第8話 狐憑き 下

「で、お前、一体どういうつもりなんだ」


 目の下に黒々とした隈を残したタカマが、ミツキに掴みかかった。昨晩ミツキはああ言ったが、その言葉を素直に信じることができなかったタカマは、途方にくれたオキクに「俺も眠るから少し休むように」と言うと、こっそり一人で一晩中起きていたのだ。

 襟元を掴みあげられたミツキは、飄々と小首を傾げ、タカマの神経を逆なでする。


「何が?」

「何が? だと!」


 もともと、岡っ引きであるタカマの気は長くない。徹夜明けともなれば、なおさらだった。そんな己が、力一杯ぶん殴ってやりたくなる衝動を辛うじて抑え切れたのは、側でオキクが見ていたからだ。血管を浮かび上がらせながらも、オキクの小さな手を肩に感じ、ようやくミツキの衣を解放する。


 ミツキは一切苦しげな様子など見せなかったくせに、「ああ、苦しかった」などとぼやきながら襟元を正している。


「で、朝になったぞ。お前の言う通り、ハクも遊びに行った。

 そろそろ、話してもらおうか」

「うん、そうだね」


 軽く咳払いをし、視線が己に集まったことを確認してから、ミツキはもったいつけて告げた。


「親分の思った通り、ハクは狐憑きじゃあない」

「やっぱりそうか!」


 喜ぶタカマとは対照的に、オキクはむしろ心配そうに、おろおろとし始めた。


「あの、じゃあ、一体ハクには何が起こっているの?」

「ハクが、おっかさん……と言いながら、私の頭の上を見ていたのは、覚えているかい?」

「え、ええ」

「あそこに、母がいたのさ」

「え?」


 目を瞬かせて、オキクが困惑を顔に貼り付ける。


「でも私は……」

「ああ、違う、違う」


 ミツキはあっさり笑って手を振ると、信じられない言葉を口にした。


「お前さんのことじゃあない。亡くなったという前妻、つまり、ハクを生んだ女のことさ」

「え……? いや、でも、え……?」


「ああ、そうか。すまないね、オキクさん。先に親分から聞いてしまっていたんだよ、オキクさんの身の上をね。でもお前さんを思ってのことだから、親分のことは責めないでやっておくれ。

 まあ、とにかく、それでわかったんだよ。聞いてみたら、コユキと名乗っていたんだけれど、あっているだろう?」


 タカマは絶句した。確かにタカマは、ミツキにハクの生みの母が別にいると言った。病を得て身罷ったとも伝えた。しかし、その名については教えていない。

 タカマの表情を見て、だいたいのことをオキクも悟ったようで、顔を青ざめさせている。


「ハクは……成仏できなかったコユキさんの悪霊に、取り憑かれているのですか?」


 震える声で問うオキクに、しかしミツキは首を振った。


「いや、それは違うよ。あれは、悪霊なんかじゃぁない」

「そりゃあ、どういうことだ? コユキさんは、もう随分と前に亡くなってるんだぞ」

「そうだね、もう年単位で前のことなんだろう? そんなに長い間、成仏も悪霊化もせずに、ただの幽霊として彷徨っているなんて、驚異的だ。よほど息子のことが心配だったんだろうね」

「本当に……悪霊じゃ、ないのか?」

「違うね。まあ、それも……時間の問題だけれど」


 ミツキは肩をすくめ、湯飲みに入った薄い茶を、音を立ててすすった。


「これまではずっと、見守っているだけだったようだよ。ハクは新しい家族にも愛された。ここは、金こそなくとも、幸せな家庭と呼んで差し支えない。旦那さんが亡くなったことは悲しいことだったけれど、オキクさんはそれでもハクを愛し続けてくれた。

 コユキさんは、愛しい息子を陰ながら見守るだけで、幸せだった。

 でも、それにもとうとう限界がきた。さっきも少し話したけれど、幽霊が現世に留まり続けることは、ひどく難しいことだから。成仏を拒み続けるならば、彼女は遠からず悪霊化する。本人も、それを悟っているらしい」


