第13話 呪いの鏡 前編
はあ、またか。キスケは胸の内で溜め息を零した。
長屋で目をさますと、その枕元に小さな手鏡が置いてあった。しかも恐ろしいことに、鏡面が上を向いていた。もしかしたら、また戻ってくるかも。そう覚悟していなければ、うっかり中を覗いていたかもしれない。
キスケは手近な布で、鏡をぐるぐる巻きにした。千に一、万に一にも鏡を覗くことがないように。
いつどこで、捨てることができるか分からない。だからキスケはこの恐ろしい鏡を、毎日毎日持ち歩く。たいした重さでもないはずの鏡を懐にしまい込むと、それはやけにずっしりと、キスケの着物を重くした。
あの時は、まさかこんなことになるとは思っていなかったのに。
事の起こりは、半月ほど前のこと。小さな村に珍しく来た旅人が、どうやらどこぞの小金持ちだったらしく、貧乏な村に、随分と金子を撒いて去っていった。
キスケもその恩恵に預かり、随分儲けさせてもらった。そしてそのとき、男が懐からぽろりと何かを落とした。
「あれ、旦那、何か落ちましたぜ」
それは何やら布で雁字搦めに包まれており、中が見えない。それを拾おうと手を伸ばすと、旅人が怖い顔で叫んだ。
「それに触れるな!」
それまで機嫌よく酒を飲んでいたのに、旅人が急に声をあげるものだから、キスケは驚いてすくみあがった。旅人は大声を出したことを恥じ入るように「相済まない」と呟いた。
「いったい、どうしたんで?」
恐る恐るキスケが問うと、旅人は少々ためらいながらも、酒で口が軽くなったのか、ペロリと喋ってくれた。
「それはな、呪いの鏡なんだ」
「はあ? 呪い……ですか」
意図せずして、己の喉から胡乱な声が漏れた。しかしキスケはぐぐっと顔面に力を入れて、一生懸命真面目な顔を取り繕った。
いかにも胡散臭い話だったが、この旅人には、随分と稼がせてもらったのだ。少しくらい話に付き合ってやろう。そんな気持ちになっていた。
「その鏡に顔を写すとな、翌日、その者がどこぞに消えているのだ」
旅人はそう言いながら、ぶるりと身震いをした。キスケは「へえ、そりゃあまた、恐ろしいことで」と言いながらも、酔いの回った男の言葉など、何一つ信じてはいなかった。
旅人は赤ら顔を地面に向け、ため息をこぼす。
「捨てようにも、こいつは人間を食いたくて仕方ないらしくて、誰か別の人間の手に渡るまで、決して俺から離れちゃくれないんだ。気味が悪くて仕方ない」
そのとき、キスケの頭にきらりと光る、素晴らしい考えが浮かんだ。
「ねえ、旦那。そうしたらその鏡、あたしに預けてみてはいかがです?」
「お前に?」
「ええ、そうです。もちろん、ちょっくらお代はいただきますが」
旅人はしばし躊躇して、でもすぐにキスケに鏡を渡した。一刻も早く手放したかったのか、手鏡がキスケの手に渡ると、さぞ安心した様子で胸に手を当てた。
旅人は何度も礼を言い、その何倍もの「決して中を見てはならぬ」との警告をキスケに送った。
旅人が去った翌日、キスケは念のために鏡面を覗きこまないよう注意しながら、風呂敷に包まれた鏡を開けだしてみた。
「おお、こいつはすごい」
呪いの手鏡の裏面は、なんとも美しい蒔絵であった。田舎の貧乏暮らしでは、一生かかっても見ることなどできないような代物だ。
キスケはここでちょいと考えた。
(まさか、本当に呪われてるなんてこと、あるまい。ならばあたしが鏡を売って一儲けしても、誰にも迷惑はかからないってわけだ)
蒔絵の手鏡は、さぞ良い値段で売れることだろう。
寸の間、旅人の警告が脳裏をよぎった。
(人を喰らう、呪いの手鏡……か)
キスケは旅人の言葉を鼻で笑った。
(ふん。怖い怖いと思うから、そんな幻想にとっつかれるんだな。あたしはそんな馬鹿な話、信じたりはしないよ)
けれどキスケは、己で鏡を覗き込むことだけは、決してしなかった。
「大変だ。名主の一人娘のお嬢さんが、いなくなった」
息を切らせてキスケの住む家の戸を叩いたのは、隣に住むイダだった。その言葉を聞いて、キスケはぽかんと口を開ける。
「いなくなったって……拐かしにでもあったっていうのか?」
娘は今年で十四になる器量好しだった。人攫いにでも捕まってはいけないと、両親はまるで深層の姫君のように、娘を大事に育てた。昼日中に少し外に出るだけでも、必ず誰か付き人をつけるほどの気の入りようだ。一体どこで拐かされたと言うのだろう。
すでに隣の村の名主の息子との縁談も進んでおり、娘は輿入れの日を楽しみにしていた。身分違いの恋による駆け落ちということもない。
キスケの思いを読んだみたいに、イダは首を振った。
「何があったのかは分からん。でもお嬢さんがいなくなったことだけは、間違いないんだ」
話によると、娘は夜、きちんと己の蒲団で眠ったらしい。そこまでは家の者が目撃している。しかし今朝になると、娘の蒲団はもぬけの殻で、屋敷も村も、隅から隅まで探しても、娘の姿は見当たらない。
「名主が、山狩りしてでもお嬢さんを探すと言い張っている。金子も配られるらしいから、お前も探しに行くだろ?」
「おお、そりゃあいい。すぐ行くから、先に行っててくれ」
行方不明の娘の話になど大して興味も示さないキスケであったが、これが己の金子に繋がるとなれば、話は別だった。キスケはいそいそと家を出る支度をする。
急いで草履を突っかけて外に出ようとすると、玄関にきらりと小さく光るものを見つけた。首をかしげ、近づく。
「ひぇっ!」
キスケは小さく悲鳴をあげて、尻もちをついた。
そこには、先日名主の娘に売り払ったはずの、呪われた手鏡が落ちていた。
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