第14話 使命 上

 この世には八百万もの神々がおわすという。だから、そのうちの、どの神様の仕業かまでは分からなかったが、コウタには、一つ確信していることがあった。

 己は、間違いなく神に愛されている。


 コウタは頭が良かった。腕力もあった。けれどコウタにそれを確信させたのは、そんな些細なことではない。

 コウタには、母の胎の中にいたときの、記憶があった。






 コウタの最も古い記憶は、狭くて暗い場所。体を動かすことも、声を発することもできない。外の様子もうかがえない。ただ、くぐもった声だけが聞こえていた。


「あなた、あなた……!」


 これは、母の声だ。


「あまり泣きなさるな。ほれ、旦那どのがあの世に行けず、困っておる」


 優しげに話しかける、男の声。おそらく老人だ。


「あんまりだわ。もうすぐこの子も生まれるのに……どうして……」

「疫病は、時と場所を選ばぬ。わしのように、死にかけの老人がピンピンしておるというのに、まだ若い、健康な若者を狙うことも、ある。

 大事なのは、負けないことだ。疫病は恐ろしい。けれどお前さんが絶望してしまったら、今度こそお前さんは負けてしまう。

 ほれ、見てみい。旦那どのの勇敢な様子を。最後まで立派に、疫病と戦った戦士の顔だ」


 ぐすっと、鼻をすする音が響く。そして母が呟いた。

「シュウスイ和尚……」






 折を見て母に聞いたことがある。己の父は、どこにいるのかと。すると母は目に涙を浮かべ、言った。


「お前のとと様はね、疫病と戦ったの。それで、亡くなってしまったのよ。立派な……とても立派な、最期だったわ」


 コウタは己の記憶が正しかったのだと知った。

 幼い頃、誰に話しても信じてもらえなかった。だから気付いた。己は特別なのだと。

 そしてコウタは確信していた。己は特別だから、その力を振るうべき場所が、必ずあると。神は己に何らかの役割を与えたのだと。


 五年待った。いつか来るはずのその日に備え、大いに学び、大いに体を鍛えた。これかいつの日か役に立つと、コウタは確信していた。

 八年待った。暮らしは決して楽ではなかったが、大きな事件は起こらない。平和そのものだった。

 十四年待った。まだ事件は起こらない。己の中に溜まった力は、振るうべき場所を見出せない。


 十四になる頃には、コウタは見目も良く、よく働き、賢く力持ちな若者に成長していた。だから舞い込んでくる縁談も多かった。しかしコウタはそれには応じなかった。己には使命がある。そのとき嫁を巻き込むことになっては敵わない。幸いまだ若かったから、良縁を断り続けるコウタに対して、母がとやかく言うこともなかった。


 とうとう十六年の月日が経ったある日、ほとんど変化のない村の暮らしに、一つの変化が訪れた。

 コウタは己には使命があると、確信していた。しかし十六年という月日は、ただ使命を待つだけにしては、あまりに長かった。本当に神は己に使命を与えたのかと、疑いたくなる日もあるほどだった。


 だから些細な変化でも、それは大いにコウタを刺激した。







「もし」

 近所の川で水汲みをしていると、全体的に丸い印象を残す老人に、声をかけられた。


「はい、なんでしょうか」


 額に浮かんだ汗を手の甲でぬぐって、コウタは顔を上げた。老人は修行僧のような衣を着ており、うらやましいことに、腹にたっぷりと肉を蓄えていた。この辺りの村は貧しく、中年の男であっても、でっぷりと太ることは困難だった。

