第8話 狐憑き 中

 オキクは仕事があるため、オキクの長屋へ、タカマとミツキは先に行くことにした。何度も来たことがあるから、このあたりの人は、タカマが来ていても特に何も反応がない。しかし今日は、ミツキを連れている。

 ミツキは一目見てわかるほど良い身なりをしているし、何より顔立ちが小綺麗だ。ジロジロとこっちを見てくる視線が肌に刺さる。しかし、狐憑きとの噂さえある少年に関わるのが嫌なのか、岡っ引きの己に関わるのが嫌なのか、話しかけてくる者はいない。


 二人は長屋へたどり着くと、遠慮なく部屋に上がり込んで、畳の上に座り込んだ。


「不思議か?」


 干してある着物が、女物と子供用しかないことに気付いたらしいミツキに、タカマが声をかけた。ミツキは妙に頭がキレるというか、目ざとい。


「亡くなったんだよ。旦那は。半年前のことさ。流行り病で、ぽっくりとな」


 タカマに倣って部屋に上がり込んだミツキは、黙ってタカマの話を聞いていた。視線が先を話せと促している。


「可哀想になあ。まだ二人の間には、子供もいなかったんだぜ」

「……じゃあ、ハクという子は、やっぱり」

「ああ、そうだ。旦那の連れ子だよ」


 やはりミツキは、オキクが七つの子の母にしては若すぎることに気付いていたようだ。

 もともと旦那には年上の女房がいて、二人の間には子供が一人いた。それがハクだ。しかし幸せはそう長くは続かなかった。ハクが五つのとき、女房が亡くなった。病だったそうだ。


「まだ五つの子供には、やっぱり母親が必要だよなあ。だから旦那は、後妻になってくれる女を、必死に探したらしい」


 しかし長屋住まいでそれほど金があるわけでもない旦那に、しかも五つになる子供がいるというのに、良縁などそうそう転がっているものではない。

 そこで白羽の矢が立ったのが、オキクだった。


「オキクさんは、実は以前に、夫に離縁されてるんだよ」

「綺麗で優しげな人だったのに、どうして」

「子供ができなかったのさ」


 この時代、子供ができないとなれば、悪いのは全て女ということになる。一方的に離縁されても、女は文句が言えない。


「まったく馬鹿げてる。必ずしも女が悪いってわけじゃあ、ないのになあ」


 そして一度その理由で離縁された女は、次に嫁ぐことが難しくなる。誰だって、己の子が欲しいと願って嫁をもらうのだから。


 けれど今回の場合、旦那にはもう子供がいる。だからオキクが子を産めなかったとしても、問題はない。オキクも以前の結婚で子を産むことは叶わなかったが、それでも子が欲しいと願っていた。だから、もう五つとはいえ子供がいる旦那との縁談は、喜ばしいものだったらしい。


「とはいえ、周囲の反対やら、まあ、いろいろ面倒なこともあって、二人が結婚できたのは、つい一年前のことだったのさ。オキクさんは、結婚してからたった半年で、旦那を亡くしちまったんだよ。

 せっかく幸せになったと思ったら、またそれを奪われて。もうオキクさんには、ハク坊しか残ってないんだ」


 そこまで話して、タカマは遠くへ目をやった。ここは、よそに比べれば大分治安が良い。とはいえ、流行病や火事で夫をなくす妻は、珍しくない。オキクだけが特別不幸というわけではないのだ。それでもタカマは、オキクが憐れでならなかった。

 後ろからミツキの苦笑が聞こえてきて我に返り、くるりと振り返る。


「真剣に下手人を探して欲しくて、わざわざ私にそれを話したのかい?」

「別に、そういうつもりじゃ……」

「心配しなくていいよ」


 ミツキは準備運動をするように伸びをして、肩をぐるぐると回している。


「経緯がどうあれ、私はハクを助けると言ったんだ。結果、必ず救えると約束することはできないけれど、全力を尽くすことだけは、誓うよ」


 そのとき、後ろで戸が開く音がした。タカマとミツキは揃って首を回す。そこには、年の頃七つほどの、可愛らしい男の子が立っていた。


「おお、ハク坊!」


 己の家に男が二人も入り込んでいて驚いたのだろう、入り口に突っ立ったまま固まっていたハクが、顔見知りの岡っ引きを見つけて、ふにゃっと表情を緩めた。


「狐の親分」


 ハクはタカマをそう呼んだ。ミツキに訝しげな顔を向けられて、タカマは肩をすくめた。


「実は昔、おれも狐憑きと呼ばれる時期があってな」


 狐憑きと言われ、除け者にされていたハクに、それを告白して慰めたのだ。それ以来、ハクはタカマを狐の親分と呼ぶ。


「その噂、広まってしまっても大丈夫なのかい? お前さん、もう結婚しているの?」

「いや。独り身だが、結局おれは狐憑きではなかったからな。ハクと同じさ。だから、何も問題ない」


 狐憑きは遺伝する。だから特に未婚の人間にとって、狐憑きと噂されることは実に厄介なのだ。だが、ハクほど小さな子に、その理屈を理解することは難しい。


「狐の親分、今日はどうしたの? オキクさんなら、外で枝豆を売ってるよ」

「ああ、オキクさんには、もう会ってきたよ。ほら」


 そう言ってタカマは、懐から枝豆を取り出した。


「そうだ、ハク坊。おっかさんが戻ってくるまで、枝豆食ってようか」

「えっ。いいの!」

「いいとも。今夜おれたちは、この家に泊まらせてもらうことになったんだ。二人分の宿代としては、安すぎるくらいだ」


 ハクは嬉しそうに飛び跳ねて、タカマに何度も礼を言った。その様子を見て、こちらも笑顔で対応しながらも、タカマはこっそりと心の中で顔をしかめていた。


(こんなに賢い子が、狐憑きな訳がない)


