第4話 湖の主 後編

オビトは腹が立って仕方なかった。あのミツキとかいう優男、一体何なのだ。わけ知り顔で、上から目線で助言めいたことを言う。無関係で、なにもわかっていないくせに!


 けれどオビトはただ一つだけ、ミツキの助言に従うことにした。


(コウに会おう。もう、二度と会えなくなるのだから。最後にコウに会おう)


 オビトがコウの家に着くことには、すっかり夕刻になっていた。空が血の色に染まっている。

 オビトはコウの家に入った。すでに夫婦としての誓いを立てているオビトは、コウの家に上がりこむことに躊躇はない。


「コウ?」


 声をかけると、すぐにコウが襖の向こうから現れた。コウは薄い着物だけを纏い、髪もくしゃくしゃだ。まだ生贄の装束には着替えていない。コウはオビトを見ると、目に涙を浮かばせた。


「オビト……!」


 コウはオビトに飛びつくと、わっと泣き始めた。


「どうして、どうしてそばにいてくれなかったの? 怖かったんだよ。不安だったんだよ!」


 その瞬間、自分がいかに小さなことにこだわっていたのかを、オビトは思い知った。コウに会うのが怖い? そんな自分勝手な理由で、コウをこんなに怖がらせてしまった。


「ごめん、ごめんな」


 オビトはコウを抱きしめる手に力を込めた。コウの長く艶やかな髪に顔を埋めて、体を震わせる。

 助けたい。この小さな命を、オビトはどうしても助けたくなった。


(他のなにを捨ててもいい。その代わり、全員の命を救う方法……)


 オビトはミツキの言葉を思い出していた。でも、この村にはたくさんの命がある。両親の、兄弟の、友人の、たくさんの命を犠牲にして逃げるなんて。


(他に、あるか?)


 オビトは真剣に考えた。何を捨てれば、皆の命を救うことができる?


「……オビト?」


 コウがオビトの顔を覗き込む。しかしオビトはそれを無視して考え続けた。

 あの旅人は、何を思ったのだろう。水神をどうやって、なだめるつもりだったのだろう。


 いくら考えても、そんな方法は思いつかない。不可能だ。水神の怒りは、この辺り一帯にさえ影響するだろうに。

 そのときオビトははっとした。わかったのだ。旅人の言ったことが。


「コウ!」

 オビトはコウの肩を掴み、そして言う。あのとき伝えられなかった言葉を。


「大丈夫だ。コウ。お前は死なせない。絶対、俺が助けるから。信じて、待っててくれ」


 オビトは一方的に言い放つと、返答も聞かずに飛び出した。まだ日が沈んでいないとはいえ、生贄の時間まで一刻を争う。





 オビトはコウの家を飛び出すと、長老の家に駆け込んだ。そこには長老と、三人の長老の家族がいた。皆高齢で、村の権力者だ。


 ただ事ではない様子のオビトを見て、生贄の準備を進めていた長老たちは目を見張った。彼らはもちろん、オビトとコウの関係を知っていた。オビトがどんな行動に出るのか、警戒していようにも見える。


「長老!」

「どうした、オビト。そんなに慌てて」

「提案があります」


 まっすぐに長老を見つめるオビトに、長老は露骨に顔をしかめた。オビトは長老のそんな様子など気にした様子さえ見せない。


「村を、捨てましょう」


 静かに、しかしはっきりと言うオビトに怒号が飛んだ。


「なんだと!?」

「罰当たりな!」


 長老は片手を上げて、それを制した。周りの人間がぐっと言葉を飲み込んだ。長老はさすがというべきか、オビトの言葉に驚いた風さえなく、あくまで穏やかに問う。


「それは、お前がコウを連れて、この村を出て行くということかな」

「違います!」


 オビトには、コウの命が大事だった。でもそれと同じくらい、両親の、友達の、長老の、この村の、皆の命が大事だった。他のすべてを犠牲にして、コウと自分だけ助かるわけにはいかない。