 このまま悪霊化してしまったら、成仏を拒んでまで見守り続けた愛しい我が子を、呪い殺してしまいかねない。


「だからその前に、ハクが眠っている間に夢の中で会って、それを最後に、彼女は成仏しようと決めた」


 ところが、ハクは夢で出会った母に、コユキが考えていた以上に甘え、喜んだ。その様子を見て、コユキの心にいくばくかの迷いが生まれた。


「もしかしたら、一緒に連れて行った方が、幸せなんじゃないか、とね」


 悪霊化が始まっている幽霊が少しでもそう考えてしまったら、その思いは止まるはずがない。それから彼女は毎晩ハクの夢に現れては、連れて行くべきか否か、迷っているという。


「連れて行くって、殺すってことだろう? そんなの……もう悪霊と同じじゃないか!」

「それは違うよ。必死になって悪霊化を拒んでいるコユキさんに失礼だ。

 悪霊に連れて行かれた魂は救われないが、彼女は違う。ハクは母と共に、穏やかに眠りにつけるだろう」

「じゃあ、あなたは、ハクに死ねと、そう言うの?」


 硬い声が、突然立ち上がったオキクの喉から絞り出された。

 生来穏やかな気質であるオキクが、声を張り上げるなど珍しい。タカマは驚いてオキクの強張った顔を見上げたが、ミツキはあくまでやんわりと、オキクの怒りをなだめている。


「そうは言っていない。生きている者が生き続けようとすることは、当然の理であり、本能だ。だがしかし、こればっかりは、私にはどうすることもできない」


 穏やかな表情をふっと消して、ミツキが真剣な目でオキクを射抜いた。


「ハクを助けたいのなら、ハクに、生きていたいと、そう思わせることだ。コユキさんがいる向こう側には、まだ行けない、と」


 それはもう一人の母である、お前さんにしかできないことだよ。そう言うミツキの目はどこまでも透き通っていて、とても嘘をついているようには見えない。ミツキには人を惹きつけ、信用を得る不思議な力があるように思えた。


 ところがその力も、己の息子の生死が関わっているオキクには通じなかったらしい。オキクの総身が震えていた。恐怖か、それとも緊張か。あるいは息子が死を望んでいるかのように語るミツキへの怒りか。

 タカマはそんなオキクの肩をそっと抱いた。驚いてオキクがこちらを見上げる。驚きと一緒に怒気も抜け落ちたのか、オキクの体が一回り小さくなった。


「心配には及ばない。ハクの母は、今はこのオキクさんだ。大丈夫。必ずハクは、オキクさんと共に生きたいと……そう願ってくれるはずだ」


 力強く言い切るタカマを、ミツキはちょっと驚いた目で見ていた。しかしすぐに人の良さそうな表情で「そうかい」とだけ言った。

 それだけではミツキの真意は分からなかった。けれど彼の目元は、ほんの少しだけ微笑んだような、そんな気がした。







 日が沈み、空はとうに闇色の衣を着込んでいる。月や星が、まるで衣を賑やかすように、きらきらと輝く。

 そろそろ刻限だろうか。己の隣で緊張に顔を強張らせたオキクも同じことを思っているのか、睨みつけるように戸を見つめている。


 どれほど待った頃だろうか。ガラリと音を立てて、戸が動いた。しかし立て付けの悪くなった戸はなかなか綺麗には滑らず、何度かつっかえながら、ようやく一人の男が通れるくらいの隙間だけ開く。


「ああ、まったく。なんだか締まらないねえ」


 体を縦にして、照れ臭そうに頭を掻きながら部屋に入ってきたのは、ミツキだった。


「……で、どうだったんだ。用意できたのか?」

「ばっちりさ」


 硬い声を絞り出すタカマに、ミツキは微笑んで応えた。すっと差し出した手をゆっくりと開くと、そこには暗い緑色の丸薬が握られている。


「嫌な色だな。苦そうだ」

「とってもね」

「どのくらい?」

「つい幽霊が見えるようになるくらい」


 ミツキの言葉が本気なのか冗談なのか、いまいちよく分からない。

 タカマは丸薬を見て、しかめ面を向けた。


「丸薬は一つだけか」

「勘弁しておくれよ。一つでも手に入れるのには苦労するというのに」


 こればかりは本当に困った様子で、ミツキが頬を掻いた。


 この男でも困ることがあるのか。喉まで出かかった軽口を無理矢理に飲み込む。もういつハクが起き出してもおかしくない時間なのだ。あまり無駄にするべきではない。ミツキもそれは理解しているのだろう。タカマの後ろでじっと息子に目を注いでいるオキクに、飲み込むにはやや大きすぎる丸薬を差し出した。


