第5話 天女の住む村

 暖かな日の光が差し込む離れの部屋で、年の頃二十ほどの女性が、ほっそりとした手を合わせ、静かに祈りを捧げていた。

 しばらくすると、女性の祈りは、どたどたとやかましい足音に邪魔された。そちらを見ると、恰幅の良い年増の女性が、はち切れんばかりの笑顔を向けていた。


「サチ、お客様だよ」

「はい、おっかさん」


 サチは静かに立ち上がると、店表へと向かう。前を歩く母は、すでに腰が曲がり、頭にも白いものが混じり始めている。それを見るたび、サチは己の選んだ道が本当に正しかったのか、不安になる。


(私も本来なら、子を産んで、育てている年頃なんだ。おっかさんだって、孫の顔が見たかったろうに)


 ずっと昔、孫に囲まれて静かにこの世を去るのが人生の目標だと、母がこぼしているのを耳にした。しかしサチは、そうした普通の人生を送ることを望まなかったのだ。


 サチの家は、小さな薬種屋だ。とはいえこの小さな村に他に薬種を扱う店などなく、腕の確かな医者さえいないとくれば、いくら小さかろうとそれなりにお客は来る。明日への不安も少なく、またサチは見目にも恵まれていたため、持参金を持てない身の上であっても、良い縁談はある程度転がっていた。

 しかしサチは幸か不幸か、薬種屋として、驚くほどの才覚を見せた。






 はじめは、たった七つの頃だった。

「ねえ、おっかさん。さっきのお人、お腹のご病気?」


 店表で生薬を刻んでいた母は、外で遊んでいたはずの娘が己の背後に立っていたことに驚いて、危うく薬を取り落としそうになった。


「なんだい、サチ。お前、友達と遊んでたんじゃないのかい?」

「そうよ。でも皆、そろそろ家の手伝いがあるからって、帰ってしまったの。ねえ、さっきのお人のお薬を作るのでしょう? 手伝いたいわ」


 要するに、遊び相手がいなくて退屈なのだ。母はそう判断したようで、奔放な娘に眉根を寄せた。


「それならお前、手習いでもしたらどうだい? 文の一つも書けないようじゃあ、良縁は期待できないよ」

「もう、またそれ?」

「じゃあ、お琴の稽古だ」

「いや。私、おっかさんの仕事を手伝いたい。おとっつぁんは、また、買い出しなのでしょう? それにはついて行けないもの」


 店を手伝いたいと言う娘の言葉が、ありがたくないわけではなかっただろう。しかしサチには兄がいる。兄は薬種屋の跡取り息子として、すでに店を手伝っているから、サチはどこかへ嫁ぐこととなる。とすれば、薬種の取り扱いよりも、習字や琴、料理といった、女子らしい習い事を伸ばすべきではないか。母のそういった考えが手に取るように分かる。

 サチがぐっと唇を噛み締めて母を見つめていると、「おおい、薬を頼みたいんだが」との声がかかった。奉公人を雇う余裕のない薬種屋は、いつでも人手不足だ。母は新たな客の来訪を知り、仕方がないというように首を振った。


「……じゃ、人参を刻んどくれ」

「はい!」


 サチは薬研を手に取り、母に言われた通り、人参を刻む。しかしすぐに、母がしている作業が気になって、ソワソワと視線を遊ばせた。


「なんだい?」

 母もそれに気づいた様子で、娘に聞いた。

「おっかさん、それ、何?」

「何って、霊芝だよ」

「だめよ、それじゃ」


 サチは首を振って、はっきりと言い切った。

「さっきのお人には、霊芝は効かないわ。麝香の方がいいわよ」

「はあ?」

 母はあっけにとられて、口を開けたまま娘を見た。

「どうしてそう思うんだい?」

「どうしてって言われても……。そういう色を纏っていたから」


 サチは困ったように眉を下げた。母は少し迷ったようだが、麝香もいいかもしれないと考えたのか、それとももともと入れるつもりだったのか、霊芝をよそにどけ、麝香を混ぜた。


 それからしばらくの後、サチが調合を手伝った客が、みるみるうちに回復したと、薬種屋に報告に来てくれた。一度きりならば偶然で済む話だが、なんとサチが配合に口を挟んだ客が皆、おかしいほどの回復を見せた。


 母は改めて、娘に聞いた。

「どうやって配合を決めているんだい?」

 後を継がせようと、厳しく教育していた息子ならば分かる。しかし娘には、生薬の配合について教えてなどいない。


 しかしサチはあっさりと笑って、

「やだ、おっかさん。そのお人の色を見れば、分かるじゃない」

「色って、何のことだい?」

 母は心底不思議そうに聞く。サチはきょとんと首をかしげ、

「どのお人も、服の上から、透けた衣のような何かを纏っているでしょう? その色を見れば、だいたいの体調は分かるじゃない。あとは、生薬の光の色を組み合わせて、その人に合うように仕上げるだけ」

 皆はそうやって配合しているのではないのかと、至極真面目な表情で聞くサチを、母が目を皿のようにして見ていたのを覚えている。


 二十歳を迎えた今では、この不思議な衣が己にしか見えていないことも、生薬が光って見えないことも、知識として知っている。しかし彼女にとって、人間とは不思議な衣をまとうものであり、生薬とは光るものなのだ。


 サチの配合はよく効いた。サチ本人が薬種に興味があったこともあり、店に立つことを許されると、めきめきとその実力を伸ばした。

 やがて兄はサチの指示した配合を作ることに専念するようになり、サチなしでは店が成り立たなくなった。その代わり、サチの噂は数里離れた村にも伝わり、難病を抱えたたくさんの人が村へやってきてはサチに助けを求めた。


