第9話 公平なる後継選び
ここ最近、妙に寒い日が続いた。
まだ若く健康な、小僧や手代たちでさえ辛いのだ。高齢ゆえに体力が衰えていたお店の主人は、その気候に耐えきれず、あまりにあっさりと身罷ってしまった。
主人はもうずいぶん前から、医者に多くの金子をつぎ込んで、回復しては倒れ、倒れては回復することを繰り返していた。例えこの寒波を凌ぎ切ったとしても、主人がもう限界であることは明らかであった。
それを示すように、おかみは、他所の店へ修行にやっていた息子を呼び戻す文を、届けさせていた。おかみの迅速な判断のおかげで、若は主人の臨終に立ち会うことができた。
この店は大店と呼べるほど大きいわけではなかったが、主人夫婦は気立てが良く、小僧たちにまで優しかった。豪華な飯を食える身の上ではないが、その卓にはいつも笑顔が溢れており、この店で働くことに、何の不満もなかった。
そんな主人が亡くなった。彼は商売に関して、決してやり手だったわけではなかった。だから今店に溢れる悲しみの渦は、ひとえに主人を皆が愛していたからに他ならない。それは、己とて同じことだった。
覚悟は、していたつもりだった。
だが実際に枕を北に向けて、笑い皺の残った顔に、白い布を被せられた主人を見ると、野獣のようだと評判の己の目からでさえ、涙が零れ落ちた。己だけではない。己と同じく、手代としてこの店を手伝ってきたヤシチも、涼やかな見た目に似合わぬ大粒の涙を流している。
それを見て、とうとう我慢ができなくなった。
恥も外聞もなく、大声で泣いた。
赤子もかくやというくらい、ただただ、泣いた。
ひとしきり悲しみに沈んで、主人の葬儀も終わると、慌ただしくも現実的な問題が山のように降ってきた。この世はなんと忙しないことか。大切な者の死にさえ、存分に感傷に浸らせてはもらえない。
かつて若旦那と呼ばれていた主人の息子は、旦那様と呼ばれるようになった。彼はやはり、商売に明るいとは言えない若者であったが、情熱だけは、間違いなくあった。
父を失ったばかりだというのに、店をより良くしていくためにどうすれば良いのか、真剣に悩んでいる様子であった。
そんな真面目な若主人を、最も悩ませていること、それは、新しい番頭を決めることであった。
この店のように、主人が商売に口を出さない店は、意外と多い。その場合、実際に店のあれこれを取り仕切るのは、番頭である。
実は主人が身罷る少し前に、今の番頭に暖簾分けをすることが決まっていた。番頭は四十路にも届くほどの年で、つい先日までは、ようやく己の店を持てることを、心から嬉しそうにしていた。
しかし今、当の番頭は不安げに眉尻を下げている。
「あたしは、本当に出て行っても大丈夫なんで……?」
前の主人が死んで、それどころではなくなってしまったお店であったが、若……いや、店の主人は、暖簾分けの話を、なかったことにしようとは、思わなかったようだ。
「大丈夫だよ。私たちは私たちで、やっていける。だってお前、店を持てることを心底喜んでいたじゃぁないか」
主人の温かな言葉に、番頭は深々と頭を下げた。
さて、そうなると問題は、次の番頭は誰か、という点だ。
順当にいけば、手代であるハギか、ヤシチだ。
最近は小僧たちの間でさえ、それが噂になっているらしく、ハギの姿を見かけると、ぴたりと話をやめて体裁を取り繕う者も多かった。
ある日、主人に呼ばれたハギとヤシチは、緊張した面持ちで主人の部屋へ向かった。
「なあ、どっちだと思う?」
緊張のせいか、わずかに震える声で、ヤシチが聞いた。
「さあ。あたしには、何とも」
「おれは正直、お前だと思う」
驚いて振り返ると、涼やかな顔の手代は笑みを深めた。
「実際、お前の方が実力があるだろう」
「大して変わらないさ」
表情こそ変えなかったが、それは本心ではなかった。ヤシチには、なにぶんさぼり癖がある。面倒なことは放っておいて、後になって慌てることも少なくなかった。それを未然に防ぐため、ハギが東奔西走したことだってある。
ヤシチはハギの心中を呼んだみたいに、ぺろりと舌を出した。
「……まあ、おれたちが決めることではないわな。
どっちが選ばれても、恨みっこなしだ」