「さてオキクさん。覚悟は、できてるかい?」

「……はい。大丈夫です」


 青ざめた顔をミツキに向けて、オキクさんが両手で丸薬を受け取った。しばらくそれを見つめてから、ゆっくり顔を上げた。


「今、飲んでしまっても?」

「大丈夫だよ。大きいけれど、噛まないようにね」


 タカマが無言で茶を差し出した。オキクは丸薬を一息に飲み込んで、冷めた茶をぐっと呷った。


「だ、大丈夫か? オキクさん。何か、変わったこととかは?」

「いいえ、特に何も……」


 タカマの問いにそう答えかけて、それからすぐにオキクは声を失った。そうして震える手で、眠りこけるハクの隣を指差した。


「あ……あ……」

「オキクさん!? どうした!?」

「落ち着いておくれ、親分」


 ミツキが勝手に熱い茶を淹れて、それをすすっている。


「始まったよ。狐憑きがね」


 ミツキの言葉を合図にしたかのように、ハクがぱちりと目を開けた。そしてオキクが指差した方向、そちらに顔を向けると微笑んだ。


「おっかさん」


 ハクがゆらりと伸ばした手を、オキクが掴んだ。暴れる我が子を、必死になってオキクが抱きとめる。しかしハクは、母の体を厭うように身をよじった。


「おっかさん……おっかさん……」

「ハク、ハク! 私はここよ。そっちに行っちゃだめ……だめなの! 死んじゃうのよ!」


 しかしハクは、オキクの声が聞こえているのかいないのか、オキクの方には見向きもしない。タカマには見えないが、ハクの目はひたすら生みの親に向けられているのだろう。


(オキクさんの声……ハクには本当に聞こえてないのか)


 まだ幼いハクが、産みの親を恋うのは理解できる。だが……これでは、オキクがあまりに不憫ではないか。


(オキクさんだって、一生懸命にハクを育ててるんだぞ。ハクを愛しているという意味では、コユキさんにだって、決して劣ってなんかいないんだ)


 それでも……ハクはオキクの方を見もしない。


「ねえ、オキクさん」


 一同の視線が、声をかけたミツキに集まった。

 ミツキはいつものように、へらへらした笑みは浮かべておらず、いたって冷静な、言ってしまえば冷たいとも言えるような視線をこちらに……いや、オキクに向けている。


「もうハクを……母のところにやったらどうだい」

「おいっ!」


 文句を言いかけたタカマを、ミツキが睨む。それだけで、なぜかタカマは気圧されてしまい、次の言葉を飲み込んだ。


「ハクは、母のところに行きたがっているように、私には見えるよ。

 お前さんには酷なことかもしれないけれど……これでは」


 きっ、とオキクはミツキを睨んだ。


「冗談じゃありません!

 血の繋がりがなくとも、あの子は私の子です。産んだコユキさんは、さぞ無念だったことでしょうけど、だからこそ、会えなくても子の幸せを願うのが母というものです!」


 オキクは泣き出していた。ミツキを睨んでいた目を虚空に、おそらくコユキの幽霊に向けて、叫ぶ。


「あなたも母なら、この子が生きて、幸せになって欲しいと、そう願っているはずでしょう! 約束するわ。私が必ずこの子を幸せにする。だから……だから!」


 そのとき、目には見えない『何か』が、タカマの前を横切ったのがわかった。それはオキクの前まで来ると、すっと彼女の顔に寄る。


 まさか祟るのではないか。彼女が悪霊ではないとミツキは言ったが、そんなことどこまで信じられるか分かったものではない。一刻も早く、オキクと幽霊を引き離さなくては。そう思って駆け寄ろうとするタカマを、ミツキが手で制した。

 今は非常時なのだ。この男の気まぐれに付き合っている暇はない。タカマは腹の底からドスの効いた声を絞り出した。


「邪魔をするな」

「大丈夫だ」

「何が大丈夫なものか!」

「大丈夫だから」


 焦るタカマの視線の先で、オキクの目が大きく見開いた。ハクと、見えない何かを交互に見やる。そして唐突に『何か』の気配が消えた。


 その腕の中で、ハクがカクンと崩れ落ちた。「ハク!」と悲鳴をあげたのは、タカマだけだった。

 ハクが意識を失っていたのは、ほんの数秒だった。再びぱちりと目を開くと、今度は生気の満ちた瞳を、己の周りの大人たちに順繰りに向ける。泣いている母、焦りで崩れた髷を乗せたタカマ、飄々としたミツキ。己を取り巻く状況が理解できなかったらしく、何度か瞬きをして首をかしげた。

