第10話 怨む 後編
サキが漁師の男、イッサに救われてから、半年が経っていた。
「サキ、準備はいい?」
「ええ、今行くわ」
サキはイッサの妻となり、このぼろ屋で一緒に暮らしていた。サキはこれまでの行いを全てイッサに話し、心の底からそれを悔いていた。今更悔やんだところで、遅すぎることはわかっている。時折、どうしようもなく辛くなって、一晩中涙を流すこともあった。
あまりに辛くて、番屋に駆け込むか、尼になるか、いっそのこと死んでしまおうかとも思った。しかしそれらは、イッサに止められた。
「おれは、サキに側にいてほしい。だからどうか、どこにもいかないでくれ」
表沙汰になっていない事件やら、ずいぶん時のたってしまった事件のことで番屋に駆け込んでも、十手持ちとて困惑するばかりだろう、とイッサは主張した。
イッサはサキの行いを聞いても、サキの側を離れなかった。それが心から嬉しく、また己の愚かさに、どうしようもなく悲しくなった。
「サキが心から悔やんでいることは、おれがよく知っているよ。さあ、今日も行こう」
二人がこれから向かうのは、神社だった。サキが犯した罪は消えない。どれほど悔やんでも、時は巻き戻らないのだ。
だからせめて、神社に詣でよう。神様に、謝罪しよう。そう言いだしたのは、イッサだった。サキとイッサは、毎日神社へ通っていた。
イッサの家は海のすぐ側にあって、漁師として暮らすには十分だが、不便であることは否めない。神社に行くには、山を越えた先まで行かねばならず、片道を歩くのに一刻ほどかかる。
往復二刻の道のりに、漁師としての仕事があるにも関わらず、イッサは必ずサキについてきた。彼は、「妻を一人で行かせるほど、薄情な男じゃないよ」そう言って笑っていた。
早朝の仕事が終わりひと段落すると、二人は神社へ向かう。この日も、二人は連れ立って歩いていた。
「痛っ」
突然サキの足に痛みが走った。見ると、草履の鼻緒が切れている。
「まあ、不吉だこと」
怖がるサキをイッサはなだめ、すぐそばにあった大きな石の上にサキを座らせた。手先が器用なイッサが、持っていた針と糸で、手早く鼻緒を直していく。本来針仕事は女の仕事なのだが、サキはそうした普通の仕事が、この上なく苦手であった。
「ごめんなさい。私も早くできるようにしなきゃね」
「今度、教えるよ」
イッサはどこをどう直すのか、説明しながら針を動かす。サキは時折頷きながら、真剣にイッサの話を聞いていた。
「おや、大丈夫ですか?」
突然、声をかけられ顔を上げると、旅人らしき男が、かぶっていた菅笠をちょいと持ち上げて、心配そうにこちらを見ていた。サキは思わず「まあ」とつぶやき、両手で口元を隠した。
旅人は驚くほど男前で、涼やかな顔をしていたのだ。ずいぶん昔に噂に聞いた、歌舞伎役者とはこんな顔立ちだろうかと思うほど、美しい。その上男は金持ちでもあるらしい。綺麗な藍染の着物は、見るからに高直な代物だ。
だがよく見ると、男は奇妙な出で立ちをしていた。旅人と思えるのは脇刺と菅笠だけで、他はおよそ長旅には向かない様相なのだ。裕福な商人が、ちょいと出かけるような、そんな格好だ。
サキのそんな視線に気づいたのか、男は恥ずかしそうに笑った。
「やはり、変かな。菅笠は先日買ったばかりでね。いまいちしっくり来ないんだよ」
男は、数日かかる道程は久々だからと気負って買ったのだが……と言って、はにかんでいる。
そりゃあ、しっくりこないだろう。しかし強いて言うなら、浮いているのは菅笠ではなく他の全ての方だったが、それは言わないでおいた。
その時、男の目がちらりとサキの足元に移動した。何か落ちているのだろうかと目を落とすが、何もない。
「お前さん方は、この辺りのお人かい?」
男の問いに、鼻緒を直し終えたイッサが答えた。
「ええ、そうですよ。これから神社へ行くんです」
「神社に?」
男は少し首をかしげ、サキの方を向く。それから躊躇いながら言った。
「これは決して、責めているわけじゃあないが……もしかすると、償いかな?」
サキとイッサは互いに顔を見合わせた。サキの過去については、近所の漁師仲間にも、村の人にも話したことはない。もしや己の顔が瓦版にでも載ったのかと疑うが、瓦版の情報だけで、己の人相を特定できるとも思えなかった。
「おや、その表情を見る限り、あたりかな」
判じ絵を解いた子供のように、男は嬉しそうな顔をした。無邪気なその男の顔は、たしかに、サキを責めているわけではないように思える。
でも、じゃあ、男はどういうつもりで、そんな質問をしたのだろう。
(まさか……この人……)
過去に騙した男の、知り人なのではないか?
