第6話 幸福な少女

 痛っ。

 声に出さずに小さく叫ぶ。

 冷たい水が、あかぎれに滲みた。思わず雑巾から手を離してしまい、パシャりと音を立てて、桶の水が跳ねた。


「何してるんだい。お前は本当にのろまな子だね」


 鋭い声が頭上から降ってきて、ジュリは弾かれたように顔を上げた。ジュリが奉公している店のおかみさんが、目を三角にしてこちらを見ている。


「ご、ごめんなさい。すぐに片付けます」


 ジュリが身を縮めて謝ると、おかみさんは、ふんっと鼻を鳴らして、足早に立ち去っていく。店表の方へ向かっているから、今頃はきっとお客様向けの、満面の笑みを浮かべているに違いない。


 おかみさんの背中を見つめていると、視界の隅に小さな黒い何かが映り込んだ。それは鞠のように丸く、よく弾む。中央には不気味な目鼻がくっついていて、何かの生き物かとも思うが、それをなんと呼ぶのかまでは、ジュリは知らない。


「どいてください。邪魔です」


 頼んでみても、それはニヤニヤとした笑みを浮かべるだけで、音もなくジュリの周囲を飛び回った。

 この変な生き物が見えるようになったのは、数年前からだ。はじめのうちは、一匹か二匹だったと思う。けれど、いつの間にやら数が増えて、今では十を越す鞠がいつもジュリの周りを跳ねていた。


 ジュリは頬を張って、気合いを入れ直した。ぱんっという破裂音が己の頬から聞こえる。

「大丈夫。私、まだ頑張れるわ」

 決意とともに小さく呟くと、ジュリは汚れた台所の掃除に戻った。





 忙しい昼餉の片付けもすみ、時間を持て余すようになると、ぞろぞろと後ろをついてくる黒い鞠とともに、ジュリは店表の掃除に移った。ついつい後回しにしがちだが、店の前を掃き清め、お客さんが気分良く買い物できるよう努めるのも、ジュリの大切な仕事だった。


 この日は風が強く、秋にしては寒々しい陽気だった。思わずジュリは手にした箒を胸に抱き、風上に背を向ける。


「今日は風が強いね。その着物では、少々薄すぎやしないかい?」

 その言葉が己にかけられたものだと気づくのに、少々時間が必要だった。

「え……? あ、ごめんなさい。なんでしょうか」


 ジュリが慌てたのは、声をかけてきた男が、余りにも自分とは住む世界が違うような男だったからだ。

 旅人、だろうか。男はとても綺麗な顔立ちをしていた。その優しげな顔をこちらに向けて、笑いかけている。身につけている藍染の着物も、一目見てわかるほどに高直な代物である。


 ジュリは見すぼらしい己の格好が、なんとなく恥ずかしくなって、男の顔をまともに見ることができなかった。


「こちらこそ、仕事中に話しかけてしまって、すまないね。

 だが、あまりにも寒そうだったから、つい」

「慣れておりますから……大丈夫です。お気になさらないでください」

「そうかい? まあ、それなら良いのだが」


 男はそう言うと、表に並んでいる商品の一つを手に取った。それは鼈甲で作られた簪だった。何かを確かめるように、滑らかな表面を指でなぞっている。


「贈り物ですか?」

「うん、そうだねぇ」


 男はしばし空を見つめてから、簪をそっとジュリの頭にかざした。


「良ければ、買ってあげようか」

「へっ?」


 変な声が出てしまって、ジュリは顔を赤くした。それからすぐに、男が冗談を言ったのだと思い至り、赤面したことを恥じて、さらに朱が深くなる。

 鼈甲は安いものではない。行き合ったばかりの女に気まぐれに渡すようなものではないのだ。それを指摘すると、

「冗談のつもりではなかったんだけどね」

 男はそう言って肩をすくめると、簪を元の場所に戻した。


「ところでお嬢さん。お嬢さんは、疫病神というものを知っているかい?」

「や、疫病神……ですか?」

「そう」


 男の発言には脈絡がなく、問うている意図がわからない。戸惑った表情のまま、ジュリは知っていることを答えた。

 変わった男だが、客であるなら丁寧に接するべきだし、そうでなかったとしても、どんなときでも真剣に問答をすることは、人として当然のことと思われたからだ。


「えっと、人を不幸にする神様……ですよね」

「人を不幸にする、までは合っているよ。けれどあれは、神ではないんだ」


 男によると、それは生き物というより、自然現象に近いものだという。数匹がたかっているうちに、なんとかできれば良いが、放っておくと、どんどん数が増えていく。


「そして増えた分だけ、運んでくる不幸も大きくなる」

 十を越えると、命に関わる不幸すら、運んでくるのだそうだ。


 男はずっと浮かべていた笑みをふっと消すと、まっすぐにジュリを見た。


「お嬢さん、黒い鞠が見えているだろう。それも、かなり多い」


 ジュリは驚いて男を見た。他人に鞠が見えたのは初めてのことだったのだ。これまでずっと、誰に話しても信じてもらえなかった。もしかしたら幻覚ではないかとすら思っていたのに。


「私は、それを外すことができる。

 ……ああ、別に、お代をとろうっていうんじゃないよ。ただ、あまりにひどくて見ていられなくてね。どうだろう。外させてくれないかな」


 男があまりに真剣な様子なので、ジュリはしばらくの間返事が出来なかった。

 たっぷり時間をかけて、ジュリが紡いだのは、笑い声だった。


「ふふっ。冗談ばっかり」

 ジュリがひとしきり笑うのを、男は表情を崩さずに見つめていた。

「もしそれが本当だとしたら、私はとてつもない不幸に見舞われているはずですよね」

「そうなるね」

「じゃあ、やっぱりそれは勘違いですよ」

 ジュリは自信たっぷりに言い切った。


「寝床もある。仕事もある。ご飯だって、食べさせてもらえる。

 私は今、心の底から幸福なのです」


 とびっきりの笑顔を男に向けた。すると男はしばらく黙ってジュリを見ていたが、やがて小さくうつむいて、「そうか」と言った。


「お嬢さんがそう言うならば、私は何もできないね」


 男はちらと、店の中を覗いた。旦那様とおかみさんが、誠実に働いている姿が映ったことだろう。


「ひやかしですまなかったね。私は行くよ。

 せめて、お前さんのこれからの人生に、幸多からんことを祈っているよ」


 男は実に気の毒そうに、そして少し頼りなさそうに笑った。


「ありがとうございます。道中、お気をつけて」

 男は軽く手を振って、着物の裾を翻した。綺麗な藍染の着物は、やがて人ごみに紛れて見えなくなった。

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