 その様子は明らかに正気であり、狐憑きの兆候は、一切見られない。


「オ、オキクさん? あの……」


 ハクは少しの間、言葉を探すように躊躇った。


「えっと、その。もしかして……修羅場?」


 ハクのその、あんまりにも平和な発想に、ミツキが耐えきれず吹き出した。その後に続いて、大人たちは夜中であることも忘れて、大きな笑い声を長屋に響かせた。







 夜が明けるとすぐに、振り売りたちは寝床から這い出して、通りで商売を始める。町人の朝は早いのだ。布団は恋しいが、これを逃すとその日の稼ぎに大いに影響するのだから、致し方ない。幸いにも今は夏であるから、己らよりも早起きの太陽が辺りを照らし、振り売りたちを慰めている。


 ところがその日、いつもならばとうに姿を見せるはずのオキクがいなかった。ある者はオキクのことを心配し、またある者は競争相手が減ったことに安堵していたが、ほとんどの者はオキクのことなど気にもせず、己の売り物に心血を注いでいる。今日を生き抜くのに必死な者ばかりなのだから、他人にかまっている余裕などない、というのが本心だった。

 オキクだって、昨夜の疲れがなければ、この日も早いうちから起き出して、せっせと日銭を稼いでいたに違いない。


 そんな振り売りたちの間を、岡っ引きのタカマ親分と、小綺麗で高直な着物を着たミツキが、こっそりと通り抜けて行った。


「本当にいいのか、オキクさんやハクに黙って行っちまって」


 小声でタカマが話しかけると、ミツキは小さく肩をすくめた。


「わざわざオキクさんに怒られるために、残ることもないだろう」

「怒りゃしねえよ。そりゃあ、途中いくらか、ぶん殴りたくなることもあったが、結果としてお前はハクを助けたんだ」

「それは結果論だよ。私は正直……ぎりぎりまで、ハクはコユキさんに預けるのがいいのじゃないかと、本気で思っていたよ」


「……やっぱり今からとって返して、オキクさんに一発殴ってもらうか?」

「はあ、嫌だ嫌だ。岡っ引きの発想は物騒で良くないねえ」

「どっちがだよ!」


 己のことを棚にあげたミツキの言葉に、ついタカマは怒鳴り声をあげた。しかし怒られた当の本人はというと、からからと快活な笑い声をあげているのだから、怒りがいがない。


「ところであの時、コユキさんはオキクさんになんて言ったんだ?」

「あの時?」

「とぼけんな」


 オキクに『何か』が近づき、なにやら囁いた。そして次の瞬間、ハクに異変が起きたのだ。なんて言ったのか聞き取れたのだろう、と言い切るタカマに、ミツキはニヤニヤとした意地の悪い笑みで返した。


「へええ。お前さん、よくコユキさんの動きがわかったね。お前さんはオキクさんと違って、丸薬を飲んでいたわけではなかったのに」


 顔面を叩かれたみたいな心持ちがした。ミツキにならばれてしまっても構わないと思っていたのに、幼い頃に植え付けられた印象は、やはり拭いがたいものなのか。


「その顔、やっぱりね。そんなことじゃないかと思ったよ。

 お前さん……幽霊が見えるんだね」

「……そんなんじゃねえよ」

「またまた」

「本当さ。見えるんじゃねえ。……感じるだけだ」


 苦虫を噛み潰したように、タカマが吐き捨てた。


「いつから?」

「昔っからさ。覚えてもいねえガキの頃から、おれには人ならざるものが見えたり、聞こえたりした」


 何も分からぬ幼子の頃は、それをよく両親や友人に話した。それで狐憑きだなんて噂もたってしまったのだ。分別がつくようになってからは、それをひた隠して暮らすようになった。

 大人になれば変なものも見なくなるものだ、と両親には話していたが、それは嘘だった。大きくなっても、その変な力は衰えることなく、タカマの視界の端を汚すのだ。


「だがまあ、ちょいと変なもんが見えたり、聞こえたりするだけだ。慣れれば無視することくらい、どうってことねえよ」


 己のことだというのに、小指で耳を掻きながら、どうでも良さそうに語るタカマを、ミツキは興味津々といった様子で見ていた。見られているのが分かっているから、なんだかどうにも照れくさい。