ありえない話ではなかった。だとしたら、男はサキを恨んでいるに違いない。責めていないという言葉も表情も、サキを油断させるための嘘だ。
サキの顔から朱が引いていく。
「あの、サキは……妻は、過去のことを心底悔いているんです!
ですから……どうか、このことは黙っていてもらえないでしょうか」
イッサが声を張り上げた。
もしこの男が近隣の村で、サキの過去をばらすようなことをすれば、己らはここにいられなくなる。海のそばで静かに暮らすという、慎ましやかな幸せさえも、失ってしまうのだ。
「お前さんは、サキさんの罪を知っているの?」
「もちろんです。全て知っています。でも、サキはかわいそうな娘なんです。生まれに恵まれなかった。親からも愛されなかった。きっと普通に生まれていれば、サキは普通の、ただの可愛らしい娘に育ったはずなのに!」
イッサは眉を下げて嘆願していた。夫がこれほど必死になってくれているのに、己だけぼうっとしてなど、いられない。
「夫の言う通りです。私は、本当にどうしようもない女です。本当に本当に、どれほど詫びても足りないくらい、申し訳ないことをしてきました。私にできることなら、どんな償いでもします。
これから毎日、神社へ行って、神さまに謝ります。私が騙したたくさんの人のためだけに、祈ります。
けれど、今私の罪が明るみになったら、私ばかりではなく、夫までもが、後ろ指を指されてしまう。だからどうか、見逃してください。お願いします」
土に膝をついて、頭を下げる。夫と二人並んで道端で土下座を始めたことに、男は大いに驚いた様子だった。
「いや、いや。頭を上げておくれな。さっきも言ったけれど、私はお前さんを、どうこうしようというつもりはないよ。私自身は別に、お前さんに何かされた訳じゃあ、ないんだから。
お前さんだって、謝る相手は別にいることくらい、分かっているだろう?」
おずおずと、顔を上げた。
「見逃して、いただけるのですか?」
「……まあ正直、お前さんが犯した罪について、私はそれほど興味もないからね」
でも、犯した罪には真摯に向き合う方がいい。男はそう言い残して、立ち去ろうとした。しかしイッサの前で一度立ち止まると、
「お前さんは……お前さんには、償うべき罪はないんだろう? それでも彼女と一緒に、全てを背負うつもりかい?」
「当然です。たとえ彼女がどんな罪を犯していたとしても、おれだけは、ずっと彼女の隣にいますよ」
「そうかい。その言葉……忘れないようにね」
それだけ言って、立ち去った。
罪を犯した妻と、その夫。二人と別れて、反対の方へ数十歩だけ進んで、ミツキは後ろを振り返った。
二人の姿は、まだすぐ近くにある。彼らはミツキが密告するつもりはないと知って、安心した様子で、神社に向けて歩を進める。
突然、くい、と着物の裾の、かなり低いところを引っ張られた。
そちらに目を向けると、そこには黒々とした土人形のようなものがいた。
強いて言うならば、五寸釘を打ち付ける藁人形に似ているだろうか。粘土を握って適当に胴体を作り、手足をくくりつけたようなそれは、口と思しき空間をぎこちなく動かして、なんとか言葉を紡いだ。
『けさないでくれて、ありがと』
とても聞き取りにくかったが、おそらくそれはそう言った。
「どういたしまして」
ミツキがにこりと笑うと、土人形は不自然な関節を精一杯に動かしながら、女を追う。その姿が見えなくなるまで見送って、ミツキはくるりと踵を返す。
「怨念の塊……ずいぶん育ててしまったものだね」
サキとかいった女が、どれほどのことをしたのか、ミツキは知らない。だが、あれだけの怨念を集めるほどなのだから、彼女への恨みは、並みのものではなかろう。
「因果応報、というからね。私に彼女を助ける義理はないよ。
それに、彼女がどれほど苦しい暮らしをしてきたかなど、彼女から何かを奪われた人々には、一切関係のない話だし」
犯した罪は消えない。どれほど不幸な経緯があったからといって、それで何かが許されるなど、あってはならないのだ。
あの怨念は、相当に強かった。あのままでは、夫の方も巻き込んでしまいかねなかったが……。怨念だろうと、それは人の想いの結晶だ。ミツキの都合で消してしまっては、あまりに不憫だろう。
「まあ彼も、あれだけはっきりと、彼女の罪を負ってでも、一緒に生きていくと言ったんだ。あとは彼らの好きにしたらいいさ」
けれど彼女は、罪を犯したことを、心の底から後悔していると言っていた。それが嘘だとは、ミツキも思わなかった。もしもそれに、怨念たちが心打たれることがあれば……そんなことが本当にあればだが……もしかしたら、彼女らは助かるかもしれない。
「……まあ、私の知ったことではないか」
ミツキは一本道を、先の夫婦とは反対方向へ進む。
それきり一度も、振り返ることはなかった。
あとがき
読んでいただき、ありがとうございます。
ストック放出してしまったので、これからは更新速度がとても遅くなります。筆が遅くてすみません。
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