「当然だ。あたしはこの店が好きなんだ。手代だろうと番頭だろうと、それは変わらないよ」
「おれもだ」
ハギとヤシチは互いに顔を見合わせてにやりと笑った。
主人の部屋の前で膝をつくと、静かに声をかける。
「旦那様、ハギでございます」
「ヤシチでございます」
襖の向こうから、「入りなさい」との声がかけられた。襖を滑らせると、中にいた主人とその母が、揃ってこちらを見ていた。
その様子を見て、ハギは心の内で顔を顰めていた。先代おかみの顔色が、なんだか悪い。
(体調不良じゃあなければ、良いんだが)
父が亡くなったばかりで、母にも逝かれてしまっては、さすがに若主人が気の毒であった。
二人の手代は、勧められた座布団へと座る。
「仕事中に呼び出して、ごめんよ。実はね、今日は番頭を誰にしようか、二人と相談したいと思っていてね」
「相談、ですか?」
ハギは思わず呟いた。てっきり、既に決まっていることだと思っていたのに。
「そう。……それで、実はね」
主人はいったん言葉を切ると、何やら懐をあさって、一枚の文を取り出した。
「これを見て欲しい」
ハギとヤシチは、差し出された紙を覗き込む。すると、そこには間違いなく、先日亡くなった主人の字で、こう書かれていた。
「次の番頭には、他の誰より勤勉であったハギを、任命する……」
思わず声に出してしまった。
己が選ばれた。嬉しかった。誇らしかった。
でも何よりハギの胸をついたのは、番頭に選ばれたことではなく、己の勤勉さを、評価されたことであった。
(あたしの頑張りを、旦那様は見ていてくれたんだ……!)
ハギが努力を何よりも重んじるようになったのは、まだ小僧の頃だった。
話すと明るく、綺麗な顔立ちをしている友、ヤシチと違って、ハギは見た目にも器用さにも、てんで自信がなかった。またそのせいで、人と話すのも苦手であった。
そんな己を変えたくて、せめて仕事だけはしっかりできるようになろうと、誰よりも遅くまで勉強した。
しかしまだ幼い子供が、ずっと努力を続けるのは至難の技で、あくる日ハギは、すっかり参ってしまっていた。頑張っても頑張っても、もともと器用なヤシチには勝てない。ヤシチはどちらかというと、地道なことを嫌う性格であったのにもかかわらず、だ。
努力をする意味とはなんだろうか。ハギは、仕事中だというのに考え込んで、店の前の同じ場所ばかりを、何度も掃いていた。
そんな己の様子に気づいたのか、主人がハギをお使いに出してくれた。そしてこっそりと「途中に神社がある。今は紅葉が美しいそうだ。少し、休憩しておいで」と耳打ちした。
ハギはありがたく好意を受け取ることにした。
早々に主人のお使いをすませると、神社の階段の脇に座り込んで、誰のためでもなく色付いた紅葉を、ぼうっと眺めていた。
「きれいだね」
ハギはあまりにぼうっとしていて、後ろに人が立っているのに気付かなかった。驚いて振り返ると、高直そうな藍染の着物を着た男が立っていた。
「どうしたの? お店はいいの?」
ハギの格好から、どこかの店の小僧であることを察したようだ。
「あ……お使いの途中で」
主人の許しは得ているのだが、なんとなく悪いことをしている気分になり、どもってしまう。しかし相対する男はふわっと笑うと、ハギの隣に座り込んだ。
「たまにはいいと思うよ」
さぼってもかまわない、努力などしなくても良い。今のハギの耳には、男の言葉はそう聞こえた。意図せずして暗い顔をしてしまったハギを見て、男は心配そうな表情になった。
「どうかしたの?」
「あたしは……」
弱気になっていたせいか、ハギは不安を全て、男に話してしまった。はじめは少しだけのつもりだったのに、ちょっと話すと、堰を失った川のように、言葉は止まることを知らない。
「あたしのような男には、努力など、無駄なのだろうか……」
言いたいことを全て吐き出して、ハギは最後にそう締めくくった。ハギが黙るまで、男は一度も口を挟まずに、何度かゆっくり頷きながら、聞いてくれた。そして言う。
「私は、お前さんがしてきたことが、無駄だとは思わないよ」
「けれど、ヤシチに勝てないんだ。どれだけ頑張っても」
「ヤシチって子と比べたら、そうかもね」