 たぬきの置物みたい老人は、目の端に寄った皺を深くして、にっこりと微笑んだ。


「この村のお方かね? 長にお目にかかりたいんだが……」

「ああ、村長の家ですか。ご案内しますよ」


 ひょいと桶を持ち上げて、老人に付いてくるように促した。水がたっぷり汲まれた桶を、なんとも軽々と持つコウタに、老人は目を見開いた。


「おお、お前さん、力持ちだねえ」

「鍛えているんですよ」


 言われ慣れてることだが、褒められて悪い気はしない。

 老人は、それは素晴らしいと言ってから、自己紹介もしていないことを思い出したようだ。はっとして、それからふにゃりと笑って頭を掻いた。


「おお、そういえば、まだ名前も言ってなかったね。すまない。

 わしは、キクスイ和尚だ。ん? 和尚が寺以外の場所にいるのは、そんなに不思議かね。うん。だがまあ、わしは修行中の身だからな。そういうこともあるわさ」







 己が変化を渇望していたことに加え、そんな縁があったから、コウタはしばしば和尚に会いに行った。


「おお、コウタ」


 和尚は村はずれのボロ屋で暮らしていた。それは家というよりは納屋だったし、さらに言うなら、納屋というよりは廃屋だった。

 初めてそれを知った時、いくらよそ者だからといっても、その扱いはないだろう、と憤慨した。しかし和尚は


「いや、なに。家を借りられただけ、有難い話だ。どうせ数日のことだしね。なあ、コウタ。お前は清貧という言葉を知っているかね? わしにはこのくらいでちょうどいいのさ」


 と言って、脂肪の乗った腹に手を当て、豪快に声を立てて笑った。







 この日もコウタは、神仏に導かれるような心地で、和尚の家へ遊びに行った。修行と称してあちこちを旅して歩いているという和尚は、見聞が深かった。見知らぬ土地の話を聞くのは面白い。お調子者の和尚のことだから、もしかしたら幾らか話を盛っているのかもしれないが、そんなこと気にならないくらい、和尚の話は楽しかった。

 和尚は地図をコウタに見せて、己がどんな道のりを歩いてきたか、教えてくれた。地図の読み方などコウタにはわからなかったが、和尚が丁寧に教えてくれたから、なんとなくは読み取れるようにもなった。


 コウタは和尚の旅路をなぞるように、何度も何度も地図の上に目を滑らせた。まるで己まで各地を旅した剛の者に思えてきて、わくわくしたのだ。そのおかげで、このあたりの地図は、あらかた頭に入ってしまったが、和尚の話のネタは尽きることがなく、今でも新しい冒険をコウタに与えてくれた。


「和尚!」


 コウタは戸の前で声を張り上げた。戸を叩いたら、そのまま壊れてしまいそうだったからだ。しかし和尚は出てこない。留守だろうか。

 元々和尚は修行のためにこの村を訪れたとかで、家にいないことも多い。ついて行くことは断られてしまったため、紫水晶の数珠を鳴らして修行に向かう和尚を、コウタは何度か見送っていた。


「入るよ、和尚」


 和尚がこの村に来てから二週間。コウタにとってこの家は、もはや己の居場所のように馴染んだものになっていた。当然鍵など付いていないから、戸を滑らせるだけで簡単に入れる。


 中には誰もいなかった。やはり留守だったようだ。

 コウタは申し訳程度に敷かれた茣蓙の上に、どさっと身体を横たえた。


「いてっ」


 何かが身体に当たった。不機嫌な顔でそれを持ち上げる。


「巻物……?」


 ようよう部屋を見回すと、部屋の隅に放ってあった和尚の風呂敷がほどけている。そのせいで、中のものが飛び出してしまったらしい。


 食べ物以外に対しては、きちんと清貧を尊ぶ和尚は、個人の持ち物が非常に少ない。そんな和尚の持つ風呂敷には、これでもかと言うほど巻物が詰め込まれていた。その中でもコウタがぶつかった巻物は、明らかに古い代物で、紙は黄ばみ、留め具は壊れかけていた。


(これ……何だろう)


 物を持たない和尚が、こんなに古くなっても大切にしている巻物。

 好奇心に勝てず、コウタは巻物を広げる。古い巻物は所々字が霞んでいたが、そもそもコウタは字が読めない。さらに巻物を広げる。そこには絵が描かれていた。


「……すごい」


 コウタは思わず息を飲み、その絵に見惚れた。


 それは、片目の鬼の絵だった。

 黒い墨で描かれているとは思えないほどの質感があった。ああ、この鬼は齢百を越える大妖なのだな、と直感でわかる。きっとその爪で、その牙で、幾人もの命を屠ったのだろう。片方しかない、おぞましい眼差しは強く、鋭く、そして冷たい。


