第10話 怨む 前編
生まれてこの方、誰かに愛されたことなどなかった。
父は誰かもわからない。母は、子を持ったことを疎ましく思っていることを、隠そうともしていなかった。
なにせ母は遊女をしていた。といっても、太夫だとか格子だとかの高級遊女ではなくて、それどころか、禿を持てるような身分ですらなかった。
本来であれば、母のような女は、遊女ではなくて飯盛女と呼ぶのだが、変に気取った母は、己のことを遊女だと言って譲らなかった。
まあとにかく、母は遊女であったから、お腹が大きくなっては、お客が取れない。普通に旅籠で働くだけの金では、母が満足するほどの金を稼ぐことは、できなかったようだ。
実の娘であるサキがある程度の年齢になると、母はサキにこう言った。
「サキ、私はお前を産むまでの間、たくさんの稼ぎを失った。それはお前のためであり、つまりお前のせいなんだ。だから、お前はこれから私が失った額の分だけ、必死に働いて私に返す義務がある」
「はい、わかりました。おっかさん」
母は娘が口答えすることを嫌った。少しでも嫌がる素振りを見せようものなら、容赦なく打った。客や旅籠の主人にばれないように、それはそれは丁寧に、傷が残らないように打った。
旅籠の主人は、サキを疎んでいるようだった。何しろサキの見た目は、飯盛女として働くにしては、あまりに美しさに欠けていた。
母はそれなりに美しいというのに。その見目を受け継がなかったことを、恨めしく思わなかった日はない。若いだけが取り柄の女に、客が大枚を払うわけもなく、主人夫婦がサキを持て余していたとしても、何の不思議もなかった。
しかしある時、サキに転機が訪れた。
サキは美しくはなかったが、愛嬌を振りまき媚びることについては、母からしっかりと学んでいた。なるたけ美しい所作を身につけ、化粧で顔を誤魔化す技術も磨いた。
その甲斐あって、この時のサキは、飯盛女として働く分には、十分な容姿になっていた。そんなサキを見初めた男がいたのだ。
男は四十路に近い年で、サキよりもずっとずっと年上だった。しかし身請け金を見た母と旅籠の主人は、喜んでサキを差し出した。
「サキ、今日からお前は、このお人の妻だ」
両の手を金子で満たして笑う母に、サキもにこりと笑顔を返した。
「はい、わかりました。おっかさん」
男は軽々しくサキの肩に触れ、耳障りな声で愛の言葉を囁いた。サキは不快感を押し隠して、必死に笑顔を繕った。
「愛しているよ。サキ。ずっと、ずっと一緒にいような」
男が己を愛していないことなど、百も承知だった。愛しているとすれば、それは己の外見だけで、強いて言うなら、金でどうとでもできる若い娘であれば、誰でも良かったのだろう。
そういう意味ではサキはもってこいだ。母は己らのことを遊女だとのたまうくせに、身請けにしては少なすぎる金子で、あっさりと娘を売ったのだから。
本来であれば、持参金をつけて嫁にやらねばならない金食い虫が、幸運にも金子を運んできた。母はそのくらいに思っていたに違いない。
(身請け金……身請け金ね)
受け取った金をそう呼んだ母の言葉を、サキは鼻で笑った。こんな時でも、母は己らを遊女のように扱う。男が払った金子は、決して身請け金などというものではなかった。男は、ただ金でサキを買っただけだ。
サキは奴隷と同じだった。母の代わりに主人となった男に、にこりと笑う。
「はい、わかりました。旦那さま」
サキの夫となった男は、比較的裕福な農民であった。きっとそれは、ここいら一帯にすでに知られていたことだったのだろう。
あくる日、夫と一緒に隣の村まで出かけた。
夫の話に適当に相槌を打ちながら歩いていると、突然草むらが動き、顔を手ぬぐいで隠した男たちに囲まれた。彼らは恐ろしいことに、どすを持っていた。
サキが悲鳴をあげる間に、夫が刺された。二週間というあまりに短い間に、夫婦の関係は終わった。どすを振り回した男たちは夫の懐を探ると、紙入れを奪い、根付けを奪い、とにかく金になりそうなものを全て剥ぎ取った。
「この女は、どうする」
「売りに出すか」
「この顔じゃあ、大した値もつきそうにねえなあ」
下卑た声で笑う男たちに、サキは「ねえ」と声をかけた。圧倒的に弱い立場の女に話しかけられたことに、男たちの顔は驚きに染まる。