 難病とはいえ、サチの村まで足を運ぶことができる人しか来なかったせいもあり、その全てをサチは救うことができた。いつしかサチは天女と呼ばれ、薬種屋は益々栄えた。


 こうなってくると、サチが嫁いで薬種屋から居なくなってしまうと、大いに困る。家族だけで細々と続けていた店は、今や奉公人を十人ばかり抱えたお店になったが、客が望むのは、天女が配合した薬なのだ。算盤を弾く番頭は頼りになるが、肝心の配合は、やはりサチ以外には任せられない。

 サチの配合方法が独特で、他人に伝えることができないのが問題だった。客が増えれば増えるほど、サチの負担は増すばかりだ。


(それだけ多くの人を救えていると思えば、まあ、それは良いのだけれど……)


 嫁ぐことはできず、跡を継いだ兄のことを思えば、婿をとることもできない。五つになった甥っ子を愛おしそうに抱く義姉が、たまに羨ましくなる。

 もやもやとした思いをかき消そうとするように、ぴゅうと風が吹いた。寒さに小さく咳き込んで、しかし同時に気分が少し良くなった。


「おや、サチ。風邪かい? 気をつけておくれよ」

「大丈夫よ」


 今日もたくさんの患者が待っているのだ。天女と呼ばれるのはこそばゆいが、そう呼ばれるだけの期待には、応えなくてはいけない。

 母となり、人並みの幸せを手に入れるよりも、薬種屋として人々を救うことに、生きがいを見出したのだから。


 風邪なぞ引いている暇は、己にはないのだ。





 交易で栄えた小さな村に、一人の旅人が訪れた。

 まだ若い旅人は、上等そうな藍染の着物を着て、高価そうな脇差を腰に提げている。彼の優しげな顔は役者かと見紛うほどに整っており、すれ違った女衆がきゃあきゃあと噂話をしていた。


 ここは甲州街道と中山道を結ぶ、人と物が多く行き交う村だ。数多の商人が声を張り上げ、旅人に食料を売り込む。若い旅人にも声がかけられているが、旅人はどの店にするか決めかねている様子で、あちこちに目を向けている。

 やがて旅人は小さな茶屋に目を向けると、その暖簾をくぐった。


「いらっしゃい」

 看板娘だろうか、年頃の、可愛らしい娘が熱い茶を運んでくる。

「ありがとう。団子を一つ、もらえるかな」

「はい、お待ちください」


 営業用の可愛らしい笑顔を向け、娘が着物の裾を翻した。

 待つことしばし、娘がおかわりのお茶と、暖かな団子を持って戻ってくる。旅人は礼を言ってそれを受け取り、それから奥に戻ろうとする娘を呼び止めた。


「すまないんだけど、少し話を聞かせてくれないかい?」

「はい? 何でしょうか」


 娘は目を白黒させて旅人を見た。旅人は、大したことではないんだけれど、と前置きをして団子を口に含む。


「ああ、美味しい。この店にして正解だったな。

 そう、それで、聞きたいこととは、ここから南に行ったところある、廃村についてなんだ。見たところ、比較的最近までは、普通に栄えていたような形跡がある。だのに、村には人っ子一人いない。

 何があったのか、知らないかい?」


 盆を胸に抱えた娘は、痛ましそうに瞳を揺らした。


「ああ……。お客さんは、そちらから来たのですね」

 そうして少しばかりためらってから、訳を教えてくれた。


「あの村には、天女様がいらしたんです」

「天女?」

「ええ。もちろん、噂です。なんでも、あの村の薬種屋は、天女が営んでいたんだとか。とにかく評判がいい薬種屋で、かなり遠くから、病に苦しむ人々があの村にお世話になったと聞きます」

「それはすごい。本当に効いたのかい?」

「そうみたいです。患者さんの体力さえ持てば、治せない病はなかったとか」


 そこで娘は言葉を切り、一寸の沈黙が訪れた。


「……けど先日、天女様がお亡くなりになったんです」


 天女はまだ若かったという。もちろん、本当に本物の天女であるなら、見た目通りの年齢という訳ではないだろうから、何とも言えないが。

 多くの人を癒しているうちに、どこかで病をもらったか、あるいは過労で倒れたか。天女が亡くなったと言う噂は、あっという間に広がった。


「それは……。なんとも、悲しいことだね」

「……はい。でも、悲しい、では済まない方も多かったようで」


 それは実際に病にかかった人々だという。天女の治療を受けていた者や、これから受けようと思っていた者。彼らにとって、天女の死はそのまま己の死につながる。


「そういった方々は、何が何でも治療を続けて欲しいと、天女様が亡くなってすぐに、あの村に押し寄せました。でも、もう天女様がいないから、残された薬種屋の方達には、どうすることもできなかったみたいなんです」


 きっと薬種屋も全力を尽くしたのだろう。しかしそれでも、天女の力には及ばない。


「もともと集まったのは、重い病に苦しむ方々でした」


 小さな村に病が蔓延するのに、そう長い時はかからなかったそうだ。


 伏し目がちに話を終えた娘に、旅人は数十文の手間賃を払った。

「辛い話をさせてしまって、すまなかったね」

「まあ、そんな。こちらこそ、お金まで頂いてしまって……。ありがとうございます」


 小銭を抱えて奥へ戻る娘の足取りは、心なしか軽い。

 旅人は串に刺さった団子をうまそうに頬張り、呟いた。


「さてはて。果たしてそれは天女だったのか、それとも疫病神と呼ぶべきか……。あるいは、ただの人と呼ぶのが、一番正しかったのかね」


 旅人は答えを求めている訳ではない様子で、それきり天女のことは口にしなかった。その代わり旅人の口は、団子と茶を交互に飲み込む。

 あちっという満足げな声が、旅人の口からこぼれた。

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