 狐憑きであれば、こうもしっかりと、受け答えできるはずがないのだ。


 ハクは年の割に考えがしっかりしている。どこか良い職人の師匠のもとに弟子入りできれば、あるいは大店に奉公できれば、ハクの将来は明るい。そうしてしっかりとした収入を持ち、いつか綺麗な妻を得て、孫の顔をオキクさんに見せてあげてほしい。

 けれど、もしこのまま狐憑きの噂が消えなかったら、この子は母親以上に、縁談に困ることになる。いや、それどころか、まともな働き口さえ見つからないかもしれない。


(絶対に、なんとかしてやるからな)


 そんなくだらない噂に、ハクの将来がめちゃくちゃにされるのを、黙って見ていることなど、できるわけがなかった。

 うまそうに枝豆を頬張るハクは、幼さゆえに、事の重大さに気付いてない。けれど、それでいいのだ。子を助けるのは、周りの大人たちの役割なのだから。







 長屋の夜は、暗い。

 日が沈んだ後の光源は、月明かりか行灯の明かりになるのだが、月明かりでは家の中まで照らす事ことはできないし、あまりに明るさが足りない。となれば、行灯が頼りになるのだが、それには油が必要だ。


 油だって、ただではない。長屋暮らしの貧乏人に、無駄に油を消費するような余裕はなかった。自然と、日が沈むと眠り、日が登ると起き出すような生活ができあがった。


 ところがこの日、日はとうに沈んだというのに、長屋の一室では大の大人が三人も起き上がって、静かな寝息を立てる子供の姿を見つめていた。子供の眠りを妨げぬよう、明かりも灯していないから、はたから見れば、怪しいことこの上ない。


「ふぁあ……。狐は、まだ来ないのかね。なんだか私も眠くなってきたよ」

「おいっ、ミツキ! 今寝るなよ! お前、何のために来たんだ」


 小声でミツキを叱りつけるが、やはりミツキは気にした風もなく、眠そうに瞼をこすり、大きく欠伸をしている。


「そうは言われてもねえ。さすがに、一晩中気を張っているのは疲れるよ。いつもハクが起き出すのは、どの刻限なんだい?」

「も、もうそろそろだと思うんですけど……」


 オキクが申し訳なさそうに肩をすくめた。そのとき、


「……おっかさん」


 ハクの口から言葉が漏れ出た。全員の注目がハクに集まる。ハクは目を閉じたままで、変わった様子はない。起こしてしまったのではないようだ。


「寝言か……?」


 タカマが呟いた瞬間、ハクの目がぱちりと開いた。


「あっ」


 誰かの口から声が漏れる。大人三人の視線の先にいるハクは、そんな声や視線など気にした風もなく、生気のない瞳をミツキの頭の上あたりに向けた。


(出口に向かうんじゃないのか)


 てっきりハクはその足で、外に出てしまうのだとばかり思っていた。オキクによると、実際に長屋の門の前まで行ってしまったこともあるらしい。しかしこの日、ハクの目は外ではなく部屋の壁に向かっている。


「おっかさん」


 今度は先ほどよりもはっきりそう言うと、布団代わりにかけていた綿入れを跳ね除け、虚空に向けて手を伸ばす。呼ばれたオキクが横手からハクの手を掴み、己の胸のうちに抱き込んだ。


「ハク、ハク。おっかさんはここよ。目を覚まして」


 しかしオキクがどれほど叫んでも、ハクは母に気づかない。ただ虚空に向けて手を伸ばすばかりだ。


 ハクのただならぬ様子に、ミツキはさぞ驚いているだろう。そう思ってあの優男に顔を向けた。しかし彼は、なんとハクには見向きもせずに、ハクの手の先、何もない闇の中を見つめている。

 現実逃避でもしているのか、まったく頼りにならない男だ。やはり己がしっかりせねばなるまい。タカマは決意を新たにハクに向き合う。


「目を覚ませ、ハク。おっかさんなら、そこにいるじゃあないか。なあ」


 タカマは、虚ろな目をしたハクの頬を張った。パチンと軽い音がする。

 その途端、ハクの目がくるりと回り、白目をむいて倒れこんだ。


「ハクっ!!」


 オキクが悲鳴をあげた。必死になってハクの体を揺すった。それでも起きない息子に大慌ての母は、泣きそうな顔でタカマを見る。非難の眼差しを向けられたタカマは、慌てて両手を振って弁解する。


「大丈夫だ、オキクさん。ハクは気を失っているだけだから!

 なっ、そうだろう、ミツキ」


 ミツキは名を呼ばれて、はっとした様子でタカマたちの方を見た。まるで今し方まで、己らの存在を忘れていたかのようだ。二、三度瞬きをして、それからふわっと微笑んだ。


「……ああ、親分。ごめん、聞いていなかったよ。もう一度言っておくれ」

「聞いてなかったって……。お前、何をそんなに必死になって見てたんだ?」


 眉をひそめるタカマに、ミツキはわかりやすく首をかしげた。


「うーん……そうだなあ。説明してもいいのだけれど……。

 いや、やっぱりやめよう」

「は?」

「明日になったら話すよ。今日はもう眠たくて仕方ない。こんな様子じゃあ、頭もろくに働かないだろう。

 ああ、大丈夫。ハクはもう今日は起き出さないよ。私が保証する」


 一方的に言い放つと、ミツキはタカマたちに背を向けて、ごろんと横になった。


「じゃあ、おやすみ。また明日」


 唖然としたタカマとオキクを置いてけぼりにして、ミツキは手足を伸ばす。それからほどなく、ミツキの静かな寝息が、粛粛とした部屋の中で音を立て始めた。


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