第8話 狐憑き 上
「おいっ! あんた」
大きく息を吸って、その全てを吐き出す勢いでタカマは叫んだ。
ここは大店の立ち並ぶ大通り。少々の地震ではびくともしなさそうな、立派な店がずらっと連なっている。金のあるところには、金のある人間が吸い寄せられるようで、行き交う人の身なりも、それ相応に洒落込んでいた。つい今しがた、そこの菓子司から出てきた男など、晴れ着かと見紛うほどに立派な羽織を、なんと普段使いに着込んでいる。
そんな通りに、己の様相が浮いていることなど百も承知で、その上さらに、大声をあげて注目を集めた。金持ちの通行人が何事かとこちらに視線を向ける。頬が少しばかり熱くなるが、タカマには躊躇いなど、欠片もなかった。
この羞恥心は、正義のためのわずかな犠牲だ。
「待てと言ってるだろうに!」
顔を赤くしながら通行人たちに向けて叫ぶも、相手の名が分からぬのだから、呼ばれた側も、己を呼んでいるのだとは気づかないだろう。それでも叫んだのは、十手持ちである己が大通りでこうも必死に叫んでいれば、不思議に思って足を止めるだろうと踏んだからだ。
しかし怪訝そうな表情で振り返るのは、何の関わりもない通行人ばかりで、追われている当の本人は、こちらの様子など一切気にした様子もなく、すたすたと歩を進める。仕方なしに、人混みをかき分けて必死に走り、ようやく男に追いついた。
手を伸ばし、高価そうな藍染の着物に手をかける。くいっと着物の袖を引かれた男は、そのとき初めてこちらに気づいたように、驚いた顔で振り向いた。
その男は、なんとも羨ましいことに、目元の涼しげな色男であった。このときタカマは、天は二物を与えずなどという言葉が、迷信だと確信した。少なくともこの男は、見目と金、その両方を持ち合わせている。きっと袂には、思いのこもった文が山と放り込まれているのだろう。
「おや。私に何か用かい?」
なんとまあ、声まで色男ときた。岡っ引きのタカマ親分は、懐から十手を取り出して、すっとぼけた男によく見えるように掲げた。少々息を整えてから、ぐっと威厳のある顔を作る。
「御用改めである。番屋まで来てもらおう」
男前の下手人は、たっぷり数十秒ほど黙った後で、十手とタカマの顔を見比べた。それから思い切り顔をしかめると、「はあ?」と間の抜けた声を出した。
男は、意外にも全く抵抗することなく、タカマに従って番屋までやってきた。普通こういうとき、下手人は不安に顔を青ざめさせたり、逆に怒りで顔を赤らめたりするものなのだが、この男にはどちらの様子も見当たらない。
よほど無罪放免となる自信があるのか、それとも諦めているのかとも思うが、どうも、そういうわけでもなさそうだ。どちらかといえば、この状況すらも楽しんでいるかのように、うっすらと微笑みさえ浮かべている。
余裕の表情を崩すことなく、軽く首を傾けて男が聞いた。
「それで、私は一体何の罪で捕まったんだい?」
下手人の名は、ミツキといった。しかしこの男、素直に番屋までついてきた割には、こちらの質問にはほとんど答えない。
結構長いことお調べをしていたはずなのに、分かったことといえば、ミツキという名前だけである。
ミツキはずっと旅をしているとかで、住所もなく職もないという。それでどうやって金を稼ぎ生活をしているのだと聞くと、「道道拾った薬草やらを売っているだけだよ」と答えるが、その程度の稼ぎで、これほど立派な着物を着られるとは思えない。やましいことがないとは、とてもじゃないが思えなかった。
しかし強面のタカマがどんなに質問攻めにしても、あるいは机を叩いて威嚇しても、ミツキはどこ吹く風で、のらりくらりとかわし続ける。
そうしてミツキはとうとう、タカマの問いに答えるのではなく、向こうから質問をぶつけてきたのだ。
「私は今日、通りを歩いていただけだと思うのだけれどねえ。この街には、表を歩くにも、何か決まりごとがあるのかい? そうだね、例えば……歩くときには右脚しか使ってはならない、とか」
冗談のつもりか本気なのか、ミツキは真面目くさった顔で両手を広げ、子供がやるようにケンケンをするふりをした。
