第13話 呪いの鏡 後編
村じゅうの男たちが三日三晩捜索しても、娘が見つかることはなかった。名主だけは未だ諦めきれぬ様子で、家人を使って娘の捜索を続けていたが、キスケを始め、ほとんどの村人が、娘のことはもう無理だと諦めていた。
そしてとうとう十日も経つと、名主の顔にも絶望が浮かび始めた。
人攫いにあって、売り飛ばされたか。どこかで事故にあって、死んでしまったか。
あるいは……呪いの鏡に喰われたか。
(馬鹿馬鹿しい! 呪いの鏡なぞ、あってたまるものか)
そう思いながらも、キスケは気味悪そうに、布で雁字搦めにくるんだ鏡を見やった。
昨日は、粉々に砕いて土の中に埋めた。一昨日は、川に投げ捨てた。その前の日は、森の奥深くに捨ててきた。しかし必ず翌日の朝には、傷ひとつない鏡がキスケの枕元に戻ってきた。
「はぁ……。どうしたものか」
昼間っから河原に座り込んで、キスケは一人頭を抱えていた。
鏡について分かったことは、誰か次の持ち主を見つけない限り、捨てようが壊そうが、己の元に戻ってきてしまうということだ。中を覗いていないキスケに今のところ被害はないが、名主の娘に起きた悲劇を思うと、恐ろしくてたまらない。
誰ぞに売ってしまおうかとも思う。しかしその誰ぞがまた消えてしまったら、これが本物の呪いの鏡だと証明するようで、恐ろしい。もしそれで己が裁かれる事にでもなったらと思うと、なお恐ろしい。
しかもその場合、また鏡はキスケの元に帰ってきてしまう。
(あたしがこれを手放すには、鏡を決して覗かない人に、売り払うしかない)
しかし鏡として使うことのできない手鏡を、どこの誰が好んで買うというのだろう。己のように金子をもらって引き取るのならまだしも、そんな曰く付きの鏡を買う物好きなど、そうはいるまい。しかしだからといって、物を人にやるために金を払うなど、キスケには許せなかった。
鏡に巻かれた布を、そうっと解いた。裏面だけならばたいそう美しいそれを、憎々しげに見やる。
「はあ、困った。なんだってあたしが、こんな目に遭わなきゃぁいけないんだ」
お天道様に向けて唾をはきかけるようにぼやく。すると、思いもよらないほうから返事があった。
「あれ、何かお困りで?」
驚いて振り返ると、そこには見事な藍染の着物を着た、若い旅人が立っていた。旅人は見るからに身なりがよく金持ちそうで、さらに言うなら涼やかな目元が憎らしかった。
金も容姿も、おそらく身分もあるに違いない。キスケが大嫌いな類の人種であった。
「いえ、別に何もありゃしません」
そう言いかけて、キスケの頭にまたしても素晴らしい考えが浮かんだ。
(この男……ここいらの人間じゃあ、ないよな)
少なくともこの辺りに、この男の身分に似合いそうな家は、そうはない。唯一可能性がある名主の家に、この年頃の男はいないはずだし、男の身につけている着物や帯は、名主の家でも見たことがないくらいに高直そうだ。
(じゃあ、例えばこの男が明日行方不明になったとて、だれも気づかないんじゃないか?)
旅先で事故にあった。そう思われるのが精々だろう。男の失踪は誰に知られる事もなく、つまり番屋に駆け込まれる事もなく、己が疑われる心配もない。
「あのぅ、旅人さん。なんか、鼻の頭に黒いもんが付いとりますよ」
気づけば、キスケの口は勝手に動いていた。
「え?」
旅人は手の甲で鼻の頭をこする。
「とれたかな?」
「いいえ、残っとります。ああ、ちょいと待ってください」
キスケは手鏡を取り出した。その鏡面が己の方に向かないように気をつけながら、旅人の男に鏡をかざす。
「ほら、これでどうです?」
旅人は呪われた鏡を覗き込み、まじまじと己の顔を見ていた。しかしやがて首を傾げて、キスケに困り顔を向けた。
「やはり、汚れなど付いていないように見えるのだけれど……」
「あれ、ほんとだ。もう汚れ、とれてましたね」
すんません、と謝りながら、キスケはさっと鏡を布の中にしまいなおした。照れ笑いを浮かべると、旅人もふんわりと微笑んだ。
「ところでその鏡だけど、とても美しいね。どうだろう、私に譲ってはくれないか」
「えっ」
目から鱗のその言葉に、キスケはちょいと言葉に詰まった。
旅人は何を考えているのかわからない笑みを浮かべながら、「値段は、そうだね……」と、鏡にしてはいささか高い金額を提示した。
寸の間、キスケはためらった。たしかに旅人の金払いは悪くないらしい。しかしこの鏡はただの鏡ではない。珍かな蒔絵の鏡なのだ。もしキスケがうまく交渉したら、もっとうんと高い金で売り払うこともできるだろう。
(いや、だが、せっかく呪いの鏡を買ってくれるというのだ。もしかしたら明日、戻ってきてしまうかもしれないが……万一という事もある。これを逃す手はない)
もし少しでも渋って、旅人が買うのをやめてしまっては、目も当てられない。
「そこまでおっしゃるなら、お譲りしやしょう」
キスケは金と交換に、鏡を旅人に手渡した。
「ところで旅人さん」
「なんだい?」
