第12話 騙し合い 前編
例年だったら、もう雨季に突入していてもおかしくない時分に、からっと乾燥した空気が心地よかった。とはいえ、気候は野菜の収穫量にも大きく関与してくるのだから、じき、そうも言っていられなくなるのだろう。
「雲……まだ戻らないのね」
人気のない村はずれで、二人分の着物を干していた女が、空を見上げて呟いた。女はのんびりとした様子で洗濯を終えると、用意してあった大樽に水をたっぷりと組み上げた。たいそう重いであろう樽を軽々と持ち上げる。
川のすぐ近くに家を作ってよかった。増水が不安になるほど大きな川ではないし、生活用水は思いの外必要な機会が多い。水を運ぶのは手間だから、それが楽になるのは魅力だ。
女は手作りの小さな家の戸を、そっと押した。
「やあ、おかえり。早かったね」
家に帰ると、夫であるトンノが笑顔で女を出迎えた。夫のくしゃくしゃな顔から表情を読み解くのは、彼女の特技であった。なにしろトンノの顔は、ひどく歪んでいるのだ。目は膨らんだ皮膚の下に沈み込むように小さく、口は左半分が大きく腫れてしまっているため、左右で形が異なる。
「早くこちらに来ておくれ。ミラがいないと、部屋が寒く感じるよ」
しかしミラには夫の顔の醜悪さなど、どうでもよかった。優しいトンノの言葉が、心が、他の全てに勝って愛おしい。ミラは桶を適当にうっちゃって、トンノのところに走って行った。
「トンノ、私はこれから村へ行ってくるわ。だからお留守番をお願い」
「先日も君に行かせてしまったじゃないか。今日は僕が行くよ」
「だめ。トンノはお庭のお野菜を、手入れしてあげて。私よりあなたの方が上手なんだもの。
それに、最近目がかすんで、物がよく見えないと言っていたじゃない。そんな状態で、遠くまで行くのは危ないわ」
「けれど……また、嫌な思いをさせてしまうんじゃないかい?」
「私なら大丈夫よ」
ミラはとびきりの笑顔を向けて、トンノの頬を撫でた。
「だって、私は普通の人間だもの」
村に降りると、途端に白い目が彼女を出迎えた。
自慢ではないが、ミラは美しい。
白く透き通る肌、整った目鼻立ち、長く艶やかな黒髪。トンノと暮らす前は、村人からの縁談は、掃いて捨てるほどあったのだ。
しかしトンノを選んだ途端、周囲がミラを見る目が、手のひらを返したように変わった。きっとミラには他人に言えない秘密があるに違いない。だからトンノのような化け物を選んだのだ。そんな噂が後を絶たなかった。
(全く、失礼な話だわ。そんな曇った目だから、トンノを化け物と呼ぶのよ)
そのような器量の狭い男など、こちらから願い下げだ。
ミラは振り売りの男を呼び止め、卵を求めた。呼び止められた男は笑顔のまま振り向いて、相手がミラである事に気付くと、表情を消した。
「卵を二つ、いただきたいのだけれど」
「……金はあるのかい」
「あるわ」
ミラが金を取り出すと、ほとんどひったくるようにして振り売りは金を受け取った。ミラは卵を二つ受け取ると、一言も交わさずに踵を返した。
それからミラは必要なものを買い揃え、村を出ようとした。すると、近所の子供達がミラの前に現れ、道をふさいだ。
ミラは首をかしげ、子供達の目線に合わせてしゃがみこむ。
「なあに? 私にご用?」
緊張した面持ちの子供達の中から、一番背の高い男の子が前に出た。
「ここ数日日照りが続いて、村は困ってる」
男の子は直立不動でミラを見ている。やはり緊張しているようだ。
「そうね。畑のお野菜に影響が出て、私も困っているわ」
「お前たちのせいだろう!」
突然男の子が叫んで、ミラはぎょっとした。後ろに控えた男の子たちが、手に石を持っている。あっと思ったときには、たくさんの握り拳大の石が投げられていた。
「村から出て行け! 化け物め!」
ミラは目を閉じ、来る衝撃に備えた。顔だけは傷付けられないように、袖で隠す。しかしいつまで経っても、石が当たる気配はない。
恐る恐る袖の向こうへと視線を向けると、子供たちと己の間に割って入っている着物があった。
「だめじゃあないか。人に石を投げてはいけないと、かか様に教わらなかったのかい?」
その男は、高直そうな藍染の着物を着て、綺麗な根付けを帯からぶら下げていた。持ち物といえば大して大きくもない風呂敷と脇差一つ。顔は見えないが、声からするとまだ若い。見覚えのない男だった。旅人だろうか。
子供達は旅人に叱られると、なぜだか悲鳴をあげながら、方々に逃げ去った。
やれやれと肩を落とし、旅人がくるりと振り向く。
「やあ、娘さん。怪我はないかい?」
「あ、あなたこそ」
旅人は飛んでくる石とミラの間に割って入った。たくさんの石に打たれたはずだ。だというのに、旅人にはかすり傷一つない。
「私は大丈夫。昔から、運だけはいいんだ」
ミラは不審に思い、旅人の向こうを透かし見る。すると、石が何かに阻まれたように、一直線に落ちている。尋常ではない光景に、はっとして、ミラは目を大きく開いた。
「あ……あなたは……」
しかし旅人は人差し指を唇に当て、
「私はミツキ。ただの、旅人だよ」
と言った。
「ただの、旅人……」
聞いた言葉を繰り返すと、ミツキが大きく頷いた。