「くだらねえこと言ってんじゃねえ。お前、ハク坊を誘拐しようとしただろう」
「ハク坊?」
「そうだ。向こうの長屋に住んでる、オキクさんとこの息子だ」
「私が、誘拐?」
「ああ、そうだ」
「長屋の、しかも男の子を?」
「その通りだ」
「……百歩譲って、私が誘拐の下手人だったとして、私なら、長屋住まいの子供より、ここいらの大店の跡取り息子のほうを狙うけどねえ」
長屋の子では身代金は期待できないし、男の子では売り飛ばすにも困るだろうと、どこか他人事のようにミツキはぼやく。それからふと気付いたように、付け足した。
「ん? 待っておくれよ。今お前さん、誘拐しようとした……と言ったね。ということは、そのハクという子供は無事なのかい」
「おう。七つの息子がいなくなったことに気づいたオキクさんが、必死になって取り返したらしいからな」
「それなら、どうして岡っ引きがお調べをしているんだい?」
「そんなこと決まってる。困っている人を救うのが、岡っ引きの仕事だからだ」
鼻を鳴らして答えるタカマだったが、ミツキはタカマの答えを聞いているのかいないのか、空を見つめてから、ぽんと手を打った。
「ああ、そうか。あの大店の主人らにでも依頼されたのかな」
この男、何も考えていないようで、その実、痛いところを突いてくる。ぐっと言葉に詰まったタカマを見て、ミツキは得心がいったと言わんばかりに大仰に頷いている。
「岡っ引きの収入は、大店の主人からの袖の下が頼りだと聞くからねえ。
そうか、たしかに近所で子供が誘拐されかけたとあっては、幼い跡取りを持つ大店の主人は、心配でならないだろう」
そして袖の下をもらったからには、大店の主人たちの期待には応えなくてはならない。そうしないと、さすがに払った金子を返せとは言われないだろうが、以後の袖の下が期待できなくなる。
「下手人が何を思って、長屋の男の子を狙ったのかは分からないが、大店を狙う度胸も、知恵も持ち合わせていない可能性が高い。だとすれば、今親分にとって重要なのは、犯人を捕まえることじゃぁなくって、いかにして大店の主人連中を安心させるか、だ」
ミツキは頬杖をついて、上目遣いにこちらを見てくる。容姿が美しいせいだろうか。睨んでいるわけでもないのに、なぜだかとても迫力があって、タカマは何も言うことができない。
「だから親分は、ある程度金子を持っていそうな旅人である私に目をつけた」
旅人であれば、釈放金だけ払えれば、その後も何も問題なく旅を続けられる。大店の主人らには、下手人は捕まえたと、己の有能さをアピールでき、また期待にも応えられる。本物の下手人は野放しになってしまうが……母親が追い払えた程度の者なら、放っておいても大きな被害は出ないだろう。
「どうだろう。当たっているかな」
まるで見てきたように推理を披露するミツキに、タカマはいきり立った。
「適当なことを言うな! あの夜、お前の藍染の着物を見た者がいたんだ!」
「へえ、夜にかい? 花街もないこの辺りの夜は暗い。長屋周辺なら、なおのことだろう。そんな暗さで、藍の着物が見えたと?」
「そ、そうだ! ええい、とにかく、ついてこい。オキクさんの長屋へ、連れていく!」
動かぬ証拠を鼻っ柱に叩きつけてやると息を巻くタカマを見て、ミツキはやれやれと言わんばかりに肩を落とした。
大店の多い通りを抜けると、夜に寝床に入って帯を緩めたように、少しばかり安心したような心地になる。己は根っからの貧乏症なのだなと思い、タカマは内心で苦笑していた。隣を歩くミツキのような男には、きっと一生涯わからない感覚だろう。
昼時も終わり、そろそろ夕刻に差し掛かる。ここが勝負と気張った振り売りが、あちこちで大声を張り上げていた。その中から、聞き覚えのある声を見つけて、タカマは突然立ち止まった。
「親分、どうしたんだい?」
ミツキが聞いてくるが、それを無視してタカマは手を振った。
「おおい、オキクさん」
タカマがそう叫ぶと、ミツキもそちらへと顔を向けた。籠いっぱいの枝豆を抱えた女が、額に汗を滲ませて笑顔を見せた。
