第7話 不幸な青年

 白い米と漬物、汁物だけという簡素な昼餉を胃袋の中に掻きこむと、カズマはそそくさと膳を片付けた。


「ご馳走様」

 叫ぶと、乳母やが険しい顔でこちらを見てくる。

「坊ちゃん、あまり急いで掻きこむと、体に悪いですよ。もっとゆっくり食べたらどうですか」

「うるさいな。きちんと食べてるんだから、いいだろう。それから坊ちゃんと呼ぶな。

 俺はこれから少し出かけてくる。すぐ戻るつもりだが、もし遅くなったら先に仕事を始めていろ」


 まだ昼餉を食べている奉公人たちに一方的に言い放つと、カズマは父が営んでいる反物屋を出て行った。後ろから己を呼ぶ声が聞こえた気がするが、それに応える暇はない。

 何しろこれから己は、己の不運を取り除いてもらいに行くのだから。





 街に出ると、カズマは大急ぎで通りを東へと走った。先ほど見た旅人は、そちらの通りへ進んでいった。本当はすぐに追いかけたかったのだが、口うるさい乳母やや父が見ているせいで、少しばかり時が経ってしまった。


(大丈夫だ。あの旅人は身なりも良かったし、金に困っているようにも見えなかった。今はちょうど昼餉時だ。どこかの茶屋か蕎麦屋とかで、休んでいるに違いない)


 カズマの読み通り、そうしばらくも行かないうちに、旅人が蕎麦をすすっているのを見つけることができた。


「おいっ! お前」

 カズマが息を切らして旅人の前に立ちはだかると、旅人はきょとんと首をかしげ、口の端からはみ出した蕎麦をずずっとすすった。


「私に何か用かい?」


 旅人はいかにも高価そうな藍染の着物を着ていた。役者のような顔立ちをしているが、己に言わせれば、大した顔ではなかった。これに騙される女は、相当頭が弱いに違いない。

 しかし身に付けているものはどれも一流で、綺麗な帯には上品なトンボ玉の根付がくくりつけてある。こんなところでふらふらしていることから察するに、たぶん、大店の次男坊か何かだろう。


 だが今は、そんなことはどうでもいい。


「俺は見たんだ。向かいの店の女中に、疫病神を取り除いてやると言っていただろう」

「…………」


 男は答えなかった。しかし、カズマは確かに聞いたのだ。鞠のようなものが見えると。それが疫病神であると。こちらも仕事があったから、ずっと盗み聞きできたわけもなく、細部は曖昧だが、それだけは間違いない。


「俺に憑いている奴も、取れるんだろう?」

「お前さんに疫病神が?」

「とぼけるな、見えているくせに」


 白々しく首をかしげる男に、いらだちを隠さずに吐き捨てた。この男、女中に取り憑いていた疫病神は、外してやるとあちらから話しかけたのに、カズマの疫病神は見えないふりをしている。なんと性根の腐った男だ。

 こうしている今も、カズマの視界の端には、白い鞠が弾んでいるというのに。


「いや、確かにお前さんには、妖しのものが取り憑いているよ。けれどそれは……」

「ほら、やっぱりそうだった!」


 カズマは男の言葉を遮って、それ見たことかと言葉を弾ませた。

 おかしいと思っていたのだ。大店と呼んでも差し支えない店の長男に生まれておきながら、己の現状はあまりにも不遇だった。


 店を継ぐためと言って、両親は厳しく己を躾けた。満足に遊ぶこともできず、勉学に励めと強要された。乳母やは言うことを聞かないし、算盤は難しい。どれほど苦労しても、一向に上達する気配もない。

 挙げ句の果てには、他所の店に婿入りした次男の方が出来が良かった、生まれてくる順が逆であれば良かったなどと囁かれる始末。己は何も悪くなどないのに。

 それだけではない。大店の跡取り息子である己の何が気にくわないのか、町一番の小町との縁談はうまく行かなかった。己はもう二十になるというのに、嫁さえ見つかっていない。


 これが疫病神の仕業でなくて、何だというのか。


「さあ、早くこれを取り外せ。今すぐにだ」

「落ち着いておくれ。お前さんのそれは、疫病神ではないよ。むしろ逆で、幸運をもたらすものだ。

 それを外してしまったら、お前さん、大変なことになるよ」

「やはり外せるんだな!」


 男が何やらごちゃごちゃと抜かしていたが、とにかくこれを取り外せることがわかって、カズマは目を輝かせた。


「……お前さん、私の話を聞いているかい?」

「ああ、聞いているとも。

 だが、これが疫病神でないなど、信じられるものか。そうでなければ、俺の今までの不幸は何だったのだ。

 ははあ、さてはお前、俺が羨ましいんだろう。そうだな、俺は大店の跡取りなんだ。疫病神さえいなければ、誰からも羨ましがられて、尊敬されるべきなんだ。

 さあ、御託はいいからこれを外せ。三度は言わないぞ」


 カズマはこの機会を逃してなるものかと、男の着物の襟元を掴んで詰め寄った。男は呆れたような、阿呆みたいな顔を引っさげていたが、やがて、やれやれと首を振りながらカズマの手を着物から取り外した。


「はあ。……まあ、いいけどね。そこまで言うなら、外してあげるよ」

「おお! そうか。さあ早くしろ」


 カズマは両手を広げて、さあ! と男を急かした。男は最後にもう一度だけ、念を押す。


「繰り返すが、本当にいいんだね。

 後悔することになるよ」

「はっ。後悔などするものか!」


 カズマは男の戯言になど耳を貸さなかった。


「……わかったよ」


 そう言うと、男はカズマの視界に映り込んでいる白い鞠を指で弾いた。一匹を弾くと、すべての鞠がカズマから逃げるように消え去っていく。ぴいぴいと恨みがましい鳴き声を残して、あちらへ、こちらへと散っていく。


「おお……。おおお!」


 本当に消えた!

 己がどれほど叩いても、するりと避けてしまって、触れることさえできなかったというのに、この男はいとも簡単にそれを成し遂げたではないか。


「やったぞ!」


 そのとき、時刻を知らせる鐘が鳴った。しまった。これが鳴る前に店に戻るつもりであったのに。この男が妙に渋るせいで、ずいぶん時間を食ってしまった。


 カズマは大急ぎで店へと走り出した。


 疫病神を取り除いた今、己にもう怖いものなどない。明るい未来を思い描いて、カズマの足取りは、恐ろしいほどに軽かった。

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