 だから、他の物を捨てることにした。この村を捨てるのだ。


 水神は、土地神だ。この土地に対しては絶大な力を発揮するが、自らの土地を離れることはしないだろう。仮にこの地の神の怒りを買っても、他の土地へ行けばいい。水神の力の及ばぬ遠い地へ、皆で逃げればいいのだ。

 オビトの力説を、しかし長老は一蹴した。


「それはできぬ」

「どうして!」

「我らはここで生まれた。ここで育った。ご先祖様の代からこの土地の神に祝福され、この土地とともに繁栄した。

 若い者が、ここを出たいというのなら止めはしない。しかし私は、私たちは、この地を離れることはしない。例え、命を落とすことになっても」


 長老の言葉に、その場にいた全員がオビトを見て頷いた。


「だからね、オビト。お前が出て行くというのなら、それを止める権利は我らにはない。無論、コウも同じことだ」

「なんだって?」

「コウには、すでにこのことは話してある」

「え」

「コウはね、言ってくれたよ。私だけ逃げる事はできないと」

「……」


 オビトは言葉を失った。

 長老は、あまりにずるい。一見彼の言葉は優しさに満ちているようだが、違う。村人全員の命を人質に、コウに死ねと脅迫しているのだ。優しいコウが、自分だけ助かる事を許すはずがない。


 このような言い方をする事で、長老たちは罪悪感が薄れる。コウが自分で選んだのだと言い聞かせる事ができるからだ。これはコウの為なんかじゃない。自分たちの為だ。


「……ふざけんなっ」


 長老に向けて、オビトは掴みかかった。周りにいた者があわててオビトを取り押さえる。老人ばかりのこの家で、オビトの腕力を抑えきれる者などいなかった。オビトは長老に向けて、拳を振り上げる。


 振り下ろそうとする刹那、長老と目が合った。長老の目はトンボ玉のように透き通っていて、美しい。それを見て、オビトの拳からは力が抜けた。へたりと脱力して崩れ落ちると、オビトの上に乗るようにして、老人たちがオビトを取り押さえた。


「オビト、気持ちはわかる」


 長老が痛ましげに眉尻を下げた。ぐっと唇を噛んで、ゆっくり告げる。


「だが、村のためなのだ。わかっておくれ」


 そのとき、目の奥で何かが弾けた。後頭部に衝撃が走る。次いで目の前が真っ暗になった。

 ごめんよ……。誰かが、崩れ落ちるオビトに向かって再び言葉を落とした。





 目を覚ましたとき、オビトは座敷牢の中にいた。体を起こすと、後頭部に鋭い痛みが走った。手を当てると、たんこぶになっているのがわかる。


「いってぇ……」


 呻いて、それどころじゃないことを思い出した。今は何時だ? コウは? 生贄は? まさかもう、全て終わったなどということはないだろうな?

 振り返って、格子窓の外を見る。辺りは暗い。もういつ生贄の儀式が始まってもおかしくない。


(俺がまだ閉じ込められてるってことは、少なくともまだコウは無事のはずだ)


 オビトは思い切り飛び上がって、格子窓に手を伸ばした。ぎりぎり、触れることができる。


 オビトは大急ぎで帯を解いた。硬い帯を口にくわえて、再び飛び上がって格子窓にしがみつく。片手を離して帯を格子窓にくくりつけると、帯の中ほどを持って、そのまま飛び降りる。

 肩が抜けるかと思うほどの衝撃が走る。それでもオビトは懲りずに再び格子窓によじ登っては、飛び降りた。何度も繰り返すと、やがて格子窓がオビトの重さに耐えきれなくなって、壊れた。