「そう、そうですか。……わかりました。
助けていただいて、ありがとうございます。ですが、もう私には関わらないでください。この村にいたいのなら、なおのこと」
「おや、どうして?」
「私が、化け物の妻だからです」
突き放した口調で話すミラは、足早にこの場を立ち去ろうとした。それはミツキのためでもあったのだが、何を思ったか、ミツキはミラに付いてくる。
「なんですか」
「ぜひ、その化け物さんに会ってみたくて」
呆れて口を開けて、言葉を失った。しかしミツキは悪びれる様子もなく、笑っている。
「いいだろう?」
そう言われると、否とは言えなくなる。ミラは仕方なく承諾した。答えを聞くと、ミツキは手を叩いて喜んだ。それを見て、少々不安になる。
「ミツキ……さん」
「なんだい?」
「もしかして、村人から化け物退治を頼まれたとか」
「そんなことはないよ」
だから安心していいと、ミツキは気楽に請け合った。
ほとんど口をきかず村を出て、やがて村が見えなくなった頃、ミラがぽつりと呟いた。
「化け物の噂、村で聞いたのですか?」
「聞いたよ。
ある時を境に、顔が歪んでしまった男。彼は以来化け物と呼ばれ、村のはずれの深い森に暮らしているとか。……まあ、もともと彼の一族は流れ者で、かつて住んでいた場所も、村の中心部とは言い難かったようだが」
「……私のことは?」
「化け物には妻がいると言っていたね。数年前に村に流れ着いて、しばらくは普通に暮らしていたけれど、男が化け物と呼ばれるようになると、彼について出て行ってしまったと。変わり者の女だとの噂だよ」
ミツキの数歩先を歩いていたミラが、急に立ち止まった。己のつま先を見つめ、ぎゅっと唇を噛みしめる。
勢いよく振り返り、ミツキを睨んだ。
「村人に、ばらすおつもりですか」
爽やかな顔でこちらを見ているミツキが、憎々しかった。ああ、まただ。また、私は幸せを奪われるのか。悔しくて、視界が歪む。涙が滲んだのがわかった。
「本当は、私こそが化け物だと、村人に……あの人に、ばらすのですか!」
ミラはミツキに掴みかかった。綺麗な藍染の着物の襟がはだけ、風呂敷が軽い音を立てて落ちた。
「……お前さんは、妖狐と人の間に生まれたんだね」
ミラは、そうだと叫び、ミツキの着物を掴む手に力を込めた。
「人間の父はすぐに死んでしまったわ。妖狐の母は、父なしに、人間の血の混じった私を育てきれず、私を捨てた。親切な人が拾ってくれたこともあったけれど、人間よりもずっと成長の遅い私を、気味悪く思わない人なんて、どこにもいなかった!」
たくさんの村を渡り歩き、ようやく生きていけた。完全な妖怪ではない彼女は、うまく化けることさえできない。人間のように年を重ねる、その真似事さえできないのだ。これでは人里で暮らしていくことは困難を極める。
「私は、呪われているの。だから……そんな私が恋などしてしまったから、私にかけられた呪いが、あの人の顔を歪めてしまった。そのせいで、あの人は化け物と呼ばれるようになってしまった!
けれど本当は、化け物は私の方。私は、人間にも妖怪にもなりきれない、半端者の化け物なのよ」
ミラはその場に跪いた。恥も外聞もかなぐり捨てて、ミツキに頭を下げる。
「お願いです。あの人に私のことをばらさないで。あの人にまで捨てられてしまったら、私はどうしたらいいか、わからない……」
トンノの不幸を喜ぶようで嫌だが、最近トンノは目の調子が悪い。物がよく見えないと、よくぼやいている。もしかしたら……そんなトンノであれば、ミラが年を重ねていないことに気づかず、彼が死ぬまで、側にいさせてくれるかもしれない。
生まれて初めて、ミラは捨てられずに済むかもしれないのだ。
ミラは背中を震わせて、ミツキの審判を待った。ミラがなんと言おうと、ミツキがばらすと決めたら、それを止める力はミラにはない。
「安心をし」
優しい言葉と、温かな手が降ってきた。ミツキは駄々っ子を諌めるように頭を撫で、ミラの涙をぬぐった。
「私は、化け物と呼ばれるようになってしまった男の人に、会ってみたかっただけ。本当にそれだけだ。お前さんの幸せを壊すつもりなど、全くないよ」
ただし。
「今、男が不幸であるなら、全てを白状してもいいと、そう思っている。
さあ、涙を拭いておくれな。私のせいで、お前さんがそんな顔で帰ったら、お前さんの亭主に会わせる顔がない」
トンノが不幸だとは思っていないが、ミラは安心しきることができなかった。ぐっと唇を噛み締め、袖で無茶苦茶に顔をぬぐった。
……どうにかして、この男をまけないだろうか。
しかしそのとき、ほっとする匂いが漂ってきた。トンノが作る、味噌汁の匂いだ。
「ああ、家は向こうだね」
ミラが覚悟を決めきれぬうちに、ミツキは落ちた風呂敷を拾うと、さっさと歩き出してしまう。ミツキを先に行かせてはいけないと、ミラは慌ててそれを追いかけた。
ミラは、トンノを騙し続けなくてはならないのだ。
他ならぬトンノと、ずっと一緒にいるために。
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