「あたしを売るのは、やめたほうがいいわ。あなただって言っていたじゃない。売ったって、大した金になりはしないって」
「はっ。お前を見逃して、おれたちに何の得がある?」
「お金を稼いであげる」
間髪入れないサキの言葉に、男たちは顔を見合わせた。
「あたしを仲間にしてちょうだい。必ず役に立ってみせるわ」
それから言葉の通り、サキは大いに金を稼いだ。ある時は言葉巧みに馬鹿な男を騙し、紙入れを奪った。またある時は、高直な贈り物をもらったきり姿をくらました。
仲間と結託して盗みを働いたことも、一度や二度ではない。
ただどうしても、殺しだけはできなかった。どすを見るだけで、かつての夫であった男の死に様が頭に浮かび、総身が震えた。
騙し、盗み、奪う。そういった暮らしにもすっかり慣れた頃、サキはとある男を狙った。その男は大した禄もない侍であったが、不思議と金を持っていた。侍は促されるまま、サキに鼈甲のかんざしを贈り、昼飯をおごってくれた。そしてとうとう夜になると、侍は人気のない神社の隅へと誘導された。
神社の端の林の中には、サキの仲間たちが息を殺して待っていた。サキの仕事は誘導するまで。それから後のことは、仲間にすっかり任せてしまうつもりだった。
しかし侍は、サキの予想に反する動きをした。
多対一であったのに、侍は強かった。あっという間に仲間の男たちを斬り捨ててしまうと、サキのほうへと向かってきた。
さぁっと、顔から血の気が引いた。
「待って、待ってちょうだい。ごめんなさい! そんなつもりじゃなかったの!」
しかし侍は容赦なくサキの髪を掴み、顔を寄せた。ほつれた髪が、ぱらぱらと顔にかかる。
「安心しろ。もとより殺すつもりなどない。お前は売り飛ばす。ああ、送ったかんざしは返してもらうぞ。次の女に使えるからな」
侍の顔に浮かんだ残酷な笑みを見て、サキは己が騙されたことを知った。この侍は、こうやって女を騙し、男を殺し、金にしていたのだ。
情けなさに、涙がこぼれた。騙されるとは、こうも辛いことなのかと知った。
サキは、侍にもらったかんざしを頭から引き抜いた。そして怪訝そうな顔をする侍の目に、思い切りそれを突き立てた。
「ぎゃああああっ!!」
侍の口から悲鳴が迸った。侍が目からかんざしを生やしたまま、刀を振り回した。それが偶々サキの腕に当たって、血が飛んだ。サキの悲鳴が、侍の悲鳴に重なる。
そこからは、どこをどう走ったのかも分からなかった。命からがら逃げ出して、どこかで川に落ちた。
目を覚ますと、サキは廃屋のようなぼろ屋で横になっていた。
「ここは……」
「あ、気がついた?」
声のほうを向くと、そこには己と同い年くらいの、のっぺりとした顔の男が、湯気の立つ椀を抱えて座っていた。男はサキを助け起こすと、椀を差し出した。
「小魚の団子汁だよ。飲める?」
温かな椀を受け取ると、ずきりとした痛みを左腕に感じ、斬られたことを思い出した。腕を見下ろすと、綺麗ではないが清潔な布が、丁寧に巻いてあった。
サキは改めて、己のいる場所を見回した。
「あ、ここ? ここはおれの家だよ。
おれは漁師をしているんだ。ほら、すぐそばに海があるんだよ。潮の香りがするだろう?」
男によると、ぼろぼろになったサキは、近所の川岸に倒れていたらしい。
それを聞いてサキは驚いた。まさか、海の近くまで流されてしまったのか。よくよく見れば、身に覚えのない擦り傷や切り傷が、全身にあった。
「生き返ってくれて、よかったよ」
そう言って笑う男の暮らしぶりは、決して派手ではなかった。それどころか、サキのひどい人生の中でも、これほど貧しい暮らしをしたことはない。
(こんな暮らしぶりでは、人を助ける余裕などないだろうに……)
それでも目の前の男は、サキを助けることを疑問に思った様子さえなく、何やら笑顔で話し続けている。
サキは手渡された椀をゆっくり持ち上げ、熱い中身を息で冷ましながら、そっと飲んだ。
「どう? 口に合うといいんだけれど」
「……おいしい」
言葉が、口をついて出た。
熱い汁が、全身に温かなものを沁み渡らせた。体と、それから心にも。
椀の中身に、ぽたりと滴が落ちた。震えながら涙を流すサキに、男はおろおろとした様子で「大丈夫? どこか痛むの?」と問いかけ続けた。
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