 絵だとわかっていてさえ、コウタは凍りつくような恐怖を覚えた。そしてそれに、一種の心地よさを覚えた。ああ、これだ。コウタは理解した。十六年間コウタが求めてやまなかったのは、この興奮なのだ。

 コウタは熱に浮かされたような、とろんとした目で鬼を見つめていた。理由などわからない。けれどどうしても、この巻物を破いてしまいたくなった。いや、破かねばならないのだと確信していた。鬼を傷つけぬように、その周りだけ、そぅっと。


 コウタの指が、意識の外で動く。両の手の親指と人差し指が、年月によってぼろぼろになった紙をつまんだ。あと少し力を入れれば、心地よい音を立て、忌々しい巻物は壊れるだろう……。


「コウタ!!」


 いつの間に戻ってきたのか、和尚が珍しくも怖い顔をして、コウタの手から巻物を叩き落とした。目を吊り上げた和尚は、コウタの両肩をがっしりと掴んで揺すった。


「しっかりしろ! コウタ、大丈夫か!」

「お、和尚……? おれ……おれ……」


 コウタは目を白黒させて、和尚を見た。


(おれは今……何をしようとした?)


 己で、己のことが信じられなかった。和尚が大切にしている巻物を、和尚に黙って破くなど!


 あの時は、巻物を破らなくてはいけないと思っていた。それが正しいことだと信じていた。まるで己に課せられた使命であるかのように。けれど今……巻物から手が離れた今は、全くそんなこと思わない。

 コウタのそんな様子を見て、和尚はほぅっと肩の力を抜いた。つり上がった目が、元のおたふく顔に戻っていく。


「良かった。間に合ったようだな」

「和尚……! おれ、その……ごめん……!」


 瞳に涙さえ滲ませながら謝る。和尚が来るのがあと少し遅れたら、コウタは和尚の大事な巻物を、破ってしまっていたに違いないのだ。

 しかし和尚は首を振って、コウタの頭を優しく撫でた。


「謝るな、コウタ。これはお前のせいじゃない。こんな危ない物を置きっぱなしにしていた、わしが悪い」

「……危ない物?」


 コウタは首をかしげた。ただの巻物が、どうすれば危ない物になるのだろう。

 問いかけるコウタに、和尚は首を振った。


「ただの巻物ではないのだよ。お前も、さっき経験したばかりじゃぁないか」


 コウタは床に転がった巻物を見下ろす。たしかに気味が悪い。描かれている片目の鬼が、杜撰な扱いに抗議するように、ぎょろりとコウタを睨んだ。

 コウタの視線に気づいた和尚が、それを丁寧に巻き直す。鬼が隠れて見えなくなると、コウタはようやく肩の力を抜いた。


「ここには、鬼が封印されておる」


 正真正銘、本物の鬼が。


「しかし封印は不完全でな。この鬼めは、わしの支配から抜け出そうと、虎視眈々と機会を狙っておるというわけよ」

「もし……おれが巻物を破っていたら」

「鬼が飛び出していたろうな」


 恐怖に凍りつくコウタに、和尚は優しげな眼差しを向ける。


「怖がらせてすまなかったな。でも、もう大丈夫だ。

 わしはもう、この村を出るから」

「えっ?」


 コウタは目を見張った。和尚が出て行く? もしかして……己が巻物を見てしまったからだろうか。鬼に騙されかけたからだろうか。

 確かに、和尚が剣呑な巻物を持っていることが村長にでも知れたら、きっと和尚は追い出されるだろう。村長は立場上、村を危険に晒すわけにはいかない。


「待ってよ和尚。おれ……絶対に誰にも言わないから!」


 和尚の服を掴み、嘆願する。しかし和尚は首を振った。


「元々、長居をするつもりはなかったのだ。わしは修行中の身だしの。

 それに……わしはもう若くない。この命が尽きぬうちに、為さねばならぬことがあるのだよ。

 コウタ、これはお前のせいじゃない。わしの勝手な都合なのだ」


 和尚の目は優しかったが、その向こう側に、固い意志を感じた。

 村を出て行く和尚を止めることは、コウタにはとても出来なかった。

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