「あら、親分さん。今日も枝豆、買って行ってくれるの?」
ぱたぱたと足音を立ててこちらに向かってくるのは、例のハク坊の母、オキクであった。一人遊びに出かけてしまうような年の息子がいる母の割に、彼女は若い。ミツキもそれに気がついたようで、片方の眉を少しばかり跳ね上げさせた。
「ああ、じゃあ、もらおうかな」
「いつも贔屓にしてくれて、ありがとう。……ところで」
枝豆をタカマに渡してから、オキクはミツキのほうを見た。
「あの、こちらは、どちら様かしら」
問われて、ミツキは微笑んだ。ただでさえも男前な顔を、さらに魅力的に見せつけている。
「はじめまして。私はミツキ。ハクという子供を誘拐した下手人に、仕立て上げられそうになっている、哀れな男だよ」
「おいっ!」
悪意がたっぷりと込められたミツキの自己紹介に、タカマは慌てて待ったをかけるが、もう遅かった。オキクは事情を察したようで、「まあ!」とタカマに批判的な顔を向けてくる。周囲に聞こえないように、小声でタカマを責めた。
「親分さん、何度も言っているではありませんか。息子は、一人勝手に出歩いてしまうのですよ」
「ああ……。夜の間だけかかる、狐憑きだったか」
「知っているのなら、どうして……!」
「ただの狐憑きならいざ知らず、夜だけなど、明らかにおかしい。裏で糸を引いている者が、必ずいるはずだ」
そうしてぐいっとミツキの腕を掴むと、自信たっぷりに胸を叩いた。
「そしてこの男がそうだと、おれの岡っ引きとしての勘が、告げているのさ」
「え? ちょいと、待っておくれな。勘だって? 目撃者がいたんじゃあ、なかったのかい?」
ミツキが目を丸くして抗議の声を上げてきたが、タカマはそれを豪快に笑い飛ばした。
「暗い夜だぞ。目撃者など、いるものか。さっきお前がそう言ったんじゃないか」
「じゃあ、本当に打算だけ?」
「打算じゃない。勘だ」
「……なんだか、頭痛がしてきた気がするよ」
自由な方の手で頭を抱えるミツキに、心底申し訳なさそうにオキクがうなだれた。
「ごめんなさい。私たちのせいで……。親分も、悪い人じゃないんですが」
「いや、お前さんが謝ることではないよ。気にしないでおくれ」
ミツキが怒ってはいないことを確認すると、オキクはホッとした様子で胸をなでおろした。それからタカマに向き直ると、強い口調で言った。
「親分さん、ひどいことはやめて。勘などで捕まってしまっては、ミツキさんがあまりに気の毒だわ」
被害者であるオキクにそう言われ、タカマは一瞬たじろいだ。しかしすぐに気を取り直すと、「ならば、こうしよう」とミツキに向かって提案した。
「今夜、おれとお前で、オキクさんの家に泊まろう。ここ最近は、毎日、ハク坊はふらふらと出かけてしまうらしいから、それを追いかけるんだ。うまくいけば、下手人がはっきりと分かるかもしれない」
「はあ? なんで私がそんなこと」
「いいじゃないか、お前は疑いを晴らせる。おれは下手人が分かる。どちらにも損がない良い取引だ」
まだ不満そうなミツキに、ニヤリと笑って止めを刺す。
「なあに、これも人助けだと思えば良いのさ。医者も匙を投げた狐憑き、それに罹った可哀想な少年。それを助けないだなんてなぁ、男の風上にも置けねえ。
当然、お前も協力してくれるだろう? ごく普通の、善良な旅人ならな」
含みを大いにはらんだタカマの物言いに、ミツキはぐっと顔をしかめる。しかしそのとき、ミツキの目がオキクに向いた。心優しいオキクは、ミツキには申し訳ないと思いつつも、母であるから息子のことは心配なのだろう。幾ばくかの期待のこもった目で、ミツキを見ている。
やがてミツキは大きくため息をついた。
「はあ。やれ、なんだかまた面倒なことになったけれど……分かった。いいよ。協力してあげるよ」
「そうかそうか! なら、決まりだな」
実に機嫌よく笑うタカマ。彼が差し出した手を、ミツキはしっかりと握り返した
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