、お疲れ様。これでお役目はこなせたね」

「なんとかな。ああ、疲れた。老体にはこたえるわい」


 和尚は巻物をくるくると丸め、ミツキに手渡した。ミツキはそれを受け取ると「確かに」と言って懐にしまった。

 役目を果たしたという和尚は、重荷を投げ出した開放感からか、どさっと地面に寝転んだ。右手を振りながら、ミツキに酒を買ってこいとせがむ。


「酒だ、酒。とびきりのやつだぞ。おいミツキ、今夜は付き合えよ」

「構わないけれど、お前さん、お酒は飲んでもいいの?」

「なあに、黙っておけば誰にもばれはせん。それに、今日くらい神仏も大目に見てくださるはずだ。お前が一緒に飲んでいるとなれば、なおさらな」

「悪いことをしている自覚はあるんだねぇ。それに私を巻き込まないでほしいなあ」


 コウタはぼやくミツキの脇をすり抜けると、寝転がった和尚の脇にしゃがみ込んで、傷だらけの顔を覗き込んだ。


「和尚!」

「おお、コウタ。すまんなあ。怖い思いをさせちまって」


 和尚のゴツゴツした手が、コウタの頭を優しく撫でた。コウタは勢い良く首を振る。涙の雫があちこちに飛んで行った。


「おれこそ……ごめん! 俺、和尚が疫病を撒き散らしてるだなんて、バカなこと考えた」

「いやいや、勘違いしても仕方ないのう。何しろお前には、何も話してやらんかったからなあ」


 それよりも、己の話した村のこと、旅した順まで覚えていたのか。それはすごい。そう言って和尚は目尻に皺を寄せる。


「和尚、怪我、大丈夫?」


 問われて、和尚はようやく怪我のことを思い出したらしい。ボロボロの衣を見下ろし、やられた、と言わんばかりに額を叩いた。


「しまった。破れてしまったか。これは……わしには縫い直せんな」

「そんなことより、怪我だよ!」


 服からは血がにじんでしまっている。コウタが無理やり衣をめくって傷の具合を確かめると、しかしそこにはまっさらな肌があるのみだ。


「えっ? ……怪我は?」

「なあに、わしは頑丈なのさ。いてっ!」


 傷口のない腕を、ミツキが突いた。すると和尚は驚くほど痛がっている。


「何をするか! 小僧!」


 和尚が振りあげる拳を軽々と避けて、ミツキが笑いをこらえていた。こらえきれてなかったが。


「痩せてもいないのに、痩せ我慢はよしたらどうだい? 表面だけ化けて、取り繕っているだけだろう」


 ふんと鼻を鳴らして、和尚がぽんと手を叩いた。すると瞬く間に、和尚の顔の傷も治った。いや、彼らの会話から察するに、見えなくなったと表現するのが正しいのか。


「ねえ。和尚は、何の妖なの?」


 和尚が答えようとするのを遮って、ミツキが答えた。


「何だと思う? 考えてごらん。化けるのが得意な妖だよ」


 コウタは必死に考えた。妖にはあまり詳しくはないが、化けるのが得意というと、狐か、たぬきか、猫か。いや川獺かも……。


「分からないか。じゃあ特別だ。和尚のお腹を見てごらん」


 ミツキの言葉を聞いて、コウタはパッと顔を上げた。


「たぬき!」

「正解」


 如何ともしがたい表情で黙り込む和尚を尻目に、コウタとミツキは、顔を見合わせて、それはもう、大いに笑った。







 この世には八百万もの神々がおわすという。だから、そのうちの、どの神様の仕業かまでは分からなかったが、コウタには、一つ確信していることがあった。

 己は、間違いなく神に愛されている。


「コウタ、そろそろ行くぞ。支度せい」

「もう終わってるよ、和尚」


 和尚の声を合図に、コウタは小さな荷を肩に担いだ。一週間お世話になったボロ屋に、最後に一礼する。すっかり着慣れた僧衣が、足元でしゃらんと音を立てた。


「和尚、次はどこの村に行くの?」

「決めとらんよ。追わねばならん疫病は、もういないからな」

「ふうん。まあいいや。おれはどこでも付いていくから」


 歯を見せて笑うコウタに、和尚は渋い顔を見せた。


「村を出て、もう一月になる。母に会えず、寂しくないか? 村に帰りたくはならないのか?」


 和尚の不安はまだまだ山のようにあるらしい。ボロ屋での生活は苦しくないか? 夜は寒かったが寝られたか? 旅に疲れて熱など出ていないか? 今更嫌になったと言い出せない、なんてことはないか?


「……和尚は、おれと旅をするのが嫌なの?」


 コウタは頬を膨らませた。和尚の顔が少し焦ったように見える。


「そうじゃないが……」

「おれ、決めたんだ。和尚についていくって。弟子にしてくれって言ったら、和尚もいいよって言ったじゃないか」

「あんなのは無効だ」

「無効じゃない。ミツキっていう証人だっているんだよ」

「わしを酔わせてから頼み込むとは……。コウタ、お前も小狡いのう。いや、どうせ小僧の入れ知恵だろう。

 ミツキの小僧め。今度会ったらとっちめてやるわい」


 和尚は大仰にため息をつく。対照的に、コウタは輝くような笑顔を向ける。


「さ、行こ!」

「……仕方ないのう」


 コウタは間違いなく、この世界で最も、神に愛されている。


 だって、強くて優しくて、ちょっとお腹が出ているけれど、己と父と母を救ってくれた大恩人に師事するという、一生退屈することのない使命を、己に与えてくださったのだから。

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