第12話 騙し合い 後編
戸が開く音がして、トンノは味噌汁を煮ている囲炉裏から顔を上げた。おかえり、と言おうとして、固まる。
そこに立っていたのは、見知らぬ男であった。
「あの……あなたは?」
男はにこりと笑うと、ミツキと名乗った。そしてその後ろから、慌てた様子のミラが顔を出す。
「ああ、ミラ。おかえり」
口にして、それから驚いた。ミラの目元が、赤い。
「ミラ、どうしたの!」
「大丈夫よ。ちょっと、村の子供達に石を投げられただけ」
ミラはトンノに、ミツキと出会った顛末を説明した。するとトンノは顔を真っ青にして、ミツキに向けて頭を下げた。
「なんと! 妻を助けてくださって、ありがとうございます」
「いえ、大したことはしていませんよ」
「そうだ、お礼に、昼飯でもいかがですか。ちょうど、味噌汁を作ったところだったのです」
トンノがそう言うと、ミラが悲鳴のような声を上げた。
「なんてこと! だ、だめよ。トンノ、お客様にこんな粗末な食事、失礼だわ」
トンノは妻の様子に首をかしげた。ミラは優しく、穏やかな性格の持ち主だ。こうまで取り乱すなど、極めて珍しい。それに、己を助けてくれたはずの男をこれほど厭うとは、何かあったのだろうか。
しかし眼前の男に、不愉快に思うような要素など一つとしてなかった。高価そうな着物も、決して嫌味ではなく清潔であったし、何よりこの男はとても綺麗な顔をしていた。
トンノはつい、己の歪んだ顔に手をやる。ぶくぶくと膨らみ、その表面は妙にでこぼこしている。ミラのように見目麗しい女性であれば、己のような化け物よりも、ミツキのような男を好むだろうに。
もしかしたら、ミラがミツキを拒むのには、何か理由があるのかもしれない。トンノはそう思い、ミツキに心ばかりの礼だけをして、帰ってもらうべきかと思い始めたのだが、トンノがそう言い出す前に、ミツキはにこりと笑って、さっさと部屋に上がり込んでしまった。
「やあ、それはありがたい。じゃあ、お言葉に甘えるとしようかな」
こうなってしまっては、「やはり出て行ってもらえませんか」などと言い出すわけにはいかず、トンノはミツキの分の味噌汁と飯をよそった。お菜は今朝の余り物だったが、ミツキは気にした様子もなく、うまそうに箸を伸ばしている。
トンノはミツキとミラの方を、そわそわと見た。ミツキはなんら気にした様子がないが、ミラは明らかに青ざめた表情で、ミツキばかりを見ている。
そのとき、一つの考えがトンノの頭をよぎった。
ミラは、己と別れてミツキと暮らすと、そう言いたいのではないか。
トンノは身体中から血の気が引いていくのを感じた。ミラに限ってそんな馬鹿な、という思いと、そもそもこれほどの美人が、己の妻であることの不自然さが、ぐるぐると駆け巡る。
ようようミツキを見てみる。なんとも見目の整った好青年だ。村でも群を抜いて美しいミラの隣に立っていても、全く遜色ない。
「あの……」
とうとうトンノは耐えきれなくなり、ミツキにそっと話しかけた。
「妻……ミラと、何かありましたか?」
ミツキは二、三回瞬きをして、軽く首をかしげた。
「何か、とは?」
「い、いえ……。その」
問われて、トンノは慌てた。そんな考えに至ったことがみっともなく、恥ずかしいように感じたからだ。
「もしかして……、ミラとは、その。深い仲なのではないかと、思いまして」
言った途端、ミラとミツキは口を少しだけ開き、言葉が出ないといった様子でトンノを見た。ミラが慌てた様子で口を開きかけた時、隣にいたミツキが、ミラの言葉を遮って、それはもう大いに笑った。
「いや、ごめんよ。ばかにした訳じゃあ、ないんだが」
ミツキはひとしきり笑うと、滲み出た涙をぬぐいながら、トンノの言葉を否定した。ミラも顔を真っ赤にしながら、何を馬鹿なことを言っているのかと、珍しく目を吊り上げている。
「邪推……でしたね。すみません」
痛んだ髪をかき混ぜながら謝るトンノに、しかしミツキは優しげな笑みを返した。
「いや、いや。こちらこそ、勘違いをさせるような登場をして、申し訳ない。
それにしても……。あんな反応をするくらいなんだ。お前さんは随分と、ミラさんとの暮らしが気に入っているんだね」
幸せかい? といたずらっぽく聞いてくるミツキに、トンノは少々照れながらも、頷いた。
「ミラは、美しいでしょう? でもね、ミラが本当に美しいのは、その心なんですよ。
……僕がこんな顔になってからも、変わらず接してくれたのは、ミラだけなんです」
そんなミラに、心から惚れているのだと言うトンノに、ミツキは実に満足げに頷く。
「それは、何よりだ。
……さて、あまり長いこと、そんな二人の邪魔をしたら、悪いな。美味しい食事をありがとう。私は、そろそろ行くよ」
空になった膳をミラに預け、ミツキは腰を上げた。
「お幸せに」
その言葉を聞いて、なぜかミラが、とても安心したような顔をしていた。
「ミツキさん! ちょっと待って!」
足場の悪い山道を精一杯に駆ける。ようやく見えてきた、前を歩く藍染の着物に向かって、トンノは大きな声で叫んだ。するとミツキは、驚いた様子でこちらを振り返る。
「トンノさん? どうしなすった」