「今夜は、どこにお泊りで?」
「この村で宿を借りるつもりだよ。それが、どうかしたかい?」
「いいえ、なんでもありません」
キスケは笑顔で旅人の問いに応じた。これは心からの笑顔だった。
この村で一晩明かすなら、旅人が果たして鏡に喰われたかどうか、調べるのも容易いだろう。
翌日のこと。
「た、旅人さん!」
叫ぶと、村を出ようとしていた旅人は、声の大きさに驚いてか、飛び上がった。
「おや、昨日の……」
「ご無事だったのですね!」
「……はあ?」
訳が分からず首をかしげる旅人に、キスケは「ああ、いや、こっちの話で」と慌てて繕う。
旅人が、無事だった。
間違いなく鏡を覗き込んだ旅人が無事だった。
ということはつまり、鏡にかけられた呪いは、捨てられたら戻ってくることだけで、人を喰ったりなぞしないのだ! 名主のお嬢さんの失踪は、たまたま別の不幸が重なっただけに違いない。
キスケは心底安堵して、涙さえ流しそうになっていた。しかしこうなってくると、鏡を二束三文で売り払ったのが口惜しい。
「あのですね、旅人さん」
「はい」
「昨日売った鏡は、お持ちですか?」
「もちろん」
旅人はそう言うと、懐から手鏡を取り出した。鏡面が地面を写していることに安堵するが、すぐにそれが迷信であったことを思い出した。
「旅人さん、一度売っておいて申し訳ないが、これを返しておくれでないか」
真面目な顔で頼み込むと、旅人は露骨に眉をひそめた。キスケは旅人の手ごと呪いの鏡を握り、何度も頭をさげる。
「すんません、本当に、すんません! でもどうしても、売れなくなってしまったんです!」
そのあまりの勢いに、旅人がぎょっとして身を縮めた。その隙を逃さず、ほとんどひったくるようにして鏡を取り返した。
「あっ」
「これ、もらってたお金です」
袋に入った金子を、旅人に無理やり押し付ける。そして旅人の返事も待たずに一目散に逃げ出した。
「ちょいと、お前さん!」
旅人が叫ぶのが聞こえたが、それは無視して走り続けた。
「お前さん、だめだよ! その鏡は……」
そのあたりから、旅人が何を言っているのか分からなくなった。
キスケは己の家へと帰ってくると、すぐに鏡を売り飛ばす算段を始めた。この鏡なら、かなりの金になる。
まずキスケは隣のイダに、しばらく家を開けるから、己がいなくても心配するなと、言付けしておいた。これで己の姿がなくなっても、騒ぎにはならない。
地図を取り出し、広げる。この貧乏な村では、名主の家族以外に、蒔絵の手鏡を購えるような客はいないからだ。
大店が集まるという、人と物と金子で賑わう場所まで行くには、何度か旅籠に泊まる必要もあるだろう。しかし今キスケには金があった。失踪したお嬢さんに鏡を売ったときの金だ。
旅立ちの準備は、そう長くはかからなかった。貧乏なキスケには、個人の持ち物はそう多くない。
最後にキスケは、勇気を出して呪われた鏡を覗き込んだ。はじめは目をつむっていた。ゆっくりと目を開けると、おっかなびっくりした己の顔が、つるつるした鏡の中に写っていた。
「は……はは……」
なんだ、こんなものか。キスケの全身から力が抜け落ちた。呪いだなんだと言うから、どんなおぞましいものかと思えば、たいしたことないじゃあないか。旅人が無事であったのにも、頷けるというものだ。
「……寝るか」
つぶやいて、ごろんと横になった。明日は、早くに立とう。呪いの鏡がもたらす金子という幸運を思い、キスケは幸せそうな表情で眠りについた。
そして、その翌朝。
村人たちは、小さな異変に首をかしげることとなった。キスケの姿が、村のどこにも見当たらなかったのだ。
キスケは真面目な性格ではないが、家に閉じこもっているような性分でもなかったため、周りの人間は、キスケはどこに消えたのかと、井戸端に集まって、心配そうに噂話をしていた。
そこに、隣に住むイダが通りかかった。
「ああ、イダ。ちょうど良いところに」
皺の多い年増の女が、肩に鍬を乗せたイダを呼び止めた。
「何? みんな揃ってどうしたんだ」
「お前さん、キスケを見なかったかい? いつもなら、川辺で昼寝でもしている時間だろ?」
不安げな女とは対照的に、イダの顔に苦笑が浮かんだ。
「ああ、あいつなら、良い儲け話を見つけたから、数日家を開けると言っていたよ。まったく、今度は何を始めるんだか」
その答えを聞いて、村人の顔に安堵の色が広がる。
「ああ、そういうことかい。あいつにも困ったもんだ。いつか取り返しのつかない何かをやらかすんじゃないかと思うと、気が気じゃあないよ」
「本当にねえ。それでも、なんでか見捨てようとは、思えないのよね」
女衆の笑い声が、さざ波のように広がった。
それを見て、イダも笑った。
「明日になるか、明後日になるか、はたまたひと月後になるか。
あいつが戻ってきたら、そん時ゃ、儲けた金で旨いもんでも、おごってもらうとしようや」
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