でも。と男は続ける。
「昨日のお前さんより、今日のお前さんの方が、すごいんじゃないかい?」
「昨日のあたし……」
それでも納得がいかないという顔のハギに、男はまた笑って言った。
「それにね、お前さんの頑張りは、必ず誰かが見ていてくれるよ。私が保証する」
戯言と受け取っても良いはずの言葉だった。名も知らぬ男の言葉に保証されても、なんの慰めにもならない。
だというのに、不思議とその言葉はハギの心に深く響いた。どれほど響いたかというと、手代となるその日まで、いや、手代となってからでさえ、努力を第一とするほどの勤勉さを手に入れるほどに。
手代となり、三十路を超えた今ではもう、男の顔さえ思い出せない。けれど、男の言葉だけは、宝として己の胸のうちに残っている。
喜びに震えるハギに対し、しかし主人は、申し訳なさそうにうなだれた。
「だけど、これは不公平だと思うんだ」
「え?」
思わず聞き返したのは、ハギだけではない。選ばれなかったヤシチもだ。
「これは、確かに父の手だ。父の言葉は重い。
だがね……私はやはり、店の主人とはできる限り公平で、平等であるべきだと思うんだ」
「はあ」
「つまりね、父の意見も、手代の意見も、小僧の意見も、女中の意見も、新入りの意見も。皆それぞれに等しい価値を持っている。
だから、この店で働く皆に、どちらが番頭にふさわしいか、聞いてみた」
無論のこと、父の意見も数に入っている。
「そうしたら、わずか数人の差だけど、ヤシチの方が、多かった」
だから、次の番頭はヤシチだという。
「だ、だけど……」
あまりのことに開きっ放しになっていた口を、はじめに動かすことができたのは、ハギではなくヤシチだった。
「女中など、おれたちは互いにほとんど知りません。新入りなら、尚更です。ちょうど今は、新入りの小僧が多い時期でしょう? 何もわからぬ彼らにも、聞いたのですか?」
「もちろんだよ。彼らも平等に、この店の人間だもの」
「しかし……」
ヤシチが餅を喉に詰まらせるように、言葉をつっかえさせた。その理由は、ハギにはよく分かる。
ハギは強面だから、新参者や女子たちからは、怖がられることも多い。少し慣れてくると、ハギの内面が見た目のような荒っぽいものではないと気付くため、そういったこともなくなってくるのだが……。
長いこと他所の店に修行に出ていた主人は、それを知らない。
しかし表立ってそれを言うということは、ハギの見目を侮辱するのと同じことだ。それでヤシチは、口にするのを躊躇っている。
「お前は、番頭になりたくないの?」
主人が首をかしげ、ヤシチに問う。
「いえ、そんなことはありませんが……」
「なら何故、そんなに渋るのかな?」
心底不思議そうに、素直な若主人がより深く首を傾ける。
ヤシチの口が動きかけて、止まった。己が劣っていることを主人に言いふらすなど、余程の阿呆か、赤子の如き純粋な者だけだ。しかしヤシチは、阿呆でもなければ、赤子でもない。
それにヤシチにだって、長年手代として店を支えてきたという、自負もあろう。だから、代わりにハギが口を開いた。
「ヤシチ。旦那様の指示なんだ」
「……お前、それで良いのか」
「言ったじゃあないか。あたしは、手代だろうと番頭だろうと、この店のために頑張る。どちらが選ばれても、恨みっこなしだと」
「けどっ」
お前が選ばれた方が、店を大きくできるのに。
そう、彼の目が語っていたような気がした。それは、多分、そうだろう。己もヤシチも、先ほどから顔を伏せ、時折申し訳なさそうな視線を送ってくる、先代おかみも、皆がわかっている。若主人以外の皆が。
「それでも、ここは旦那様の店なんだ」
ハギの言葉に、若主人が明るい言葉をかぶせた。
「わかってくれて嬉しいよ。勘違いしないでおくれね。私は決して、ハギを軽く見たわけでは、ないんだよ」
それが心からの言葉であることくらい、ハギには理解できた。だから、笑ってこう言った。
「勿論でございますよ。あたしはこの店の手代。誠心誠意、この店のために尽くさせて下さいまし」
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