問われたが、息が整わず、すぐには答えられない。トンノはしばし深呼吸をして、それからミツキに不安げな顔を向けた。
「ミラに、何を話しましたか?」
「……何、とは?」
「とぼけないでください」
トンノは声を固くして、一歩も譲らないという体勢をつくった。
「ミラに膳を返した時、何か話したでしょう」
気のせいではなかったはずだ。ミツキの口が小さく動くのを、確かに見たのだ。そう主張するトンノに、ミツキはにやりと、いやらしい笑みを浮かべた。
「それはつまり、お前さんが本当は目がしっかり見えていると、それをミラさんにばらされたのではないかと、そう思ったわけだね」
図星をつかれ、トンノはたじろいだ。その反応を見て、ミツキは面白そうに、喉の奥で忍び笑いを漏らした。
「やはりね。おかしいと思ったんだよ。目がよく見えていないと聞いていたのに、お前さんはミラさんの目元を見て、泣いていたことに気がついた。とてもじゃあないが、目が見えていないとは、思えなかったんだよ。
それに今だって、軽快に山道を走っていた。本当に目が悪かったなら、とても怖くてできない芸当だろう。
……安心していい。ミラさんに、そういったことは一切告げていない」
だから本当のことを教えてくれないか。ミツキにそう言われ、トンノは少しの間だけ黙っていたが、やがて観念した様子でうなだれた。
「……そうですよ。僕はこんな顔ですが、全く、健康そのものです。目だってしっかり見えています」
「どうしてそんな嘘を?」
「それは……ミラと、一緒にいるためです」
「…………?」
ミツキは首を傾げて、トンノの言葉の意味を、懸命に考えている様子であった。しかしやがて首を振って、降参だと言うように手を挙げた。
「だめだ。わからないよ。それは一体どういう……。
いや、待っておくれ。お前さん……まさか」
ミツキが心底驚いたように、目を見張る。トンノは小さく頷いた。
「ええ、気付いてますよ。
……ミラは、人間じゃないんでしょう」
言葉を失ったミツキに、トンノは語る。
「やっぱり、そうなんですね。あなたも、やはりミラと同族なのですか? 見目の美しいところも同じだし、何より、ミラが初めて家まで連れてきた相手ですからね。……いや、詳しくは聞きませんよ。僕はそれを知らない方が、都合がいい」
「……ミラさんの正体に気づいたのは、いつなんだい?」
ミツキの問いに、トンノは苦笑を返す。
「もうずいぶん前のことです。
ミラは、気付いてないみたいですけどね。彼女、たまに、目の瞳孔が縦に裂けたり、ひどいときには獣のような耳が飛び出していたり、するんですよ。一緒に暮らしていれば、嫌でも目にします」
それを見るたび、トンノは見て見ぬ振り、気づかぬ振りを押し通す。
「だって、もし僕が気付いてしまったら、ミラは僕から、離れてしまうかもしれないでしょう?」
妖と結ばれた人間の昔話は、何度か聞いたことがある。けれどそれらの話の中で、正体を知られた妖は、高い確率で姿をくらます。ミラも、そうなのではないか。トンノはそう思った。
そしてそういった妖たちは往往にして、恩返しや罪滅ぼしを目的にして、人間の側にいることが多い。
「……ミラは、何か勘違いをしているんですよね」
つい、言葉が口をついて出た。
「勘違い?」
「そうです。彼女は、よく僕の醜い顔に触れて、ひどく申し訳なさそうな顔をする」
まるで、己のせいでトンノの顔が歪んだとでも言うように。
「けれどね、これは、彼女のせいではないんです」
己の一族には、稀に顔が歪む者が出るのだ、とトンノは言った。しかしトンノの両親は早くに他界しており、他に身内もいない。そのためトンノ以外に、顔が歪む病を知っている者はいなかった。
「実際、彼女の力で、人の顔を歪めるなんて、可能なんですか?」
ふと思いついて問うトンノに、ミツキは首を振った。
「彼女の妖力は、ひどく弱い。寿命が長いのが不思議なくらいにね。だからそんな芸当、とてもじゃないが不可能だ」
「やはり、そうですか」
トンノは嬉しくて、声を弾ませた。
「病のことを、彼女に話してあげないのかい?」
「それは……」
初めて表情を曇らせ、トンノは言葉を濁らせる。
「きっと、そうした方が、良いんでしょうが……」
「できないの? なぜ?」
「……怖いんですよ」
ミラはもしかしたら、顔を歪めてしまった罪滅ぼしに、トンノの側にいるのではないか。顔の歪みがミラのせいではないと知ったら、トンノを置いて、仲間のところに帰ってしまうのではないか。それを思うと、どうしても告白しようと思えないのだ。
「僕は、顔の歪みを彼女のせいにして、彼女を僕に縛り付けているんです。
僕は……顔ばかりでなく、中身まで、ひどく醜い人間なんです。
ミラは、僕が彼女の正体を知っていることを、知らない。顔の歪みが彼女のせいではないことを、知らない。だって僕が、彼女を騙しているから」
それでもトンノは、ミラを騙し続ける。それこそトンノが死ぬまで、彼女を騙し続けることだろう。
他ならぬミラと、ずっと一緒にいるために。
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