「よしっ!」


 再び飛び上がり、脱出を試みる。格子がなくなった分、さっきよりも登りにくい。それでもなんとか掴まると、そのまま外へと逃げ出した。


「湖へ……!」


 オビトは帯を雑に締め直し、湖に向かって転がるように走り出した。もう、何をどうしたら良いのかもわからない。けれど、じっとしていることだけは、できなかった。


 息を切らして湖にたどり着くと、村人はまだいないようだった。どうやらオビトはそれほど長く気を失っていた訳ではなかったようだ。


 水面に映る月光がきらめいて、辺りを蛍が飛び交っている。青々とした竹林が水面に影を落とし、景色に陰影を加えた。幻想的な風景だった。オビトは現実離れした絶景に見とれて、寸の間惚けたように湖を見つめた。


(あれ……? 人がいる)


 先ほどまでは誰もいないように見えたのに、今オビトの視線の先に、男がいた。その男はしゃがみこんで、湖の水に触れているようだ。

 さらに近づくと、その男が先ほど出会ったミツキであることがわかった。


「み、ミツキさん!?」


 思わず声を張り上げると、「しー」と唇に人差し指を当てたミツキが、ゆっくりとこちらを向いた。


「やあ、オビトさん。生贄のお嬢さんには、会ってきたかい?」

「あ、ああ」

「それはよかった」


 にっこりと場違いな笑みを浮かべるミツキは、湖に映った月をすくい取ろうとするかのように、ぱしゃぱしゃと音を立てて水面を揺らした。


「あんた、いったい何してるんだ」

「呼んでるのさ」


 ミツキの答えは、とてもわかりにくい。


「何を」


 決まっているではないかと、ミツキは答えを焦らした。そしてオビトが苛立って催促しようとした頃になって、ようやく言葉を継ぐ。


「生贄を要求していると噂の、水神を……さ」

「はあ?」


 そのときだった。湖が盛り上がり、オビトの家ほどの大きさの龍が姿を現した。鱗は鋼でできているのではないかと思うほどの光沢にきらめき、ゆらゆら流れる長い髭が、龍の生きてきた年月の長さを物語っている。人間など歯牙にもかけぬ偉大なるその姿に、オビトはただただ畏怖の念を覚えた。


「す……水神さま」


 その声に呼応するように、水神は赤い目玉をぎょろりとオビトに向けた。


「我を呼んだのは、お前か?」


 胃の腑を揺すられるような轟音で、水神はオビトに話しかけた。オビトは目を丸くするばかりで、水神の言葉に応えることもできない。


「お前さんを呼んだのは、私だよ」


 水神を目の前にしてもなお、相も変わらずのんびりとした様子のミツキが手を挙げた。お前呼ばわりされた水神が、目を血走らせてミツキを睨む。


「ほう、お前か」

「ミツキと呼んでおくれな」


 オビトは心の内で頭を抱えた。ミツキが何を考えているのか、さっぱりわからない。オビトのそんな葛藤になど一切気づいた様子もなく、ミツキはのほほんと続ける。


「お前さんのことは、何と呼んだらいいかね」

「水神、で構わん」


 水神は寛大にも、ミツキの戯言に付き合っている。しかしミツキは、水神の好意をあっさりと足蹴にした。


「それは無理だ」

 ぴくりと、水神の髭が動いた。


「なぜ?」

「だって、お前さんは水神ではないもの」


 寸の間、水神の動きが完全に止まった。しかしすぐに動き出すと、巨大な首を左右に振る。


「何を馬鹿なことを」

「馬鹿なのはどっちだ」


 水神の言葉を遮って、ミツキが言葉をかぶせた。先ほどまでの穏やかな口調はどこかに放り捨て、言葉尻にはうっすらと怒気さえうかがえた。オビトは息を飲んだ。水神のことよりも、ミツキが怒っていることが意外であった。