「なんだよ」

「お前さん……わざと私を巻き込んだだろう」


 そう言われて、タカマは肯定も否定もしなかった。


「ハクの狐憑きが幽霊の仕業とわかって、でも己ではどうしようもなくて。それで、どうにかできそうな私を、わざとふざけた罪状で捕まえて、協力させたんだ」


 確信を持ったらしいミツキにそこまで言われ、タカマはぺろりと舌を出した。


「さて。何のことかな。おれはちゃんとした岡っ引きだから、そんな適当なことしねえよ。

 ……まあでも、確かにおれはハクを見て、すぐに何かが取り付いていると分かった。感じるだけしかできないから、あれがコユキさんだとは気付かなかったがな。

 とにかく、それで普通の医者に見せても、だめだと分かった」


 普通じゃない症状に悩むハクを救うには、普通じゃない方法をとるしかない。例えば、妖退治で有名な高僧にでも依頼すれば、治すことができるかもしれないが、長屋住まいの者にとって、高僧への相談料など、払えるはずもない。

 俗世を離れた坊主であっても、人である限り、生きていくには金子がいる。金のあるなしで救う人間を選んでいるというのに、それで高僧だというのだから、呆れたものだ。


「なあ、ミツキ。あんた一体、何者なんだ」


 一目見て、人ではないと分かった。けれど、妖しい気配もない。悪鬼の類ではないだろう。しかし、では何だと問われると、その答えをタカマは持たない。

 ミツキはタカマの問いを聞いて、曖昧に肩をすくめる。


「……答えたくないなら、いいけどよ」


 タカマの呟きに安堵したように、ミツキがにこりとする。そして気を取り直したように伸びをすると、街と街をつなぐ日本橋の前まで行って、くるりとタカマを振り返った。長屋を出た時にはまた薄暗かったのに、今やすっかり日も昇り、本格的に今日が始まろうとしていた。


「さて、じゃあ私はもう行くよ」

「なんだ、京橋のあたりくらいまでは、送って行くつもりだったが」

「大丈夫。若い娘の一人旅じゃあないんだ。私を襲っても得などないよ」

「金子目当ての輩なら、いくらでも集まってきそうだが」

「あはは、私を襲おうだなんて、命知らずなことだね。どうなっても知らないよ」

「やめてくれ。その冗談は洒落にならん」


 何しろ彼は人ではないのだ。人の常識など通じないうえ、明らかに常人とは違う能力を有している。悪霊をけしかけるくらい簡単にできそうだ。

 今後、お調べで首なし死体とかが出てきたら、真っ先にミツキを疑ってしまうかもしれない。


「おや、失礼な。私はそんなことしないよ」

「お前っ! 心を読めるのか!」

「いいや、できない。親分の顔が分かりやすいだけだよ」


 本当に人を食った男だ。この男の正体は人食い鬼なのではなかろうか。


「ははっ、親分は本当に失礼だ。

 まあでも、そのくらい厚顔なほうが、お調べには向いているのかもしれないね」

「余計なお世話だ」


「頑張って袖の下も集めなよ。なにせいきなり一児の父になろうというんだ、金は入用だろう。オキクさんだって、ある程度以上の金を持った男のほうが、安心して嫁げるってもんさ」

「なっ! おまっ!」

「気づかないとでも思ったのかい? 私は木石じゃぁないんだがねえ」


 突然の言葉に顔を赤らめるタカマを見て、ミツキはこの日一番愉快そうに笑った。


「頑張りなよ。せっかく一難去ったんだ。またオキクさんを不幸にするわけにはいかないだろう」

「わかってら」

「ハクのこと、気にかけてやっておくれ。まあ、あの子には二人の優しい母が付いているから、心配いらないとは思うがね」

「二人の父も、追加しておけ」

「おや、もう親気分かい? 少々気が早いね。これでオキクさんに振られでもしたら、あまりに格好がつかないねえ」


 軽口を叩いて、ミツキは荷を背負い直した。おしゃべりは終わり、ということだろう。


「達者でな」

「お前さんも、元気でね」


 そう言ってミツキは日本橋を渡る。その背を見届けて、見えなくなって、タカマは青空に向かって一人呟く。


「さて。とりあえず……花でも買って帰るかな」

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