「本当に水神なら、人の子を喰らうなど有り得ないことだ。だがごく稀に、血で狂った神がいることもあるから、一応確かめてみたけれど、お前さんからは神の気配がしない。

 妖だろう、お前さんは」


 水神……いや、龍は、ミツキの言葉に余裕を失っているように見えた。落ち着きなく視線を彷徨わせて、そしてとうとう覚悟を決めたらしい。

 龍はミツキに向かって、巨大な尾を振り下ろした。


「ミツキさん!」


 叫ぶが、もう遅かった。狙い違わず振り下ろされた尾は、ミツキを踏み潰す……はずだった。


「それが答えでいいね?」


 聞こえてきたのは、潰されたはずのミツキの声だった。よくよく目をやると、龍の尾はミツキの体を避けるように、不自然に折れ曲がっていた。

 龍の顔に、明らかな動揺が走る。再び尾を振り上げるが、それを振り下ろすより先に、尾を動かすことができなくなった。


「なにっ!?」


 竹林が、凄まじい勢いでその背丈を伸ばしていた。普通はまっすぐ空に向かうはずの竹が、空中で折れ曲がって湖の真上まで伸びてくる。そしてミツキを守るように、龍の尾を絡め取るのだ。龍は身動きを取ることさえできなくなって、必死になって身をよじる。

 ミツキが不自然に伸びた竹を渡って、龍の顔のあたりまでやってきた。


「私は別に、人間を食うなとは言わないよ」


 それも一つの輪廻だからとミツキは言った。


「何も食べなかったら、お前さんが死んじゃうしね。

 けどね、あれはいただけない」


 オビトの視力ではミツキの表情は見えないが、きっといつもの穏やかな顔をしているに違いない。


 龍の罪は、神の名を騙ったことであるという。


「悪いけど、私は、それを見逃すことはできないんだよ」


 ごめんね。ミツキはそう言うと、龍に背を向けて竹から飛び降りた。ミツキが地面に降り立つと、竹が指令を受けたかのように動き始める。みしっ、と嫌な音がした。

 オビトが見ている前で、龍の体が文字通り千切れた。村を恐怖のどん底に陥れた龍が、ただの肉片と成り果てて湖にぼたぼたと落ちていく。


 龍の肉が湖に落ちると、水面が波立った。肉が落ちた波紋とはまた違う。よく目をこらすと、巨大な魚たちが我先にと龍の肉を貪っているところだった。

 呆然と事の成り行きを見つめるしかできなかったオビトに、ミツキが照れ臭そうに頭をかきながら近づいてくる。


「いやあ、恥ずかしい。みっともないところを見られてしまったね」


 オビトは無遠慮にミツキをまじまじと見つめた。なんだか情けない男。出会った時となんら変わらない印象しか持てない。しかし先ほどの奇跡をこの男が起こした事に間違いはなく、ただの人にそんな事は不可能だった。


「これで、お前さんの恋人は助かるだろう」


 本物の水神は、無事だという。暴れる龍に手を焼いてはいたが、彼が望んでこの地に水害を起こすような事は決してない。だから安心していいと。

 オビトはかすれる声で、ようやく疑問を口にした。


「あんた、一体……?」


 ミツキはいつもの、情けなくも優しい笑みを浮かべて、言った。


「私はミツキ。ただの旅人だよ」


 そのとき、湖の上で龍を串刺しにした竹が崩れ落ちた。轟音を立てる湖を見つめて、それから再び視線を戻すと、そこにはもうミツキの姿はなかった。


 何事もなかったかのような美しい湖で一人たたずむオビトの耳に、やがて喧騒が届いた。そちらに目をやると、生贄の装束を着たコウが輿に乗ってやってくるところであった。

 オビトは無事であったコウを想い、目に涙を浮かべた。


(さて、一難去ったとはいえ、ここからも大変だな)


 何しろ、龍はもういないという事を、長老たちに納得させなくてはならないのだから。

 オビトは口元に笑みを浮かべた。それは少し情けなさそうで、でもとても優しい笑みであった。

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